筑後地区めぐり 第24回・大刀洗 第28回・八女 第35回・朝倉 第39回・柳川

【日時】
平成22年6月1日(火)       集合:西鉄・三沢駅前        
【参加人員】    57名
【コース】  西鉄三沢駅前(9:10)~かえる寺(如意輪寺)~三沢駅~小郡駅~小郡官衙遺跡~大原古戦場~生涯学習センター(昼食)~松崎城跡(三井高校)~松崎宿・南構口~北構口~甘鉄:今隈駅~大刀洗駅~太刀洗平和記念館見学~大刀洗駅前広場(解散)
6月1日西鉄三沢駅に57名集合。今回は、筑後地区の桑野幹事のお世話で、小郡市教育委員会の担当者及び6名の史跡探訪ボランティアの方々の案内により、9kmを元気に歩きました。この地区は、筑後川にそそぐ宝満川が流れ、穀倉地帯で水運に恵まれたところで、古代からの史跡が多く、奈良時代(小郡官衙遺跡)→南北朝時代(大原合戦碑)→江戸時代(薩摩街道・松崎宿)→昭和(大刀洗平和記念館)と見るところいっぱいのコースでした。その中で三千匹のカエルがいる「かえる寺」真言宗如意輪寺にお参りし、原田住職より大変有難い法話をいただきました。「カエル」は腰が低く、常に前に飛び跳ねる!長生きのコツは、あ「安眠」い「色気」う「運動」え「笑顔」お「おしゃれ」を持ち続ければ、100才まで健康OK!とのこと。お互いにカエルの「あいうえお」で日々を楽しく暮らしたいものです。(野田 弘信)
写真撮影:福永攻治 笠井雅弘
如意輪寺(かえる寺)    
西鉄三沢駅前に集合後、かえる寺で有名な如意輪寺に向かい、到着後、お寺の山門前で本日のコースの説明、新入会員の紹介がありました。新入会員は勝野 邦安さん、久保山 幸一さん、二宮 一美さんの3名でした。
如意輪寺は「かえる寺」という別名でも有名で、住職が中国から翡翠でできたかえるを持ち帰ってきたのをきっかけに、このお寺には現在3,000ものかえるが並んでいます。かえるは腰が低く、常に前へと飛び跳ね、目的を達成するといわれており、古くより中国では仙人の使いとされていました。如意輪寺は九州を一周する壮大な巡礼霊場「九州八十八ケ所」の三番札所であり、福岡県重要文化財の「如意輪観音立像」をご本尊にすることで有名なお寺です。
かえる七福神
本堂の隣の部屋には色んなカエルがところせましと飾っていました。
お寺の境内のあちこちに様々な表情のカエルと日頃忘れがちなありがたい言葉が書かれていました。お話しでは住職の原田元秀さんが中国に行った時に「無事帰る」と縁起をかついでカエルの置物を買って帰り、しゃくなげの下に飾ったのが始まりでその後この境内に集まったカエルが評判になりTVやインターネットで紹介され参拝者が絶えないそうです。
荘厳な本堂で住職のありがたい説法を熱心に聞きました。
住職の言われる長生きのコツは「あいうえお」運動をする事だそうで
「あ」は安眠、「い」は色気、「う」は運動、「え」は笑顔・栄養、「お」はおしゃれする気遣いといわれカエルのように前へ一歩づつ飛びながら飛躍して100才までがんばってくださいとの事でした。
住職のお話が終わり、お茶とまんじゅうをいただきました。早速お土産に買って帰りました。
本堂前で住職を囲んでの記念写真(クリックで拡大)
小郡官衙(かんが)遺跡(国指定史跡) 
宝満川の西台地に広がる小郡官衙遺跡は、旧石器時代から歴史時代にいたる複合遺跡で、そのうち歴史時代に相当する堀立柱建物群は筑後国御原郡の郡衙跡(郡役所)と推定されています。
これらの建物跡はコの字形に配置されて政務を行う「郡政庁」を中心とし、その北側には納税品(米など)を納める「正倉」にあたる総柱建物群が、西側には役人の宿や接待所にあたる「舘」が整然とならんでいます。
平成10年には、この遺跡の東2.1キロの位置で上岩田遺跡が発見され、小郡官衙遺跡に先行する評衙(役所跡)として注目されています。このように御原郡衙の成立期から展開までの歴史を考える上で、貴重な遺跡群であり、国指定史跡となっています。
大原古戦場
小郡市役所近くの東町公園内の高台に「大原古戦場碑」と刻んだ大きな自然石の記念碑がありました。
正平14年(1359)8月征西将軍懐良親王を奉じた菊池武光の大軍4万と、小弐頼尚の大軍6万が大保原を中心に一大決戦を展開しました。
とくに8月7日の一日の戦闘で両軍の戦死者5千4百5十余人、戦傷者を合わせ2万5千余人にも及ぶ激戦であったと伝えられています。
この碑のあたりから西鉄小郡駅前あたりまでの地域を「前伏」というが、これは大原合戦の際、小弐軍が前衛の兵を配置していたとこらから、このような地名が生じたといわれています。
一面の麦畑とかわいい甘木鉄道のレールバスを眺めながら ひたすら歩きました。 
松崎城跡(三井高校)
史跡跡は何もありませんが、桜並木は歴史を感じました。
松崎の桜馬場で伊予守により植えられた山桜が築城後花のトンネルをなし、桜の名所になったそうです。右の写真は昭和27年当時。
市指定史跡 松崎宿南構口
所在地:小郡市松崎    昭和51(1976).8.1指定
小倉と鹿児島を結ぶ江戸時代の街道を一般に薩摩街道と言います。松崎宿はこの薩摩街道筋にあたり、久留米藩(有馬家21万石)における北の玄関口として大いに賑わいました。松崎宿には旅籠建築の「旧松崎旅籠油屋」をはじめとして、直角に曲がった「枡形」道路など、宿場町当時の面影を今に多く残していました。
「構口」は宿場町を構成する建造物の一つで、宿場町の出入り口に石垣を築いて防御のかなめとしたものです。松崎宿では北構口に隣接して久留米番所を設け、人や物資の出入りを見張っていたそうです。
江戸時代の宿駅に伴う構口が現存する例は少なく、南北両構口のしかも
道の両側の石垣がともに残る松崎宿は、さらに希少な例といわれているそうです。
昭和27年当時の南構口
松崎宿を歩く 旅籠・松屋(旧郵便局)
ツル小屋の旅籠 下町の恵比寿さん(大正11年奉納)
松崎宿で一番大柄な恵比寿さん
松崎宿の資料館
松崎宿北構口
小郡市の埋蔵文化センターの杉本主事さん、小郡市のボランテイアの皆さん、松九会筑後地区幹事の桑野さん 本日は大変お世話になりありがとうございました。
筑前町立 大刀洗平和記念館
ここ太刀洗には、かつて戦前、東洋一とうたわれた旧日本軍大刀洗飛行場とその関連施設があったところで建物は、飛行機の格納庫をイメージしています。
大刀洗飛行場を中心に栄えていたこの町は、昭和20年にアメリカ軍の空襲で壊滅的な被害を受け、多くの人命が失われ、この飛行場は特攻隊の中継基地にもなっていたため、多くの若き特攻隊員を見送った場所でもあるそうです。
映像による当時の飛行場や若者や子供が亡くなった背景がよく理解できて貴重な資料が展示していました。
この記念館の役目は平和のありがたさや戦争のない時代にいる今の幸せ、その大切さを語り継いでいく事だと思います。
零式艦上戦闘機三二型(Y2-128) マーシャル諸島のタロア島から帰還した零戦32型
帰りは天気予報どうりの雨の中、甘鉄・太刀洗駅より、帰路に着きました。