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【日時】
平成22年8月3日(火)~4日 1泊2日   (集合)博多埠頭第2ターミナル              
【参加人員】    33名
【コース】  【1日目】 博多埠頭・第2ターミナル(10:00発フエリー)~壱岐・郷ノ浦港~壱岐文化ホール・ステゴドン象~松永 安左エ門記念館~一支国博物館~船着き場の跡~原の辻遺跡~錦浜海岸:(民宿)繁屋千賀荘  
【2日目】 ショッピング:海女心本舗(あまごころ)~黒崎砲台跡~掛木古墳・風土記の丘~勝本城跡(かつもとじょうあと)~樋詰城跡・平景隆の墓~千人塚~白歯雪公園~元寇の戦跡(少弐公園)~芦辺港~(16:15発フエリー)~博多埠頭

8月3日12時、フエリー(ちくし)は長崎県壱岐市郷ノ浦港に到着。気温35℃暑い々々! にも負けず歩き出す。 目指すは日本が大陸と陸続きであった証拠の古代象「ステゴドン象」を見に行く。途中、熱中症対策として貸切りバスにて、電力の鬼「松永安左エ門記念館」、最近オープンしたばかりの「一支国博物館」を見学。今から2千年前の弥生時代に栄えた「原の辻一支国王都・環壕集落」の古代住居群を隅から隅まで歩いて確認する。泊まりは美しい海岸の錦浜の民宿。 広々とした玄界灘を眺めながら入浴。魚々の夕食を満喫、ワイワイガヤガヤの話の後はスヤスヤ熟睡?翌4日は、早朝、東の水平線から昇るご来光を拝む。 朝食後は奇麗な女性ボランティアガイドによる歴史探訪。 有名な奇岩“猿岩”⇒黒崎の砲台跡 ⇒ 掛木古墳 ⇒ 勝本城 ⇒ 蒙古襲来の樋詰城・千人塚・少弐公園・壱岐神社を訪ねる。 この日も前日に劣らず暑い々々の一日。 やっとの思いで芦辺港のフエリーターミナルに到着。 フエリー(つしま)船中ではしばしの仮眠。 18:30博多港埠頭にて解散。2日間の歩行距離は8km、全員熱中症にならず良かった。これも日頃の歩行の賜物。(野田 弘信)

写真撮影:笠井雅弘 原田和夫 福永攻治
玄界灘に浮かぶ歴史の島 壱岐

住所/長崎県壱岐市・郷ノ浦/勝本/芦辺/石田
面積/133.80km2●周囲/167.5km
人口/約3万人(S40年代5万人がピーク)

●壱岐島は佐賀県の東松浦半島から北北西へ約22kmの玄界灘に浮かび、対馬島とともに古くから九州本土と朝鮮半島を結ぶ海上交通の中継地としての役割を担ってきたしまです。

●魏志倭人伝や中国の史書に記される「一大國」、あるいは「一支國」とはこの壱岐島だとされ、東南部の「原ノ辻遺跡」から出土される数々の遺品は、その中心集落だったことを物語っているそうです。

●壱岐は何度も大陸からの侵略の犠牲になりました。
大和時代には朝鮮半島からやってくる海賊に悩まされ、平安時代の刀伊の入寇(1019)、鎌倉時代の元寇襲来(1247、1281)と大陸から攻め滅ぼされ、多くの犠牲を強いらた島でもあります。
江戸時代には松浦党の流れを汲む平戸松浦氏が治める平戸藩の一部となりました。
一方、太平洋戦争では本土が食糧難で大変な危機状態なときは、ここ壱岐では自給自足ができた唯一戦争の影響ない島だったそうです。
博多埠頭・第2ターミナル~フエリー~壱岐・郷ノ浦港
今回の歩こう会は歩こう会の10周年記念行事として、遺跡と歴史の島 壱岐を訪れました。壱岐は文化は福岡、行政は長崎、最短距離は佐賀です。人口は約3万人、博多からはフエリーで2時間15分、高速船では1時間と非常に便利な近い島でした。2日間、猛暑の中、やり手のガイド・松永さんの壱岐の歴史や遺跡、観光名所を案内していただいて暑さも忘れ、楽しい観光ができました。
博多埠頭・第2ターミナル フエリーつくし
壱岐・郷ノ浦港
フェリーの先に見えるのは郷ノ浦大橋で桟橋は左手前です。
郷ノ浦港 歩こう会初参加の山本武征さん
郷ノ浦到着後、早速壱岐文化ホールまで歩きました
壱岐郷土館のステゴドン象
壱岐の郷ノ浦港から県道175号線を少し北に行った所に「壱岐文化ホール」があり、この「壱岐文化ホール」に併設してあるのが「壱岐郷土館」と「郷土美術館」でその裏にステゴドン象(復元)がありました。。

壱岐の旧石器時代・ステゴドン象」の化石を発見

発見された六郎瀬鼻(ろくろうせばな)の海岸は玄武岩、凝灰岩(ぎょうかいがん)、流紋岩(りゅうもんがん)で500万年前の地層です。この地層から、昭和46年に、中学校教師の田島俊彦さんが「ステゴドン象」の化石を発見しました。軽石の混じった、泥や砂礫、小石の中から、発見されたのは牙の大きさの違いから、2頭分の化石であることが分かりました。発見されたものは、肋骨(ろっこつ)、臼歯(きゅうし)、象牙(ぞうげ)、脊椎(せきつい)、大腿骨(だいたいこつ)などでした。象牙の長いものは1.2mもあり、太さは直径20cmというものもありました。牙の長さから推定すると、背の高さが4mはある、と思われます。ステゴドン象は、今から1200万年前から200万年前に、インド、中国、日本などの東アジア大陸やアフリカに生息した象で、皆さんたちが良くご存知のマンモスの祖先といわれています。この化石が発見されたことから、壱岐は当時、大陸と陸続きで、象や多くの動物たが自由に往来していたことが分かります。出土層一帯は県指定天然記念物になっています。実は、まだ掘り出していない化石もあるのではないかという話しもあるそうです。
六郎瀬鼻で発見されたステゴドン象(復元)前にて
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松永 安左エ門記念館 
この記念館は明治、大正、昭和にかけて、日本の電力の普及と振興に努め、日本の産業経済発展の基礎を築いたといわれています松永安左エ門の功績を伝えるために、生家跡に建設されたものだそうです。生前愛用した所持品や文書などが展示されており、「日本の電気王」「電力の鬼」と称された氏の偉業を知ることができました。記念館の前には、明治42年に設立した福岡市電が設置していました。
松永安左エ門の銅像と遺言状
一支国博物館

壱岐市立一支国博物館(いきこくはくぶつかん)は、長崎県壱岐市に2010年(平成22年)3月14日に開館した博物館で近傍にある「魏志倭人伝」に記された一支国の王都跡とされる原の辻遺跡や壱岐島内の遺跡に関する資料や出土品を収蔵展示しているところです。
黒川紀章建築都市設計事務所の設計によるもので、鉄筋コンクリート造地上4階・地下1階建で外観は原の辻遺跡からの眺望を損なわないものとして、周辺の山並に溶け込んだものにするため、屋根の起伏は弥生の原風景としてかつてあったであろう地形の復元を目指し、屋上は緑化されていました。

原の辻(はるのじん)遺跡
芦辺町と石田町にまたがる「原の辻遺跡」は、紀元前3世紀~4世紀初頭に栄えた弥生時代の大環濠集落遺跡で、佐賀県の 「吉野ヶ里」、福岡県の「平塚川添」遺跡とともに、北九州における3大環濠遺跡として、日本でも初めての「姉妹遺跡」 という遺跡提携ネットワークを結んでいます。壱岐の島には、弥生時代遺跡は60カ所ほど発見されていますが、一番規模が大 きいのがこの原の辻で 「南一海を渡ること千余里。名づけて瀚海(かんかい)という。一大(支)国に至る……」。倭人伝には30余の国名が出 て来るが、今のところ、実際の遺跡が証明されたのはここ以外にはないそうです。
日本最古の船着き場の跡
平成8年(1996)の発掘調査によって、遺跡の北西部で大規模な堤防状の遺構が出土し、長崎県教育委員会は、同年9月 に「日本最古の船着き場の跡」と発表しました。弥生時代中期(前2世紀~紀元頃)の遺構で、東西に堤防が突き出たコの字形 で、両堤防の間隔は11m、盛り土の高さは最高約2m。盛り土の周囲に多量の石を積み上げ、基礎部分に木材などを敷き 地盤沈下を防ぐ「ハイテク技術」を駆使していました。それまでの国内船着き場跡で最古のものは、平安時代末の周防国府跡 (山口県)でしたが、原の辻の船着き場はこれを一気に千年遡らせたことになるそうです。
左は発掘当時の新聞記事 原の辻の「船着き場」の模型
一支国が交易と交流によって栄えた住居跡
現在までの発掘調査の結果、原の辻遺跡は大規模な三重の環濠をめぐらす弥生時代の集落遺跡であり、中国や朝鮮との交流を示 す多彩な文物が出土するなど、いわゆる魏志倭人伝に言う「一大(支)国」の王都だそうです。他の遺跡 と違い、ここ原の辻は、魏志倭人伝の記述と現実の遺跡の実態とを比較できる、唯一貴重な遺跡集落であり、内濠、中濠、外濠に囲まれ、その規模は東西約 350m、南北約 750mです。遺跡の総面積は 100万㎡におよび主な 出土品としては、中国大陸・朝鮮半島、および日本国内外の地域との交流を示す土器や青銅器など貴重な資料が多く、日本 最古の「木製楯」、高床式建物の床材(床大引材)、日本最多出土の「銅鏃」、日本唯一の「ココヤシ笛」、「捕鯨線刻絵 画土器」「五朱銭・貨銭」「人面石」などが有名である。遺構としては、「船着き場」を初めとして、竪穴式住居群跡、高 床式建物跡、祭祀関連遺構などがあるそうです。
一支国の王都の中心
後ろの丘には一支国博物館が見えます 歩こう会参加の姫君の皆さん
(宿泊先)   錦浜海岸:繁屋千賀荘
宿泊の民宿は壱岐空港の横のオーシャンビューの立地で、海外線の綺麗な、海水浴もでき、早朝は水平線に現れる朝日が見えるところでした。当日は海水浴客で満員状態でした。
予定より、早く宿に入り、海岸で泳いだり、散歩したりして夕食まで過ごしました。
早朝の朝日撮影
笠井さん撮影 原田さん撮影
2日目
海女心(あまごころ)本舗での買い物
今朝は 例のお土産屋からのまわし者のガイドの策略に乗せられて宿を8時半に出発、海女心本舗に強制連行されました。それぞれ買い物袋は一杯で壱岐の景気浮揚に貢献したようです。ガイドさんは嬉しそうでさらにガイドに拍車がかかりました。
壱岐 黒崎砲台跡
第一次世界大戦後の1922年(大正11年)、ワシントン軍縮会議で、米、英、日の主力艦の所有率を「5:5:3」とすることになり、日本では、その結果、戦艦土佐などの主力艦を廃棄することになりました。しかし軍艦は廃棄しても、軍艦の主砲は保存しようとした軍部は、主砲を利用して、秘密要塞を作りました。壱岐では、ここ、黒崎半島に砲台を造ることになり、用地買収を進め、昭和3年8月から5年を費やし、昭和8年地下7階建ての大きな砲台が完成しました。設置された砲台は、戦艦「土佐」に搭載されていた主砲です。
砲台は、
砲身の長さ18.83m、口径41cmの2連砲の砲台で1tの弾丸を35kmも飛ばすというとてつもない巨砲でした。
180発の砲弾を準備していました。2分間に一発発射でき、8発打って1発あたればよいという計算をしていました。一発の大砲を射つために地下3階(14m)にわたって数100人が働いていました。対馬海峡を航行する艦船を攻撃するための要塞砲として作られ、玄海灘をすべてその射程内においていたほどの巨大砲でした。同じような砲台は、対馬にも造られ、壱岐と対馬の距離はおよそ68kmなので、玄界灘を通る軍艦は全部その射程距離に入っていたことになりなす。砲台は、使用しないときには、地下に潜っていて、地上に出ているのは、射撃室だけでした。実はこの砲台、試射のみで、
実戦には使われませんでした。終戦後はアメリカ占領軍によってハッパをかけられたそうですが完全には破壊できず、八幡製鉄所の手によって処分されたそうです。
当時の資料
右の写真は砲台を真上から見たもので穴の直径は約10m
巨大な空間は、砲台の土台で、弾薬庫や砲台まで弾を送りこむ装置などがあった場所だそうです。しかし大きい。
壱岐の猿岩(いきのさるいわ)
壱岐の猿岩は全国各地にある猿岩の中で最も猿にそっくりな形状をしているそうで見れば見るほどソッポを向いた猿岩でした。
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やはり集合写真の場所が一番のサル顔でした。
猿岩を裏側から見た所です。
猿岩から見た海岸線
掛木古墳・風土記の丘
6世紀末~7世紀前半の築造。円墳で、墳丘の直径は約30m。県下で唯一の「くり抜き式家形石棺」を持つ古墳として有名。大きな石をくり抜いて造ってあり、屋根の形をした蓋も同様の作り方だそうです。
諏訪の御柱
河合曽良が旅の途中、病に倒れて客死したのが勝本町。出身地である長野県とは友好都市関係を結んでいる。諏訪大社の無形民俗文化財「御柱祭り」の御柱を諏訪市より贈呈されたそうです。御柱は触ると御利益があるそうで早速触りまくりました。
勝本城跡(かつもとじょうあと)

勝本城は、1591(天正19)年に豊臣秀吉の命を受け、松浦鎮信が朝鮮出兵の出城として風本(かざもと)、現在の勝本に築いた城で、国の史跡に指定されています。築城には有馬氏、大村氏、五島氏といった現在の長崎県を本拠を置いていた大名が補佐役を務め、短期間で完成しています。現在天守閣の面影は残らないものの、虎口など当時の面影が残ってて天候に恵まれれば、対馬を一望でき、朝鮮出兵の際の拠点として重要視されていたことがうかがえるそうです。

勝本城跡からの勝本港
元寇について
日本は国の存亡を掛けた大きな戦いが2回ありました。1回目は「元寇」であり、2回目は「太平洋戦争」です。元寇の戦は幸運にも助けられかろうじて勝ち、太平洋戦争は徹底的に負け戦さでした。1回目は攻められ、2回目は他国に攻め入って自国を滅ぼした。 この二つの出来事は700年の時を隔てており、両者の間には何の関係もなさそうに見えるが、実はこの2つの出来事は 大いに関係があります。それは、元寇の勝利が太平洋戦争の敗北をもたらしたということです。「神風」に象徴される「神国日本」の思想は、やがて皇国史観に発達し、日清・日露の戦いを経て、ついに日本 は太平洋戦争で列強諸国に敗北しました。しかしそれは、他国に負けたのではなく、この自国の皇国史観に負けたとも言え、 そういう意味ではフビライ・ハンは、700年後にやっと日本を負かしたとも言えます。
文永の役
 文永5年(1268)、元の使者が国書を持参して通交をもとめたが、朝廷と幕府は拒否し、返書を出さなかった。その後、何回も使者を送って来たが、当時の国際認識が少なかったので執権
北条時宗は、これを追い返した。蒙古来襲に備え神社や寺院に祈祷した。一方、返書の来ないのを怒ったフビライは、日本遠征を決意し、蒙古入・女真人・中国人など約2万人高麗軍8000人、舵取り水手など6700人、合計900艘の船団の元軍は、文永11年(1274)11月3日、朝鮮合浦を出発し、対馬の佐須浦の海上に現れた。やがて上陸し、9日間も対馬にいたので、広い地域で被害在受けた。10月14日、元の大軍は、壱岐の北西海岸沖に現れ、400人ばかりが上陸した。赤幟をかかげ、東方を3度、沖の方を3度拝んだということが伝わっている。平景隆は、百余騎をひきいて戦ったが、全員戦死した。日蓮上入は、元・高麗軍に占領された対馬・壱岐の様子を「百姓等を、男をば殺したり生取にしたりし、女をば取り集めて手をとおして船に結いつけたり生取りしたりした。一入も助かった者はなかった。壱岐を攻め寄せたときもまた同じであった」と悲惨の状況を伝えている。

壱岐を侵した元軍は、松浦半島沿岸の浦々と島々を侵し、10月19日、博多湾に進入した。翌20日、上陸を開始、
少弐景資が大将として陣をはり、博多に進撃する元軍をむかえ討った。しかし、博多の各所に火の手があがり、箱崎八幡宮も焼け、日本軍は太宰府まで退いた。元軍は夜になると軍船に引揚げた。それが朝になると、博多湾をうめつくしていた元の軍船が、うそのように姿をけしてしまった。博多湾から姿を消した元軍の大船隊は、約4万人のうち1万3500人がかえらず、11月27日、高麗の合浦に着いた
樋詰城跡
新城神社は、壱岐の守護代・平景隆の本陣である樋詰城があったところ。1274年(文永11)10月14日、壱岐の北西海岸から上陸した元軍と果敢に戦うが、大軍勢と近代兵器に次第に追い詰められた景隆はいったん樋詰城に退却したが、翌15日に絶望のうちに自刃したとされている。
新城神社拝殿脇に平景隆の墓所がありました。 神社にあった平景隆の切腹の絵
千人塚
元寇で亡くなった人の、冥福を祈るために、当時に作られた墓で千人塚と呼んでいます。壱岐にはこのような千人塚がたくさんあるそうです。
白歯雪公園・壱岐諸津観音
壱岐芦部町箱崎にあった公園で眺めの良い所でした。
元寇の戦跡(少弐公園)
元寇(弘安の役)のとき、激しい戦いがあった古戦場での一帯は竜神崎といって、大変景色が良く、公園の頂上から見下ろす景色は絶景でした。この景色を眺めていたら急に名物ガイドさんが歌い始めました。しばし聞き入っていました。
壱岐は国境の島として元寇(文永の役と弘安の役)で、特に1281年(弘安4年)の戦いでは、ここ瀬戸浦で激戦が繰り広げられ善戦むなしく壱岐の守備隊は全滅しました。その時19才の若さで一軍の将として勇敢に戦い戦死した少弐資時(しょうにすけとき)の墓があります。永い間地元では「ショウニイ様」と呼ばれていた石積みの塚が少弐資時(しょうにすけとき)の墓であると分かったのは明治31年のことだったそうです。
少弐公園での松永ガイドさんの歌(動画)
壱岐神社
弘安の役で戦死した少弐資時、亀山天皇、後宇多天皇を祀った神社で本殿は昭和19年に造営されたそうです。
芦辺港
帰りは芦部港より16:15発フエリーで帰路に着きました。フエリーの中では全員お疲れのようで2等の畳の部屋でゴロ寝状態でした。
博多湾の夕日
無事フエリーを降り、博多埠頭での解散でした。猛暑の中2日間ほんとにご苦労様でした。