「鴻臚館・博多~太宰府」古代官道を歩く
奈良・平安時代に九州を治め、大陸との外交や軍事面を担った役所「大宰府政庁」と、海外使節向けの迎賓館「鴻臚館」を結んだとされる古代官道「大宰府官道」を歩く
【日時】
平成20年12月2日(火)  AM11:00 西鉄都府楼前駅集合
【参加人員】    60名
【コース】  都府楼前駅 ~ 苅萱(かるかや)関跡~ 太宰府条坊北西端 ~ 衣掛天満宮 ~ 水城東門 ~ 水城展望所~(昼食)~水城土手上を歩く~水城西門~JR水城駅~大利中学校~九大構内~春日神社~春日公園~JR春日駅~忘年会(桃佳亭)

今から1300年前の日本国誕生時に、最初の国家事業として大宰府政庁から博多鴻臚館を結ぶ直線道路15km(幅20~10m)の大宰府官道(現在の国道)が造られました。
12月2日(火)に西鉄都府楼前駅に60名が集合!この大宰府官道の中で、水城の東門跡から西門跡までの堤防上を1、2kmを歩き、さらに大野城の大利小中学校庭を経て、春日市の九州大学応用力学研究所~春日神社~春日公園~航空自衛隊春日駐屯地までの9kmを元気に歩きました。
最後は、本年一年間6回の走行距離50kmの総まとめとして、春日の料亭「桃佳亭」で和気あいあいの忘年会となりました。(野田 弘信)

11時に西鉄都府楼前駅に集合して早速、太宰府官道巡りへ
苅萱の関(かるかやのせき)
 昔、太宰府の入口にあった苅萱の関は、現在の関屋の交差点付近で、浄瑠璃「苅萱道心」や高野山苅萱堂縁起の仏教説話でその名を知られたところだそうです。
主人公・苅萱道心(どうしん)は、苅萱の関の関守をしていた加藤左衛門尉繁氏(さえもんのじょうしげうじ)が出家した後に名乗った名前です。繁氏の父は、名を加藤左衛門尉繁昌(しげまさ)といい、弓の達人でした。立派な人物でしたが子宝に恵まれず、どうしても世継ぎのほしい繁昌は、香椎宮へ願をかけに行きました。すると、満願の日の早朝夢枕に香椎宮の使いが立ち、「箱崎の松原の西の橋ぎわの石堂口の川のほとりに行きなさい。そこに玉のような石がある。これを持ちかえり妻に与えるのです。必ずや男の子が生まれるであろう」と告げて消えました。急いで、繁昌が石堂口へ行ってみると、そこに立つお地蔵様が左手の上に丸い石をのせています。その石は温かく、光明を放っているのです。繁昌は、大事に大事に石を太宰府の家に持ち帰り、妻に与えました。ほどなく妻は妊娠し、翌年正月二四日、男の子が生まれました。この時、家の中には、何とも知れぬよい香りが薫ったといいます。男の子は、霊石を賜った地名をとって石堂丸と名づけられました。そしてこの石堂丸が繁氏、後の苅萱道心なのだそうです。
初参加の新入会員の紹介 大宅道雄さん 太宰府条坊北西端にて
国家誕生後の最初の国家事業と考えられる全国の道路整備事業、それが古代官道です
大陸との外交や軍事面を担った「大宰府政庁」と、海外交流・国防の拠点であった迎賓館「鴻臚館」とを結ぶ「大宰府官道」は、その基幹的な道路でした。A,Bルートはほぼ15kmだそうです。
前田遺跡の官道(幅20m) 鴻臚館と水城西門は一直線につながっています。三宅もその官道に位置しています。
衣掛天満宮
神社に伝わる話では、都から左遷されてきた菅公(菅原道真)は長旅の終わりの、ここ水城につき、旅衣を脱いで、傍らの松と石に掛け、新しい衣に着替えました。その旅衣を掛けた松と石を祀ったのが衣掛天神(衣掛天満宮)とされているそうです。
水城東門
水城東門の展望台からの背振山の眺望で手前のこんもりとした林が水城跡で土塁の規模長さ1.2km、高さ7m、幅77mと云われています。水城は664年に築造された土塁で、663年白村江の戦いで敗北後、大野城や基肄城などと共に築造された防衛施設で土塁はここ国分側の丘陵と住宅街になっている正面の吉松丘陵との間1.2kmを塞ぐように造られた人工の盛土です。
水城展望所
博多湾方向 西方から見た水城跡
水城土手の暖かい南側での昼食・休憩
参加者の集合写真  クリックすると拡大します!  (高画質 561KB:拡大してコピー保存してください)
水城東門から水城西門へ
水城土手上を歩く~水城西門
水城跡(西門)
特別史跡 水城跡
天智天皇二年(663年)の白村江の戦に大敗したわが国は、国防の強化を図るためにその翌年に水城を築いた。水城は全長約1,2キロメートル、基底幅70メートル、高さ14メートルの人工の土塁で、福岡から筑後に広がる平野の最も狭い部分を塞いでおり、敵の大宰府侵入を防ぐための施設である。日本書紀には「筑紫に大堤を築きて水を貯へしむ。名づけて水城といふ」とあり、貯水の方法が問題になっていたが、近年の発掘調査の結果、博多側に幅約60メートル、深さ4メートル以上の濠が存在したことが明らかとなった。なおこの西方には、これと同じ構造の上大利、大土居、天神山築堤があり、小水城とよばれている。西門からは鴻臚館へと通じる官道があったと考えられています
水城跡調査の現地説明会より
水城は『日本書紀』によると、天智天皇3(664)年に「筑紫に大堤を築きて、水を貯えしむ。名づけて水城という」とあり、大野城(朝鮮式山城)とともに大宰府防衛施設の一つとして築かれたものです。663年、朝鮮半島白村江の戦いで、唐、新羅の連合軍に敗れた大和朝廷が築いた長大な土塁で、東西二カ所に門があり、土塁内部には御笠川から堀に水を流す木樋(木製の導水管)が四カ所で確認されています。土塁は高さ10メートル以上、幅80メートル、長さ1200メートルとある。その博多湾側にあった堀は幅60メートル、深さ4メートルで水を貯(たくわ)えていたと思われます。

第40次調査は07年6月から御笠川左岸西門そばに残る土塁北側部で行われ、現在も調査は続行中で調査の目的は、木樋吐水部、周辺外濠の構造解明です。
これまでの調査の成果は、同資料館によれば、①木樋吐水部=木樋本体は検出できなかったが、土塁際では、木樋を埋設した「堀形」の痕跡を確認。木樋の掘形を延長する形で吐水に関わる「溝」を検出。②外濠=土塁基底部際では、「溝状遺構」を検出できたことだそうです。
TVでたびたび紹介される コテで絵画を描く職人さんの自宅
大利中学校
この大利中学校のグランドに太宰府官道が通ったそうです
大利中学校での集合写真  クリックすると拡大します!  (高画質 511KB:拡大してコピー保存してください)
九州大学/応用力学研究所
九大の正面入り口の並木道は見事に紅葉
春日神社
奈良春日大社の分霊を祀ったのが始まり。婿おし祭が有名で、平成7年には国指定重要無形民俗文化財に指定されました。前年中に結婚した新郎新婦を祝福する行事で毎年1月14日夜に行われます。
前年(一月十五日から当年一月十三日まで)に結婚した新郎・新婦を宿(ヤド)において披露し、神社・境内を駆使した婿揉みを行い、青年から若水を浴びせられて祝福する最大年中行事。
(毎年、1月14日にこの池で行われる婿おし祭)
春日公園
芝生とたくさんの種類の樹木に囲まれる広大な春日県営公園は、昭和天皇在位50周年記念としてつくられ、総面積30ヘクタールの広大な園内には、スタンドとナイター設備を持つ野球場、球技場、テニスコートをはじめ、大噴水、自然風庭園、野外音楽堂、児童コーナーなど、充実した施設が整っています。園内を周回する1.6キロメートルの散策道は、市内でも人気のジョギングコースとなっています。
春日公園を後に忘年会会場へ
忘年会 (春日原・桃佳亭)
本年度の忘年会は春日原の日本料理・桃佳亭で開催しました。おいしい料理と飲み放題のうまい酒で楽しく会員の親睦を図りました。
歩こう会世話人・野田さんの挨拶 松九会・井上会長挨拶
中島さんの音頭で乾杯 会食・懇談
会食・懇談 締めは恒例の「祝いめでた」で合唱
                                                      
第27回歩こう会 (JR水城駅~水城跡~西鉄大宰府駅)へのHPへ