日蒙供養塔 蒙古塚(もうこづか) |
 |
 |
鎌倉時代、蒙古軍が二度にわたり攻めてきました。文永の役(1274)と弘安の役(1281)で、博多湾周辺で激戦が展開されました。しかし二度とも台風や突風で蒙古軍は大打撃を受け撤退しました。その時、百合越海岸には、その軍船や溺死者が多数流れついたと言い伝えられています。これを敵味方無く供養して、建てたものです。 |
相島石積塚群 |
 |
 |
253基もあるという規模、多数の副葬品、保存状態などの面で、歴史的価値は非常に高いと言われる古墳群。5〜7世紀ごろのもの。国の史跡に指定されている。 |
 |
 |
鼻栗瀬(メガネ岩)は島の東300メートルの海上にそそり立ち、全島が玄武岩でできています。高さ20メートル・周囲100メートル、形がおにぎりのようなので三角島とも言っています。幾千万の六角柱を束ねた様は芥屋の大門によく似ています。波の浸蝕により中央に大穴があき、島の長井の丘からの眺めはすばらしいものがあります |
太閤潮井の石
豊臣秀吉の朝鮮出陣の際、戦勝と航海安全を祈願して将兵に石をつませたと言われている。 |
遠見番所跡(灯台) |
 |
 |
江戸時代、鎖国令に基づいて外国船の来航を監視したところです。現在見張り台があった石垣が残っています。もし外国船が見つかったら、早船を仕立てて福岡の城へ知らせたと言います。黒田藩の家来3人が相島に常駐していました。 |
朝鮮通信使客館跡 |
 |
 |
江戸時代、鎖国をしていた日本だが唯一国交があったのが朝鮮李王朝だ。その王朝が送った使者が江戸に向かう通り道にある福岡藩は、莫大な費用をかけてこの場所で使者をもてなしていた。 |
 |
 |
通信使を迎えるため、江戸時代に築かれた石積みの先波止 |
漁港で買物をして帰路につく(相島漁港) |