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歩こう会・篠栗霊場めぐり   




【心を安らかにして】丈夫で長生きするために、
篠栗八十八ヶ所霊場めぐり
【日時】      平成17年2月8日(火)JR城戸駅前集合
【参加人員】   34名
 

【コース】  釈迦涅槃像(60)神変寺/釈迦涅槃像前広場〜(71)城戸千手観音堂〜(1)南蔵院〜(45)不動堂〜(58)大久保観音堂〜(88)大久保薬師堂〜(6)小浦薬師堂〜(13)大日堂〜(3)釈迦堂〜(31)文殊堂〜城戸駅入口周辺(昼食)〜(53)桐の木谷阿弥陀堂〜(55)桐の木谷大日堂〜(22)桐の木谷薬師堂〜(2)松ヶ瀬阿弥陀堂(解散)
2月8日(火)笹栗・涅槃像前に34名が集合。 世話人より笹栗八十八霊場の歴史について説明を受け一番札所・南蔵院を打ち出しに、山あり谷あり上がり下がりのお遍路を巡り、十一の寺院・お堂を参拝しました。今日一日「心が安らかに」明日から「丈夫で長い生き出来そうな」気分になり、皆さん満足な体でした。これも弘法大師御徳のおかげです。 歩行距離7Km。(野田 弘信)
関連情報のリンク先 篠栗霊場マップ
篠栗町HP 札所番号順一覧表
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日本三大四国の一つとして全国的に知られる篠栗霊場は、広大な景勝の中に、八十八カ所の霊場を包容し、開創以来160有余年に亘って、人々の心に祈りと安らぎを与え続けています。その起源は古く、大同元年(806年頃)弘法大師が唐より帰朝した際、折しも長い日照りに苦しむこの地を訪ね、若杉山を最初の霊場として雨乞い祈祷を行いました。天保5年(1834年)慈忍尼(じにんに)がこの地に草庵を営み大師の教えを広める傍ら、この地に四国八十八カ所の霊場を模擬しようとしたのですが、その努力も中途で終わりました。この慈忍尼の志を、藤木藤助翁が受け継ぎ病弱な体をおして苦心の末浄財を集め、ついに八十八ヶ体の仏像を彫刻しました。さらに同志5名とともに、本四国霊場を巡拝し、持ち帰ったお砂を仏像の中に納め、村内各所の聖地に配置したのが、今日の霊場の始まりです。
「釈迦涅槃像」広場
全長41メートル、高さが11メートル、重さは約300トンもあるブロンズ製の巨大な釈迦涅槃像があります。ブロンズ製の涅槃象としては世界最大で、ニューヨークの自由の女神を横にした大きさとほぼ同じだそうです。平成7年(1995)5月に完成したもの
第60番札所[神変寺]
このお寺は、篠栗四国霊場の中でも一番小さなお寺であり、寺というよりもお堂といったかんじである。本尊の大日如来の右横に弘法大師、その脇に役の行者神変大菩薩が祭られている。寺名もこの神変大菩薩の神変からきています。神変とは人の知恵では,はかり知れない不思議な変化ということで、役の行者・行小角(えんのおずぬ)という人物のことで、鬼神を使い、呪術にたけ、空を飛び、山伏たちの祖といわれているが、実のところ生まれた年月や両親は誰か、またいつどこで他界したのかまったく謎に包まれた人物である。神変寺はその昔、八木山峠の中腹にあって奥の院に継ぐ難所で、峠を越える荷馬車の馬方が道中の安全を祈願する札所でもありました。その後、峠の札所は、郷の原の川沿いに移転し、さらに昭和59年、南蔵院の別院・神変寺として松ヶ瀬の国道を入り込んだところに移り、本堂をはじめ大師堂など建立されたが、涅槃像の建造にともない71番札所の横に仮移転され、涅槃像の完成により現在の元の位置に戻ったそうだ、なんとも大変!なお寺だ。六十番札所のすぐそばに涅槃蔵の体内への入り口があります。体内の通路には第一番札所から第八十八番札所まで札所番号を刻んだ石だたみが順番に並べられており、此れらを踏みしめながら通り抜けると、八十八ヶ所すべてをお参りしたことになるそうです。

第71番札所[城戸千手観音堂]
七福神トンネルを出ると左手におやすみ茶屋があり、お茶の接待が受けられる。その向かい側が城戸千手観音堂、この71番札所は別名足手観音堂とも呼ばれ本堂右手にその表札が掛かる。そのいわれに次のようなエピソードがある。昭和の初め、久留米の女性が足や手がしびれる病氣にかかり、主人に付き添われてこのお堂にやってきた。そして籠もり堂に滞在し祈願を続けたところ、半年後には全快し、自分の足で歩いて帰ることが出来たそうだ、以来いつのまにか足手観音と呼ばれるようになった。 句碑の横に釈迦涅槃像に行く案内板があり、それに従って行くと本堂の下を左に曲がると、6体のわらべ地蔵にで会う。よく見ると、あくびをしたり、居眠りしたり、合掌したり、聞き耳たてたり、その仕草が何とも微笑ましい。わらべ地蔵の先を進むと七福神トンネル、入り口の右に慈母観世音菩薩、左に白衣観世音菩薩が奉納されている。
   城戸千手観音堂           おさすり観音菩薩 わらべ地蔵
第1番札所[総本寺南蔵院]
正式の名称は「高野山真言宗別格本山、篠栗四国総本寺」といい、八十八ヶ所霊場の一番札所です。本堂を中心に、左側には「大師堂」、「不動明王」、「三宝荒神」があります。この不動明王像は高さが11メートルもある巨大な厄除け不動尊です。さらに右側には「わらべ地蔵」、その先に「七福神トンネル」があり、このトンネルを抜けると「釈迦涅槃像」がある広場に出ます。南蔵院は、もともと高野山にあったお寺です。今から170年前、江戸天保年間に開かれた篠栗四国霊場は、明治時代に入り廃仏毀釈のあおりを受け霊場廃止命令がくだされました。困った地元の人々が存続の陳情や嘆願を30年にわたり続けました。高野山 千手谷にあった南蔵院を招致し、すべての札所を南蔵院の境内地とすることにより存続を認められました。初代住職の林 覚運は当時20代前半の若さでお堂の大きさは、わずか4畳でした。多くの信者さんの尽力や歴代の住職の布教により今では、年間120万人の方が、お参りに来られるようになりました。
        南蔵院 ・大師堂                  本堂内                    
不動明王 龍 神 様
昭和36年10月に建立された高さ11mにもなる大きな不動明王の立像は、厄災を払うことでよく知られています.「梁塵秘抄(りょうじんひしょう)」の中に不動明王のことが次のように書かれている「不動明王恐ろしや、恐れる姿に剣を持ち、索を下げ、後ろに火焔燃え上るとかやな、前には悪魔寄せじてと降魔(がま)の相」さまざまな煩悩を焼きつくし、悪魔を降伏し、悟りの知恵を開き、さらに長寿、極楽行きを授けてもらえるありがたい仏様です。
第45番札所[城戸ノ滝不動堂]
篠栗新四国八十八ヶ所霊場の発願者である慈忍が、伝染病に苦しむ村民のために、この滝に打たれて病気平癒を祈ったとされる、歴史あるお滝場。南蔵院の大不動明王像から脇の石段を登った所に札所がある。45番のお堂はコンクリート造り、本堂左に不動の滝が掛かり、右横には、滝行する人のために籠堂(更衣室)があり 滝の手前にに架かる橋を渡ると、平家の落人がひそんだといわれる平家岩という巨大な岩がある。本堂右横に不動霊水窟があり中に石を彫刻した不動明王が祀られていて、前には巨大な金剛杵が奉納されている
第58番札所 大久保観音堂
88番札所の階段を降りると50m先に58番札所はある。本尊の千手観世音は木彫り金箔仕上げ、仏師小川静雲による大正15年の作だそうだ。この札所は試験合格に御利益があり、堂内には祈願成就の千羽鶴が掛かっている。本堂左横には十三仏堂
第88番札所 大久保薬師堂
88番は途中民家もなく単調な林間を行くのでものすごく長く感じられた。やっと人家が見えると、そこが88番札所だ。38段の石段を登った高まりに本堂がある。四国の88番札所大窪寺は結願の寺だが、篠栗では79番札所補陀洛(ふだらく)寺が打ち納めになっている。お堂の中に壇があり、盆の上に水差しと杯がおいてある。説明書きに薬師水とある。この薬師水は、階段登り口の左に小屋で囲った、浅い井戸があり、そこの水が若杉奥の院の独鈷水と同じ味がすると、お遍路さんが好んでのまれるとのことで用意しているそうだ
第6番札所 小浦薬師堂 第13番札所[城戸大日堂]
本尊は四国安楽寺からの勧請で、昭和62年に金箔修理された。この札所では、足の不自由だった守堂者の奥さんの足をお薬師さまが直してくれたという霊験箪もある。 境内には、十三仏、立江地蔵尊と並び、網救身代わり大師が祭られていて、由来書きを読むと「明治以前、玄海沖にて乗組員の身代わりとなって海中に沈み53年間荒波にもまれ大業をなされ、明治20年に漁夫の網に救われ、再びこの世に出現、これより後は、人々を救う霊験あらたかな身代わり大師となった」そうだ。
第3番札所[城戸釈迦堂]
篠栗霊場の中心地、高野山真言宗別格本山、篠栗四国総本寺南蔵院のある城戸で1番札所、南蔵院の参道や境内の隣りに、5カ所の札所が点在する札所のメッカです。3番、31番札所は国道から南蔵院への入り口付近、すぐそばにあります
釈迦堂                    別格本山南蔵院の石柱
第31番札所[文殊菩薩]
本尊の文殊菩薩は、八十八カ所の札所の内、唯一の本尊である。悟りの智慧を象徴する菩薩、普賢菩薩と共に釈迦如来の脇侍として左に鎮座する形態がよく見られ、右手に知剣左手に青蓮華を持って獅子に乗る姿で表されるのが多い。日本神道の学問の神様が菅原道真なら、仏教の知恵を代表するのがこの文殊菩薩である。インドの発音をより正確に伝えて文殊師利(しり)菩薩と言うのが正式な名である。3人寄れば文殊の知恵の諺もこの菩薩に由来する。さすがに智慧の仏様だけあって、狭い堂内には数多くの試験合格祈願の札や千羽鶴が奉納されている。
昼食後急な坂道を梅の花を眺めながら番外の子安観音で休息、眼下に釈迦涅槃像を見て、子安観音横の磨崖仏を見学
第53番札所[桐ノ木谷阿弥陀堂]
本尊は、金箔が施された阿弥陀如来、この本尊は、昭和2年博多区箱崎馬出(まいだし)の信者により奉納されたものだそうです。
第55番札所[桐ノ木谷大日堂]
この札所の本尊「大通知勝如来」は八十八カ所の札所でここだけである。「偉大な神通力と知識をもって最高の者」の意味を持つ仏様である。本堂は、唐破風(からはふ)造り、前には大師堂、本堂横に十三仏堂が並ぶ。
第22番札所[桐ノ木谷薬師堂]
お堂は、小堂ではあるがまだ新しく造りも美しい、境内も砂利がひかれ清楚な感じがします。本堂横に稲荷堂、十三仏堂、子安堂がある。ここのお薬師さんにも次のような実話が残されています。生まれながら盲目の女の子が、毎年家族と共に参拝に訪れていました。14才になったある日、突然目が開いた、これには本人はもとより家族もびっくりし「これは薬師如来のお陰」と毎年お礼参りをかかさなかったそうです。100m先のT字路に日本神話の神 猿田彦大神の石碑があった。
薬師堂        猿田彦大神
第2番札所[松ヶ瀬阿弥陀堂]
この札所は、堂内の阿弥陀如来の右横に祀られる「淡島大明神」でよく知られている。淡島明神は、日本古来の姿をした女神像で、住吉大神(すみよしおおみかみ)の后(きさき)であったが、婦人の病にかかったため淡島に流された。それ以来、紙人形を海に流し、婦人の病に苦しむ人々を救うことを誓われたという由来があります。よって、婦人病、難病奇病に効きめがあるそうです。本拠地は、和歌山の加太(かた)神社に祀られていて、江戸時代中期に、淡島願人によってその縁起や効験が広められた。
阿弥陀堂 最後は野田さんより次回の説明を受けここで解散。
追記    帰宅の途中 34番・75番札所に寄ったときの写真です
75番札所  大石仏 75番札所  本堂
34番札所   宝山寺本堂 34番札所 水子地蔵