第27回 歩こう会
大宰府の誕生とその史跡を訪ねて
【日時】      平成17年4月5日(火)JR水城駅前集合
【参加人員】   64名
 

【コース】  水城堤(西門)〜水城堤(東門)〜旧大宰府道経由〜昼食〜国分尼寺〜国分寺〜大宰府ふれあい館〜御笠軍団印〜坂本八幡宮〜大宰府政庁跡〜学業院跡〜戒壇院〜観世音寺〜玄望坊の胴塚〜朝日地蔵〜少弐資頼資能墓〜横岳崇福寺跡〜小松重盛墓〜西鉄大宰府駅
4月5日、JR水城駅に64名集合。 1340年前の飛鳥時代に築かれた「筑紫大堤」の堤上を「こんな大きな堤防をどうして造ったのか?」といいながら1Km歩きました。午後は、太宰府ふれあい館で「太宰府誕生」のビデオを鑑賞。 続いて、奈良・平安時代「遠の朝廷(とおのみかど)」と言われた「太宰府」の史跡12ヵ所を訪ね歩きました。当日は、久しぶりの快晴で桜も元気よく咲きはじめ、家族連れの子供たちから「おじいちゃん、あばあちゃんたちが遠足している! お元気でね!」と励ましの声を受けての楽しい歩こう会でした。  歩行距離7km。(野田 弘信)
関連情報のリンク 大宰府市HP
大宰府散策マップ 大宰府案内
大宰府まるごと博物館
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桜がほころぶ快晴の日 66名の過去最高の参加者がJR水城駅に集合し、早速水城跡西門に向かいました
水城跡(西門)
特別史跡 水城跡
天智天皇二年(663年)の白村江の戦に大敗したわが国は、国防の強化を図るためにその翌年に水城を築いた。水城は全長約1,2キロメートル、基底幅70メートル、高さ14メートルの人工の土塁で、福岡から筑後に広がる平野の最も狭い部分を塞いでおり、敵の大宰府侵入を防ぐための施設である。日本書紀には「筑紫に大堤を築きて水を貯へしむ。名づけて水城といふ」とあり、貯水の方法が問題になっていたが、近年の発掘調査の結果、博多側に幅約60メートル、深さ4メートル以上の濠が存在したことが明らかとなった。なおこの西方には、これと同じ構造の上大利、大土居、天神山築堤があり、小水城とよばれている。西門からは鴻臚館へと通じる官道があったと考えられています
 
土塁の幅80m、高さ13m、長さ1.2kmもあります。前面の壕にためる水は太宰府側にある水路から地下を通して流し込めます


左の図は水城西門付近想像図上の図は水城断面図

水城には2ヶ所の門がありました。国道3号線の所が東門、大野城市の下大利4丁目には西門がありました。
水城跡(東門)
現在まで「水城」の跡が残っているのは、水城の築造過程によるものです。水城の土塁は粘土や砂などを交互に5〜30cmほどの厚さに平たく均され、つき固めて積み上げられています。また、水城の下の方は、地盤が軟弱であったため、樹木の枝葉を敷き詰めて基礎の滑りを押さえる工法が採用されていました。長い年月のために土塁も部分的に削れ、かつて博多側にあった大きな堀も埋もれてしまいました。しかし、水城はたんなる堤ではなく、頑強な堤防として高い土木技術で築造されていたため、現在でも崩れにくいとのことです。
左側の土手が防塁となっていたようです。航空写真を見るとかなり長い距離の土手が続いています
手前が旧国道3号線で、小高い丘が水城です。 史蹟 水城阯の碑
      
水城の東門礎石江戸時代には鬼の硯石といわれたそうです。巨大な石です。東門からは、博多遺跡群に向かって官道が伸びていました。
大宰府ふれあい館
国分寺尼寺
国分寺尼寺跡は国分寺跡から約300m離れた所にあり、8世紀後半に造られ約100年間という短期間のみ存続した遺構がみつかりました。
国分寺
奈良時代、聖武(しょうむ)天皇は全国に国分寺・国分尼寺を建て、その中心として奈良の都に東大寺を建てて大仏をつくり、仏に守られた豊かな国をつくろうとされました。筑後国分寺もそのひとつで、現在は、見事な磁石が残る塔跡と講堂跡、そして金堂跡に建てられたお堂の中にある平安時代後期の伝薬師如来(でんやくしにょらい・重要文化財)等から昔をしのぶことができます。
御笠軍団印
太宰府市で発見され、現在は東京国立博物館の所蔵品となっている律令国家時代に編成された軍隊「御笠軍団」の青銅印(国重要文化財)が、今秋に開館する九州国立博物館(太宰府市石坂)のオープニング展で「里帰り」展示されることが決まった。「ゆかりの九州に帰ってきてほしい」と願う太宰府関係者や九州国博の要望に応え、一時的な貸し出しが許可された。 御笠軍団は奈良時代の律令国家が地方に置いた軍団で、兵士は公民から徴発された。九州域内には筑前四軍団、筑後三軍団、豊前二軍団など十八の軍団があった。団印は一辺約四・二センチの正方形。「御笠団印」の四文字を二字ずつ縦二行に陽刻している。筑前四軍団のうちの一つ、「御笠軍団」の印とされている。一九二七年、水城村(現在太宰府市)坂本の桑畑から農作業中に偶然発見された後、所有権をめぐって紛糾。紆余曲折(うよきょくせつ)を経て東京国博保管に落ち着いた経緯がある。団印の里帰りを働きかけてきた福岡市東区香住ケ丘の古代史ファン、高木健吉さんは「待ち望んでいた朗報。どのような解説文が付き、展示されるのか、興味が尽きない。これを機に九州国博での永久展示を実現してほしい」と話している。
坂本八幡宮
一般に、山の登り口を「坂本」という。比叡山の坂本は有名である。ここは四王寺山への登り口で、坂本八幡宮は大宰師大伴旅人の屋敷跡といわれている
大宰府政庁跡
7世紀後半、大和朝廷は那の津の官家(みやけ)をここに移し、奈良・平安時代を通 して、九州を治め、わが国の西の守り(防衛)、外国との交渉の窓口となる役所(太宰府)としました。太宰府は南北22条、東西24坊の都市計画があったという学説があります。その規模は平城京、平安京に次ぐ大きなものです。万葉集には”遠の朝廷(みかど)”と詠まれ、その規模をしのばせる立派な磁石が残り、そこを中心に門や回廊、周辺の役所跡等が整備されて公園となっています。
大宰府政庁跡で写真撮影後 新入会員の5名を紹介しました。左より清成・田中・一木夫妻・原田さんです。
学業院跡
奈良時代、中央には大学、諸国には国学、太宰府には官吏養成のための学校院(学業院)がおかれ、明経・算・医の三学科がありそこでは九州一円の国司・郡司の子弟が学びました 
戒壇院
奈良時代、観世音寺に戒壇院が置かれました。戒壇とは僧尼として守るべき戒律を授ける所で、ここで戒めを受けなければ正式の僧尼とは認められませんでした。奈良の東大寺、栃木の薬師寺に置かれた戒壇と合わせて、天下三戒壇と称されました。江戸時代には観世音寺を離れ、現在は禅寺となっています。なお、本尊の盧舎那仏は平安時代末の作で、重要文化財に指定されています
観世音寺

『源氏物語』にも登場する観世音寺は、御母斉明天皇追悼のために天智天皇が建築を発丸され、80余年の歳月をかけ、奈良時代(天平18年)に完成しました。当時は南大門・中門・五重塔・金堂・講堂・鐘楼・経蔵など、七堂伽藍を備え、九州の寺院の中心的存在でした。現在は、江戸時代に再建された講堂と金堂(県指定文化財)のニ堂が残っており、往時の大きさをしのばせる日本最古の梵鐘(国宝)、平安時代から鎌倉時代にかけての仏像(全て重要文化財)も数多く残り、境内で見学することが出来ます。

の梵鐘は創建当時のもので、文武2年(698)の銘をもつ京都妙心寺のものと兄弟鐘といわれている。日本最古の梵鐘で国宝。菅原道真が「観音寺はただ鐘の声をのみ聴く」と詠じたのは、この鐘であるという。
日方の墓

観世音寺の境内を裏手の方へ少し入ったところに、中央で権勢をほしいままにしながらスキャンダルで九州に追いやられた僧・玄[日方](げんぼう)のお墓があります。スキャンダルがスキャンダルなだけに(天皇の奥様の一人と不倫したという。しかもその人が藤原不比等の娘・宮子だったのだから・・・・)、そんな人のお墓なんて忘れ去られた悲しい扱いかと思いきや、わかりやすい看板がちゃんと出ていました。観世音寺に流されたとはいえ、ここは当時九州の一番大きなお寺。大宰府は遠の朝廷。地理的にも外国に近い重要なところでもあるし、左遷にしてはそれなりに待遇はよかったのかも。

少弐資頼資能墓
観世音寺の北西約400メートルの森の中、安養寺跡に、武藤資頼とその子資能の墓がある。資頼の墓は一石隅切五輪塔残欠いっせきすみきりごりんのとうざんげつ(県文化財)といい、資能のそれは宝キョウ(註・漢字)印塔ほうきょういんとうといわれる少弐家の系図  資頼すけより−資能すけよし−経資つねすけ資時すけとき景資かげすけ
横岳崇福寺跡
平家を滅ぼした源頼朝は、大宰府に鎮西奉行をおき、東国の武士武藤資頼をそれに任じた。後に資頼は太宰少弐に任ぜられたので、武藤氏を少弐というようになる。その子資能は、大応国師(宋で八年間仏法を学ぶ)を大宰府に迎えた。大応国師は、最初興徳寺(福岡市姪浜)に入り、ついで崇福寺そうふくじ(大宰府市白川横岳)に入山、この寺の開山始祖となった。(文久九・1272) 
朝日地蔵
この旭日地蔵は横岳崇福寺を創建した大応国師の墓といわれました。又黒田長政が筑前に入国し兵火にて失った崇福寺を千代の松原に再興した時にここの地蔵さまの分霊を境内にお祭りしました。これが博多崇福寺の旭地蔵尊だそうな。
本日の予定は午後4時をすぎた為ここを最後にして大宰府駅に向かい解散しました。