古代の斯馬国(しまこく)と幕末の姫島を歩く!!
 【日時】        平成16年8月3日(火)  
 【参加人員】   52名  

 【コース】
        岐志漁港〜南林寺〜御床松原遺跡〜新町遺跡展示室〜岐志漁港〜姫島港〜アイランドテラス(昼食)〜姫島神社〜自然歩道〜鎮山〜自然歩道〜野村望東尼獄舎跡〜姫島小中学校〜西海岸道路〜姫島港〜岐志漁港
午前中は、斯馬台国の時代伊都国(前原市)の対外交流拠点と推定される斯馬国(志摩町)の引津湾岸一帯を歩き、町営度船で姫島に渡る。昼食後、姫島山頂への小登山と幕末の勤王歌人「野村望東尼嶽舎跡」を訪れる。暑く汗ビッショリになったが、海辺の潮風を受けそう快な一日であった。歩行距離5km 。(野田 弘信)
関連情報のリンク先 志摩町HP
地域情報 (志摩町) 姫島 志摩町特産品マップ
岐志漁港

心配した雨も上がり、志摩町の岐志漁港に9時半集合、野田さんより本日のスケジュールの説明後出発。

岐志漁港  後ろの山は可也山 
海徳寺
浄土真宗本願寺派 海徳寺 漢文2年開創後昭和4年本道と客殿を再建
南林寺
ツツジで有名な南林寺の境内下にシメ縄を張った石と古井戸がある。原田了栄のお家騒動で息子の兄弟がヨロイをこの石に投げかけ井戸水をくみ上げてザンブとかぶり、身を清め、お互いに胸をさしちがえてこの世をさったという話。黒田忠之はこの哀れな兄弟の悲劇に同情し朝倉宮野村にあった南林寺を移したそうな
御床松原遺跡
引津湾に面した砂丘上に営まれた集落跡。主に弥生時代中期から古墳時代前期の住居跡が集中して検出されその数100軒を超える。古代中国の貨泉・半両銭も発見された
新町遺跡展示室
新町遺跡からは日本ではじめてで弥生時代の早期・前期の人骨14体が発見されています。
姫島

『ここに、幸あり』の舞台となったのは、玄界灘に浮かぶ小さな、小さな離島・姫島。陸から船で約20分という立地にもかかわらず、福岡県内の人にすらあまりその存在を知られていない、日本の“見知らぬ島”です。ピースでチャーミングな島民たちは、妙に笑えて懐かしく、行った人をなぜか虜にしちゃう、不思議なパワーを持った島。

姫島データ

所在地:福岡県糸島郡志摩町
面積:0.75平方キロメートル/標高:187m
世帯数:51世帯/人口:215人
交通:博多駅からJR筑肥線「筑前前原」駅下車(45分)、バスまたは車で岐志渡船場へ(20分)、渡船「ひめしま」で姫島まで(17分−1日4便)
宿:民宿3軒(豊福屋、吉田屋、能住屋)/店:1軒(シーガルショップ)

(島民は名前で呼び合う)
島民は、大人であろうが子供であろうが相手のことを下の名前で呼び合います。島内に同じ名前は存在せず、新しい子が産まれるたびに、島に新たな名前が誕生するというわけ。さながら、島民全員家族、といった感じです

(島に犬がいない)
昔から犬は悪い神様を連れてくる動物と思われていて、今でも飼い犬は禁止。代わりに野良猫がびっくりするほどウジャウジャいます。
(島に車が走ってない)
島の集落の端から端まで、歩いておよそ10分足らず。交通手段は徒歩か自転車。車・バイクは不要の“超”健康的な生活です。そして、小学生以上の子は、みんな一輪車を乗り回しています。

島の定番アイテム“リアカー”
日常的に荷物を運ぶ手段として愛用されているのはリアカーです。どの家庭にもあり、時には我が子を乗せて“乳母車”の役目も果たすスグレモノです。大きな荷物は、港に常駐の軽トラを使います。これにはカギがかけっ放しで、誰でも自由に使えます(ナンバープレート無し)。
「シーガルショップ」という、港に面するよろず屋が島で唯一のお店です。食料品から衣服、医薬品まで一応総てが揃っています。
姫島(姫島神社・鎮山)
祭神豊玉姫と生島神社の女神が鎮座する姫島神社 標高187mの鎮山へ
中腹から志摩半島の眺め 世話人のお陰で頂上は30度の見晴らしができた(感謝感激)
         世話人の開拓に感謝しつつしばしの休息
野村望東尼(のむらもとに)遺跡  
野村望東尼(のむらもとに)は幕末の福岡藩士であった野村新三郎の妻で「もと」と言う名前であった。女流文学者であった「もと」は新三郎亡き後、高杉晋作や平野国臣などの勤王の志士達を庇護し、この山荘は一時期志士達のアジトになっていたという。高杉晋作も元治元年(1864)に長州藩の保守派に命を狙われるようになり、危機を察して脱走し、同年11月に野村望東尼(もとに)の平尾山荘に潜伏し難を逃れた。しばらく滞在して下関に帰り同年12月に奇兵隊等諸隊の決起を促して下関市長府の功山寺で挙兵したのである。この挙兵はイチカバチかの掛けであったが、結果的に大成功して明治維新につながったのである。「もと」は志士達を庇護した罪で捕らえられ糸島にある姫島 に流された。しかし病に伏していた高杉晋作の命を受けた長州の救出隊が夜陰にまぎれて姫島に上陸し「もと」を救出し下関に連れて行った。その後「もと」は高杉晋作の最期を看取り、62歳で山口県の防府で亡くなった。この「野村もと」のことを野村望東尼(のむらもとに)と言っている。
野村望東尼さんの銅像 休息中に藤川さんのウンチクに耳を傾ける
野村望東尼さんの御堂 市立動植物園の近くの平尾5丁目にちょっとした山荘公園があり、その一角に野村望東尼(のむらもとに)山荘がある
姫島小中学校
“超”リッチな木造校舎
平成になって建てられた小中合同校舎は、さながら“木のチャペル”といったモダンな“新築”木造校舎。中央が吹き抜けになっていて、一階が小学校、二階が中学校という造りのこの校舎、建設費用は何と6億円。全校生徒数が36人ということを考えると、一人あたま1千7百万円!という、全国でも例を見ない、超リッチな教育環境です。
*中学廃校の危機
その校舎を建てる前、少子化による中学校の廃校問題が持ち上がりました。映画の主演のひとり、須田邦裕クンが丁度中学生だった頃の話で(因みに彼、姫島史上“初”の東京の大学生です)、彼は同級生が一人もいなく、中学二年の時には、一年生の子と合わせて全校生徒二人という環境でした。“存続費などを考えると”といった声が島民から挙がるようになって、その是非の審判を島民投票に委ねることになり(投票率100%)、その結果わずかに廃校賛成が上回りました。が、「島を出てった人間も島民やけん」と、内陸で暮らす元島民も投票に参加(これも投票率100%)。最終的に反対票が逆転し、この結果を島民全員一致の意見として、“今後二度と廃止問題を出さぬように”と町役場に申し出たそうです。その後、無くなりかけたものに6億円も投じてしまうのですから、まったくもって大胆な人々です。