【日時】
平成21年8月4日(火)            福岡天神・日銀前 AM7:40集合
【参加人員】    53名
【コース】  福岡天神・日銀前AM8:00出発~大橋展望広場(ひぜん夢美咲) ~ 鷹島肥前大橋~ 兵衛次郎の墓 ~ 鷹島歴史資料館/埋蔵文化センター~対馬小太郎の墓 ~(昼食)~少弐経資本陣跡~モンゴル村~宮地嶽史跡公園~銅像如来座像~鷹島海底遺跡~今宮神社~開田の七人塚~牧の岳史跡公園~島の駅(鷹ら島)~高島肥前大島~福岡天神・日銀前PM6:00着
8月4日朝8時天神日銀前、53名を乗せたバスは鷹島に向かって出発!先ずは、4月に完成したばかりの鷹島肥前大橋(全長1251m)を、手前の唐津市肥前町から、玄界灘のさわやかな風を受けながら、対岸の松浦市鷹島町へ徒歩で元気に渡りました。伊万里湾口に浮かぶ東西5km・南北13kmの鷹島は、今を遡ること730年前の蒙古襲来時の激戦の舞台となり、数多くの元軍遺物が海底より引き上げられ保存展示されています。また、当時の戦闘の物凄さを今に伝える元寇史跡の数々を、現地のガイドさんの案内でくまなく探訪しました。その中で一番の救いは、現在のモンゴル共和国と鷹島町が姉妹関係を結んで出来た「モンゴル村」の草原やゲルを見学出来たことでした。本日の歩行距離は4km。(野田 弘信)
●元寇の地、鷹島
 鷹島は、県北部に位置し、伊万里湾に浮かぶ17.1平方キロメートルの離島、内陸部は豊かな緑が広がる緩やかな丘陵地で豊かな自然に恵まれ、玄海国定公園の一部にも指定されています。
鷹島は、およそ730年前の日本軍と元軍との戦い、いわゆる元寇(げんこう)があった地であり、この鷹島の海こそが伝説の神風が吹いた海だそうです。元軍(蒙古)という当時の世界最強軍団の力を前に、日本は「神風」により勝利を収めたことから鷹島は「勝利の神風が吹く鷹島」となったそうです。
その史実を証明するように、島の周囲、特に南側の沖合いには沈没した元軍の艦船が今なお眠っており、元寇から700年以上経った今、遺物の引き上げや研究が進んでいます。
また鷹島は、その歴史的重要性から水中考古学の貴重な資源を有する島としても注目されています。また、元寇の際活躍した武士の墓があるなど、元寇の歴史を物語る史跡が島内各地に点在しているようです。
大橋展望広場(ひぜん夢美咲)
橋を一望できるベストスポットで記念撮影と初参加の新入会員の紹介。
三苫久宣、里栄ご夫妻 芳賀均さん
鷹島肥前大橋
長崎県と佐賀県の共同事業として建設を進めてきた鷹島肥前大橋が4月18日(土)に開通しました。長崎県松浦市の離島である鷹島町石川と唐津市肥前町星賀を総延長約5kmで結び、うち橋梁は1.2kmとなっています。これまで鷹島町への渡航手段はフェリーのみでしたが、橋の開通により車で約10分で渡れるようになりました。24時間いつでも利用できることで、救急医療の迅速化や通勤・買い物の利便性がアップし、なにより地域間交流や地場産業の活性化が図れるなど大きな期待が寄せられているそうです。
対岸が鷹島です。
肥前大橋展望広場からの鷹島
この写真はクリックすると拡大します。
大橋展望広場から島の駅(鷹ら島)まで大橋を歩く
この橋は鷹が羽を広げたようにデザインされたそうで、長さは1250メートルです。
本日のボランテイアガイドの小田さん 長崎県と佐賀県の県境
兵衛次郎の墓
兵衛次郎は、元軍襲来を対馬小太郎と共に大宰府に報じ、また、小太郎と共に戦い鷹島で戦死した一人です。神崎免伊野利の浜、西南方の丘の上にお墓が建てられていて、石堂様とも呼ばれているそうです。ここからの肥前大橋の眺めは最高でした。
鷹島歴史資料館
東西5km、南北13km、島民2,900人の平和な島が700有余年前の昔「元寇」最後の戦場となりました。弘安4年(1281年)7月30日の夜、本格的な日本侵攻を前に集結した総勢4,400の船と14万人といわれる元軍の大半が鷹島周辺の海底に沈みました。これらの史実をもとに昭和55年(1980年)鷹島周辺の海は水中考古学調査最大の宝庫として選ばれました。昭和56年7月から開始された沈没船の遺物調査と引き揚げ作業では多数の元寇遺物が発見されました。鷹島町立歴史民俗資料館はこれらの貴重な資料を文化遺産の収集保存を目的に建設され、町内外の人々をはじめ地域住民の文化活動・学問探究の機会に大きく貢献しているそうです。

元寇遺物「大イカリ」の一般公開
平成21年5月3日から松浦市立鷹島埋蔵文化財センターにおいて木製大イカリの公開を開始しました。
この大イカリは蒙古襲来いわゆる元寇の元軍船のイカリで、1281(弘安4)年の弘安の役の折の台風で沈んだと見られており、鷹島海底遺跡において平成6年11月神崎港改修工事に伴う発掘調査により発見された複数のイカリのうち最大のものです。
途中で欠けているイカリの長さ(中心部の碇身(ていしん))は2.66m、欠けていなければ推定で7.3mあったとみられ、重量は重りとなった2つの碇石(いかりいし)(計338kg)を含めて1t近くだったとみられています。このことから、この大イカリを使って停泊していた船は40mほどの大きさであったことが推測されています。

対馬小太郎の墓
里免清水川の南方丘上にあり、対馬の守護代・宗助国の家臣、「小太郎」の墳墓です。 
1274年(文永11年)元軍が対馬を攻撃。守護代・宗助国は一族80余騎を率いて奮戦しましたが、ついに及ばず戦死の直前、家臣の小太郎及び兵衛次郎に命じて急を太宰府に報告させました。
二人は、玄海の荒波を乗り切り博多に上陸し、その使命を果たしたが元軍は壱岐を占領し、鷹島を襲い博多湾に侵入しました。
小太郎も博多防衛に加わり、1281年(弘安4年)元軍が再び来襲。鷹島襲撃の知らせに小弐景資の配下として奮戦中重傷を負い自刃。 遺言には、「我が屍を埋めるに対馬を望むべき丘陵に於いてせよ」と残したそうです。

刀の元(とうのもと)の六地蔵(里免)
刀の元の六地蔵(里免) 
対馬小太郎の墓の近くに六地蔵と五輪の塔が六つ集まっているところを「刀の元」とよんでおり、弘安の役で里方面の敵の捕虜を斬首したところだと伝えられています。六地蔵の顔面には、赤土が塗られているが、これは子供の病気をなおすために親が深夜にここにお参りをして赤土を塗るという信仰があり、今も尚、一部の人たちにより受け継がれているそうです。

少弐経資本陣跡
鎌倉後期の武将。少弐資能の三男。豊前三郎・三郎左衛門と称す。文永11年(1274)と弘安4年の蒙古来襲に大将軍として九州御家人を指揮し、戦功をあげました。 
(昼食) 宮崎旅館
鷹島の中心地にある阿翁浦漁港にある宮崎旅館で昼食。魚島来(おとこ)飯定食は大変美味しくて好評でした。
名物の松浦とらふぐのから揚げもおいしくて早速、お土産に購入。
モンゴル村
700有余年前の、フビライによる蒙古軍の襲来は、鷹島沖を舞台に繰り広げられましたが、いまでは鷹島とモンゴル国との交流も深まり、カラコルム地方のホジルト市とは姉妹都市になっているそうです。
モンゴル運んできた宿泊用のゲルをはじめ、温泉センター施設、レストラン、お土産施設等がありました。
ゲル村
パオの名前でもおなじみのゲル。モンゴルから運んできた本物のゲルが30棟設置してあり、宿泊可能。
一つのゲルで4名まで泊まれます。内部のすみずみまで本物のモンゴル製のゲルでした。
宮地嶽史跡公園
元寇の役の経過、敵せん滅の史実が刻まれた巨石です。
昭和45年に史跡公園として整備され、展望絶景の地で玄界灘が一望できる高台に宮地獄神社、愛宕神社が祀られてており、五輪の搭、元寇記念の碑が建っていました。
銅造り如来坐像
銅造り如来座像(原免) 
原免字沖の前、市杵島神社(いちきしまじんじゃ)境内の一隅にお堂を建てて安置していました。
この仏像は、元軍が船に安置して礼拝していたものですが、台風のため船とともに海底に沈んだと伝えられ、江戸時代の終わり、船唐津の漁師が原の海岸に「アオギタ」(魚群で海の色が変わること)が生じたという夢を見て、翌朝さっそく網をおろしたら、この仏像がかかってきたそうです。
ある時、盗まれましたが、この仏像が「原の釈迦は原に帰る」と叫んだので、泥棒は驚き、仏像の頭や額に、はめ込んであった黄金や宝石を取っただけで逃げたと伝えられています。
この仏像は、高麗時代中期から末期にかけての作で、高さ77cmの銅造り如来座像です。指の組み方が阿弥陀仏の来迎印という特異なもので、対馬や壱岐にある高麗仏とは作風が異なり、類例も少なく注目に値すると言われています。 

昭和49年10月8日 長崎県指定有形文化財(彫刻)に指定 

鷹島海底遺跡
神風で沈んだとされる元軍の船や武器武具類から、銅銭、陶磁器、漆の椀などの生活用品に至るまで、夥しい遺物が眠っています。これらは昭和55 年から考古学者によって引き揚げが始められ、以来鷹島は日本における水中考古学のメッカとなっているそうです。
開田の七人塚(ひらきだのしちにんずか)
文永の役の折り、東浜に上陸した元軍は、日本軍が博多湾に重点を置き鷹島を手薄にしていたことから、島民のほとんどを虐殺した。船唐津免の開田とゆうところの一軒家は、人目につきにくい山の中にあったが、飼っていた『ニワトリ』が鳴いたため、「ニワトリがいるなら人も住んでいるはずだ」と元軍は山の中を捜し一軒家を発見。8人家族のうち7人が殺され、灰だめに隠れていたお婆さん1人が助かったということです。それ以来、開田ではニワトリを飼わないと伝えられています。(開田の悲墳塚ともいうそうです。)
今宮神社

今宮神社は、1148年(久安4年)に8代藩主・松浦久の子、直(なおし)が父のために満福寺境内の一隅に建てたと伝えられています。広久山満福寺は、松浦市の梶谷城にいた松浦久が年老いてから鷹島町原免の日本山に出城を築き、里村の別邸を作ったとき三里地区の平坦な地形を見て耕作する土地に最も適しているので、将来、一族発展の根拠地としてここに建てたと伝えられています。境内には、松浦久と元寇の役で鷹島を守るために活躍し、重傷のためここで自刃した第14代答(こたう)の墓や戦死した人々の墓標、五輪塔、宝筐印塔(ほうきょういんとう)が無数にありました。又、樹齢400年といわれる大銀杏(おおいちょう)があり、枝からは乳柱が垂れ下がっており昔からその皮を煎じて飲むと乳が出ると言い伝えられているそうです。 

大銀杏  昭和32年6月24日 長崎県文化財に指定

本日の歩こう会は天候に恵まれ、無事終了。最後に島の駅(鷹ら島)で沢山のお土産を手にして岐路に着きました。