第49回 太宰府官道を歩く 第31回 大宰府を歩く 第27回大宰府めぐり

【日時】
平成23年2月1日(火)AM10:00    (集合)太宰府展示館            
【参加人員】    55名                        
【コース】  太宰府展示館〜太宰府政庁跡〜坂本八幡宮〜御笠軍団印出土地〜国分寺(太宰府ふれあい館)〜条坊南西の角・杉塚廃寺〜塔の原(昼食)〜大賀酒造〜条坊東南の角・二日市公園付近〜日本経済大学・イングリッシュガーデン〜西鉄五条駅〜条坊東北の角(太宰府駐車場)〜朝日地蔵〜少弐資頼資能墓〜観世音寺裏〜 太宰府政庁跡(解散)

2月1日10時、大宰府政庁跡に55名集合。 太宰府市教育委員会文化財課の宮崎さんより、当時の大宰府政庁の役割や「条坊の概要」について解説をうけました。 東西の「条」南北の「坊」の条坊制に基づいて整然と区画された「条坊」をもった政治的中心都市は、奈良県の藤原京・平城京、京都府の平安京、宮城県の多賀城、そして福岡県の「大宰府」の4ヵ所しかありませんでした。 東西南北外郭線の大きさは平城平安京が一辺4〜5km、多賀城が1km、大宰府が2km、この事だけでも時の朝廷が「大宰府」をいかに重要視したたが、伺われます。 当日は、政庁跡を起点に一辺2km×四辺=8kmの線上にある現在の道路を、紆余曲折しながら歩き、最終政庁跡にもどる全長10km程のコースです。 御笠軍団印出土地→国分寺→御笠川→杉塚廃寺(古代大宰府官道の終着点)→塔の原の心柱巨大礎石(九州に2例しかない最も古い礎石)→羅城門跡(JR二日市駅付近)→条坊東南の角(二日市公園付近)→左郭の外郭線・十二坊の線上(日本経済大学構内の池)→西鉄五条駅→条坊東北の角(太宰府天満宮の大駐車場の中心点)→観世音寺の裏山辺り→朱雀大路に在った朱雀門跡(国道3号線と御笠川の中間)から出土した門柱の巨大礎石→遠賀軍団印出土地(水城小学校)を訪ねる事が出来ました。 今から1200〜1100年前の「空海」「菅原道真」の時代、古代の歴史とロマンに触れられた満足の一日でした。(野田 弘信)

関連情報のリンク 大宰府市HP
太宰府市いきいき情報センター 大宰府案内
大宰府観光協会
2月1日 午前10:00に太宰府政庁跡横の太宰府展示館に集合、早速、太宰府市文化財課の宮崎さんから説明を受けました。
今回の歩こう会は「奈良平城京」 「京都平安京」の時代に、「遠の朝低」 として重要性を発揮していた「太宰府」の「条坊の外郭線」を歩きます。 
 
太宰府展示館横に咲いていた梅 
太宰府政庁跡
7世紀後半、大和朝廷は那の津の官家(みやけ)をここに移し、奈良・平安時代を通 して、九州を治め、わが国の西の守り(防衛)、外国との交渉の窓口となる役所(太宰府)としました。太宰府は南北22条、東西24坊の都市計画があったという学説があります。その規模は平城京、平安京に次ぐ大きなものです。万葉集には”遠の朝廷(みかど)”と詠まれ、その規模をしのばせる立派な磁石が残り、そこを中心に門や回廊、周辺の役所跡等が整備されて公園となっています。
今回の新入会員3名の紹介   左は高山国光、禮子さんご夫妻   右は寺崎勝廣さん
今回の集合写真( 
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平成17年4月5日 第27回歩こう会の集合写真
6年前の同じ場所での写真を見ると皆さん少し、老けていますが、まだまだ元気な様子です。
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坂本八幡宮

大宰府政庁跡の北西の角に坂本八幡宮があり、ここには大伴旅人の邸宅があったとされていて、大伴旅人の歌碑が建っていました。

御笠軍団印出土地
この記事は第27回歩こう会での記事です
太宰府市で発見され、現在は東京国立博物館の所蔵品となっている律令国家時代に編成された軍隊「御笠軍団」の青銅印(国重要文化財)が、今秋に開館する九州国立博物館(太宰府市石坂)のオープニング展で「里帰り」展示されることが決まった。「ゆかりの九州に帰ってきてほしい」と願う太宰府関係者や九州国博の要望に応え、一時的な貸し出しが許可された。 御笠軍団は奈良時代の律令国家が地方に置いた軍団で、兵士は公民から徴発された。九州域内には筑前四軍団、筑後三軍団、豊前二軍団など十八の軍団があった。団印は一辺約四・二センチの正方形。「御笠団印」の四文字を二字ずつ縦二行に陽刻している。筑前四軍団のうちの一つ、「御笠軍団」の印とされている。一九二七年、水城村(現在太宰府市)坂本の桑畑から農作業中に偶然発見された後、所有権をめぐって紛糾。紆余曲折(うよきょくせつ)を経て東京国博保管に落ち着いた経緯がある。団印の里帰りを働きかけてきた福岡市東区香住ケ丘の古代史ファン、高木健吉さんは「待ち望んでいた朗報。どのような解説文が付き、展示されるのか、興味が尽きない。これを機に九州国博での永久展示を実現してほしい」と話している。
筑前国分跡
奈良時代の中頃、天然痘や内乱などの社会不安が続いたため、天平13年(741)聖武天皇は鎮護国家、五穀豊穣を祈願するため諸国に国分二寺(国分寺と尼寺)の建立を命じた。筑前国分寺は、太宰府政庁の見晴らしの良いこの丘陵地に建てられた。創建についての記録は残っていないが、西海道の国分寺が天平勝宝8年(756)には建てられた記録があるので、筑前国の国分寺もこの頃までには完成していたと考えられる。(国分寺説明板より)
この辺りが条坊西北の角 JR鹿児島線
JR鹿児島線を渡って条坊南西の角〜塔の原へ
条坊南西の角(杉塚廃寺)
杉塚廃寺は、大宰府条坊推定域右郭19条10坊から11坊に位置し、昭和48、54年の2度の発掘調査で寺院の金堂又は講堂と考えられています。基壇(きだん)や礎石とともに、老司系丸瓦・平瓦や頁岩(けつがん)質の石帯(せきたい)(ベルトに付ける石製の装飾品)等が出土し、8世紀代の寺院であることがわかりました。大宰府政庁から鬼門(北東)の方角にある竈山(かまどやま)に対し、裏鬼門(西南)を鎮護するための寺院と考えられます。当時、寺の西側には、水城西門を通って朱雀大路に合流する官道が通っていたことが明らかにされています。
杉塚廃寺は、外国の使節が博多から大宰府に至るとき、大宰府条坊域内で最初に目にする大規模な建築物であったと思われます。         
                                   [『筑紫野の指定文化財』より]
塔原塔跡(とうのはるとうあと)
県道31号線の塔原交差点の傍らに、古代寺院の塔心礎(塔の中心に立つ柱を乗せる基礎石)が残っています。江戸時代、貝原益軒が記した『筑前国続風土記』には、この石が「塔原」という地名の由来になっていることが記されていますし、江戸時代に描かれた『太宰府旧跡全図(北)』(個人蔵)にも、十王堂跡として、礎石が記されています。
この塔心礎は、中心に二段になった方形の舎利孔(釈迦の遺骨を納めるための孔)があるのが特徴で、このような例は、九州ではこの塔原塔跡と上坂廃寺(福岡県豊前市)の二例だけという極めて珍しいものです。
聖徳太子の伝記『上宮聖徳法王帝説』の裏書きには、
筑紫大宰帥(つくしだざいのそち)蘇我(そがの)日向(ひむか)が白雉5年(654年)に孝徳天皇の冥福を祈って「般若寺」を建立したことが記されており、それがこの塔原廃寺のことではないかと考えられています。
また、県道31号線建設の際の発掘調査によって、山田寺系瓦との関連が考えられる軒丸・軒平瓦が出土しており、山田寺が蘇我倉山田石川麻呂の寺であったことから、蘇我氏との関連が裏付けられています。
(筑紫野市歴史博物館『筑紫野の指定文化財』より)
塔原の県道5号線沿いで昼食 塔原塔跡
大賀酒造
創業は延宝元年(1673年)で福岡県で最古の酒蔵:大賀酒造に立寄りました。
昭和30年頃の二日市の商店街(中央が大賀酒造) 大正末期の大賀酒造
大賀酒造のギャラリーにあったお酒の製作工程
条坊東南の角(二日市公園付近)
日本経済大学の構内にあるイングリッシュガーデンで休憩
珍しい・ミヤマホオジロ(頭に冠がある)を撮影しました。 ハクチョウ
条坊東北の角(駐車場)
太宰府の駐車場内の条坊東北の角を確認をして本日の条坊外郭線歩きは終了。
ここで自由解散をして、希望者は予定のコースを政庁跡まで歩く。
朝日地蔵
この旭日地蔵は横岳崇福寺を創建した大応国師の墓といわれ、黒田長政が筑前に入国し兵火にて失った崇福寺を千代の松原に再興した時にここの地蔵さまの分霊を境内にお祭りしました。これが博多崇福寺の旭地蔵尊だそうです。
少弐資頼資能墓
観世音寺の北西約400メートルの森の中、安養寺跡に、武藤資頼とその子資能の墓がありました。
推定大宰府庁正門礎石  (現地説明板より)
最後に太宰府政庁の駐車場にあった政庁正門礎石を見学して、本日の歩こう会 を終わりました。

昭和57年の御笠川(みかさがわ)改修工事のとき、その川床から発見された。縦横2m近くあり、政庁の中門・南門のものとは比較にならず、正殿のものよりもひとまわり大きい。
発見地点は政庁南門の南約220m、政庁中軸延長線上に位置する。この礎石の巨大さと発見位置から想定すると、ここに府庁の正門すなわち都の朱雀門(すざくもん)に相当する門があった可能性は十分に考えられる。 昭和61年3月 福岡教育委員会