日時 平成19年4月3日(火) 参加者     69名
コース 西鉄・柳川駅 → 三柱神社公園 → 柳川さげもん通り → 恵比寿ひな小路 → 水辺の散歩道 →
旧戸原家住宅 → 二丁井樋 → 北原白秋生家記念館 → 沖の端 → 福厳寺 → 真勝寺 →  
柳川城堀水門 →古文書館 →柳川橋 → 西鉄・柳川駅

4月3日(火)柳川藩・藩祖「立花宗茂公」を奉っている三柱神社の境内に69名が集合。 いつもの柳川観光の定番は「川下り」ですが、今回はあえて陸路を選び「お雛様祭り・さげもん通り」と「白秋・水辺の散歩道」を中心に、江戸時代の柳川藩武家屋敷や柳川城堀の仕組みなどを見学しながら9kmを元気に歩きました。柳川城は標高わずか3mにもかかわらず、総延長60kmの城堀で囲み「柳川三年、肥後三月、肥前・久留米は朝茶の子」と言われ、難攻不落の全くの「水の城」でした。その城堀を現在でも「川下り」などの観光資源として大切に生かし、独特の「さげもん」や「白秋文学」そして「美味しいうなぎ」を前面に押し出し、観光産業による地域活性化をはかられている柳川市民の皆さんに敬意を表する次第です。(野田 弘信)

柳川市は筑後川が有明海にそそぐ河口にある水郷の町で堀割が町中を縦横に走り、ドンコ舟で楽しむ川下りは有名ですが、柳川はまた、立花藩13万石の城下町であり、詩人・北原白秋の故郷です。
戦国時代、豊臣秀吉が九州を平定した際、豊後大友氏の先陣として活躍した立花宗茂は、その功により筑後13万石を拝領し、柳川を城地に定めました。
しかし、立花宗茂は関ヶ原の戦いで西軍に味方して柳川を追われ、かわって田中吉政が柳川に入封します。それから20年後の1620年に、再び立花宗茂が城主となり、以後柳川は、明治維新まで立花藩の城下町として栄えたそうです。
三柱神社公園
西鉄柳川駅から歩いて3分。国道208号線下百町交差点北側 
●川下り所要時間…約1時間(下百町から御花までの約4km)   ●料 金…大人1,500円(税込・中学生以上)
三柱神社の赤い欄干橋 川下り・松月乗船場
この写真はクリックすると拡大します
三柱神社の名称は、祭神として戸次道雪、立花宗茂、道雪の娘にして宗茂の妻のァ千代の三体の神が祀られていることからきているそうです。平成17年6月3日火災により拝殿、廻廊が全焼、楼門も一部焼けるなどの被害がでましたが、幸いにして本殿は延焼を免れました。
左から新入会員の岩崎さん、松尾さん、岩本さん3名の紹介
小倉・常盤橋

柳川には、昔から女の子が生まれると初節句に、子どもの無事な成長を願ってひな壇の前に色とりどりの”さげもん”を飾る慣わしがあり,
それを個人の家の奥から外来の人の目に見える場所に移して、観光客にも楽しんでもらおうと試みたことが「さげもんめぐり」の始まりだそうです。
〜柳川雛祭りの特徴〜
”さげもん”とは、旧柳川藩時代に女の子が生まれた時、親戚、知人から贈られた着物のはぎれで、この子が一生幸せでありますようにと祈りを込めて、縁起のよい「鶴」「兎」「宝袋」「三番鼠」「這い人形」など一針一針縫い上げた手作りの布細工と鮮やかな七色の糸で巻いた柳川地方伝統の大まりを下げ輪の中央に、小まりと縫いぐるみを交互に下げ輪につりさげたものです。

黒崎宿

水郷・柳川は国土庁に伝統的文化環境保存地区の指定を受け、1978年(昭和53)からこの散歩道の整備に取り組んでいるそうです。現在は約2.7kmの遊歩道が完成。周辺に点在する文学碑や歌碑を巡ってみるのも柳川ならではの旅の楽しみになっているようです。内堀りの散歩道は日本の道百選に選ばれていました。

北原白秋歌碑 (待ちぼうけの碑)
待ちぼうけ  待ちぼうけ 待ちぼうけ  ある日 せっせと 野良かせぎ  そこへ兎が飛んで出て   ころり ころげた 木のねっこ

黒崎宿
黒崎宿
明治18年、柳川・沖端に誕生した北原白秋の生家は、代々屋号を「油屋」とか「古問屋」と称する海産物問屋でしたが、白秋の父の代になると、柳川地方でも一、二をあらそう酒造業を営むようになりました。当時の北原家屋敷は、一町三反という広大な敷地を有し、母屋との間には、流れのきれいな掘割りがありました。しかしそんな生家も、明治34年の沖端大火災で大半を焼失。母屋と一つの穀倉だけが難を逃れ、昭和44年11月に復元され、平成元年2月には母屋に附属していた隠居部屋も復元されました。現在、この生家内には白秋の著書や遺品、さらには柳川の風物にゆかりの深い資料が数多く展示されています。 この生家は、記念的な建物であると同時に、柳川地方の明治時代の商家の形態を知る上での重要な建物だそうです。
黒崎宿
立花12万石の城下町として古い歴史を持ち、北原白秋詩歌の母体となった水郷【柳川】。この街には、有形無形の文化遺産が数多く伝承され、詩聖北原白秋の遺品など多数見ることができます。 これらの貴重な文化財を保存し、展示公開するために、昭和60年白秋生誕百年を記念してこの記念館(資料館)がオープンしました。北原家の広大な旧跡地の一隅に建てられた記念館の外観は、柳川独特の“なまこ壁”の土蔵作りとなっています。館内では、水郷柳川の民俗資料や白秋の詩業を紹介。楽しく見応えのある記念館となっています。
北原白秋記念館のさげもん
『さげもん』とは、方言でつるし雛のことです。
藩政時代、女の子が生まれると、この子の一生が幸せでありますようにと祈りをこめて親戚、知人から贈られた着物のはぎれで、縁起のよい鶴・兎・宝袋・鶏・桃・梅・桜、さらに、蝉や鼠・兎・猿・鳩・ひよこ・蝶、そして這(は)い人形などを一針一針縫い上げた和風縫いぐるみを作りました。
黒崎宿
沖端水天宮は、稲荷社・祇園社・水天宮の三神を祀ってあるそうです
掘割になまこ壁の土蔵は柳川を代表する風景の一つで掘割沿いには柳が植えられていました
黒崎宿

旧柳川藩主立花家の菩提寺
梅岳山福厳寺は臨済宗黄檗派の寺院で、旧柳川藩主立花家の菩提寺です。1587年(天正15)創建。その後、一時取り壊されたが、1669年(寛文9)に柳川の三代藩主立花忠茂が再建した。本堂前には、柳川城跡から移された板碑六地蔵が立っている。また、作家の長谷健と檀一雄の墓があり、芥川賞と直木賞作家が同一墓地に立つ所はほかに例がないそうです。

立花家歴代肖像
福厳寺に伝わる寺宝のうち、立花家に関わりの深いものとして注目すべきは、立花家歴代の肖像です。この肖像画は初代立花道雪よりはじまり、2代立花宗茂、3代忠茂、4代鑑虎、5代鑑任、7代貞則、8代鑑通、9代鑑寿、鑑門、鑑一、10代鑑賢、11代鑑備の12人で、6代貞俶と12代以降の画像を欠きますが、8代鑑寿の兄弟である鑑門、鑑一の2人が加えられています。いずれも、上畳に座し、頭に冠を戴き、袍に身を包んで手に笏を構え、飾り太刀を帯びるといった、大和絵肖像画の武家像の形式をそのままに踏襲しています。ただ、初代の立花道雪のみは軍扇を執り、2代宗茂、4代鑑虎は袍の上から袈裟をつけている点に相違があります。
黒崎宿
柳川の国造りに大きな働きをした人物と言えば、立花宗茂と田中吉政が挙げられます。
 立花宗茂は、大友家の部将高橋紹運の子として生まれます。天正9年(1581)、やはり大友家の部将で立花城を守っていた戸次道雪の娘ァ千代の婿として立花城に迎えられます。その後、養父道雪とともに、主家大友家のため筑前・筑後を転戦します。天正13年養父道雪が没し、翌年には岩屋城で実父紹運が戦死しますが、このようななかで北上しつつある島津勢に抗しました。この働きが、九州を平定した豊臣秀吉の目に留まり、天正15年筑後三郡を与えられ、柳川を城地と定めます。これによって、宗茂は大友家の部将から、独立した大名となったのです。
 柳川に入った宗茂ですが、肥後国人一揆や文禄・慶長の役と、思うように国造りを行う時間的余裕はあまりなかったようです。そんな中でも、領内の検地を行い、柳川城修築にも着手したようです。しかし、慶長5年(1600)関ヶ原合戦において、宗茂は西軍に与したため、改易となります。ここに、宗茂の国造りは一旦頓挫します。
 宗茂が柳川城を開城した翌年、同城に入城したのが、田中吉政です。吉政は、近江国の出身で、宮部継潤の家臣から身を起こし、働きを重ね、ついには豊臣秀次の宿老となります。秀次は、近江八幡それから尾張に所領を与えられますが、秀吉の後継者と目されていたため支配地を離れて在京することが多く、その留守は吉政が実質的に取り仕切っていたようです。文禄4年(1595)、秀次が切腹した時もこれに連座することなく、その後は逆に加増を重ねていきます。最終的には、三河国岡崎城主として10万石の大名となります。
 慶長5年の関ヶ原合戦に際には、東軍として主力戦に参加し、合戦後は石田三成を捕縛するという手柄を立てます。こういった戦功により、家康から筑後一国を与えられ、柳川城を本拠地として、領国の経営にあたることになりました。吉政は、柳川城の大規模修築、久留米・柳川往還の整備、慶長本土居と呼ばれる干拓堤防の築堤など基盤整備事業に大きな功績を残しました。吉政は、近世柳川の基礎を築いた人物と言えるでしょう。
 吉政は、慶長14年江戸へ向かう途中、伏見で没します。藤吉村にその墓が建てられますが、その上に伽藍を設け、大屋小路にあった真教寺(後の真勝寺)がここへ移ります。吉政の跡を継いだ忠政は、元和6年(1620)跡継ぎのないまま亡くなり、田中家は断絶します。その後、筑後柳川に封ぜられたのは、かつて領主であった立花宗茂です。宗茂は、関ヶ原合戦の後、牢人となりますが、2代将軍徳川秀忠に許され、奥州棚倉の小大名となっていたのでした。一度改易された大名が再び同じ支配地に封ぜられるというのは、非常に珍しいことです。
 宗茂は、肥後の加藤清正のもとに預けられていた旧家臣たちを呼び寄せ、領国経営にあたります。再封後の宗茂は、江戸にいることが多かったのですが、検地を行うなど領内統治にも力を尽くし、幕府から課せられた役負担も遂行しました。また、島原の乱では原城攻めにも参陣しています。寛永15年(1638)には隠居を許され、同19年に没し、江戸下谷の広徳寺に葬られました。宗茂の後も代々の立花家当主が柳河藩主となり、明治維新を迎えることとなります。(柳川市ホームページより)
真勝寺は田中吉政公の墓の上に建てられている真宗東派の寺で本堂の下に写真の墓があるそうですが工事中の為、見ることができませんでした。
木屋瀬宿
関ヶ原の戦いの後、立花宗茂にかわって柳川に入封した田中吉政は、堀割の整備や柳川城の築造を進めました。この時の町作りが現在の柳川の基礎となっています。つまり、町中を縦横に走る柳川の掘割は、もともとは柳川城のお堀だったのです。
城内に入れる唯一の水門で、50センチの角石を積み上げて造られた水門で両側の溝に板をはめ込んで水門を閉め、上流の矢部川の堤防を決壊させると、城内を残して周りが水びたしになり、敵の襲撃をかわせたといわれ、「水の城」といわれた柳川城の要となる水門です。舟はこの狭い水門をくぐり、城下町の掘割へと進んでいきます。
木屋瀬宿