【日時】 平成17年8月2日(火)AM11:20 相島渡船待合所集合
【参加人員】 47名 
【コース】 新宮漁港〜相島漁港〜元寇の供養塔〜相島石積塚群〜剣神社〜岩宮神社/太閤潮井の石〜断崖〜遠見番所跡(灯台)〜龍王石〜朝鮮通信使客跡〜神宮寺〜灯籠跡〜先波止/前波止〜相島漁港〜新宮漁港
8月2日、新宮漁港に47名集合。 玄海灘の潮風を受けながら、渡船「しんぐう」にて相島漁港に到着。早速、島の旅館で腹ごしらえをし、「島一周道路」沿いの史跡探訪に出発。なかでも圧巻は、日本で二ヵ所しか発見されていない古代海人族の210基におよぶ「石積古墳群」や江戸時代の福岡藩が500人にのぼる「朝鮮通信使」を接待した客館跡などを訪ねました。 歩行距離:5Km   (野田 弘信)
リンク   相島小学校ホームページ     九州福岡島めぐり         新宮町役場ホームページ
相島(新宮町)

遥か昔に思いが馳せる歴史の島
面積/1.25km2周囲/6.14km
人口/約400人
アクセス/【船】 新宮漁港→相島漁港(17分)
小学生 現在11名(先生11名)

新宮町の波止場より海上7.3kmの玄界灘に浮かぶ離島
で玄海国定公園の要のひとつである。古くから海上の要所で、古墳時代、万葉の歌人達、元寇、秀吉の朝鮮出兵、江戸時代の異国船と歴史を経験してきた島。島の古い呼び名として【阿恵島】、【相似島】、【阿部島】などがある。
相島渡船場
新宮漁港発11時30分の船で相島へ(海はトビウオが跳ねているのを見ながら17分の船旅)
早速 世話人の野田さんより説明を聞いて旅館へ 旅館 丸巳屋のクーラのきいた部屋で早速昼食
日蒙供養塔 蒙古塚(もうこづか)
鎌倉時代、蒙古軍が二度にわたり攻めてきました。文永の役(1274)と弘安の役(1281)で、博多湾周辺で激戦が展開されました。しかし二度とも台風や突風で蒙古軍は大打撃を受け撤退しました。その時、百合越海岸には、その軍船や溺死者が多数流れついたと言い伝えられています。これを敵味方無く供養して、建てたものです。
相島石積塚群
253基もあるという規模、多数の副葬品、保存状態などの面で、歴史的価値は非常に高いと言われる古墳群。5〜7世紀ごろのもの。国の史跡に指定されている。
鼻栗瀬(メガネ岩)は島の東300メートルの海上にそそり立ち、全島が玄武岩でできています。高さ20メートル・周囲100メートル、形がおにぎりのようなので三角島とも言っています。幾千万の六角柱を束ねた様は芥屋の大門によく似ています。波の浸蝕により中央に大穴があき、島の長井の丘からの眺めはすばらしいものがあります 太閤潮井の石

豊臣秀吉の朝鮮出陣の際、戦勝と航海安全を祈願して将兵に石をつませたと言われている。
遠見番所跡(灯台)
江戸時代、鎖国令に基づいて外国船の来航を監視したところです。現在見張り台があった石垣が残っています。もし外国船が見つかったら、早船を仕立てて福岡の城へ知らせたと言います。黒田藩の家来3人が相島に常駐していました。
朝鮮通信使客館跡
江戸時代、鎖国をしていた日本だが唯一国交があったのが朝鮮李王朝だ。その王朝が送った使者が江戸に向かう通り道にある福岡藩は、莫大な費用をかけてこの場所で使者をもてなしていた。
通信使を迎えるため、江戸時代に築かれた石積みの先波止 漁港で買物をして帰路につく(相島漁港)