九州国立博物館オープン記念 太宰府「どんかん道」を歩く  
【日時】      平成17年12月6日(火)
【参加人員】     58名 
【コース】 西鉄二日市駅〜般若寺跡〜七重石塔〜隈麿呂墓〜榎社〜どんかん道〜大宰府天満宮〜九州国立博物館〜国民年金保養センター(忘年会)〜西鉄大宰府駅
12月6日、西鉄二日市駅に58名集合。早速、天神様御神幸の「どんかん道」をたどりながら太宰府天満宮へ。昼食後は「九州国立博物館」を見学! わが国とアジア諸国との濃密な文化交流の歴史を知ることができました。最後は、国民年金健康保養センターにて「忘年会」を開催! 参加者相互の本年一年間の無事を祝し、来年度のさらなる健康を誓い合いました。本日は「歩く」+「学ぶ」+「年忘れ」の楽しい一日でした。(野田 弘信)
関連先リンク 太宰府市ホームページ
九州国立博物館 
西都 太宰府

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般若寺跡
この古代寺院跡の発掘調査の結果、塔の心礎が残る塔跡とその東側に隣接する掘立柱建物1棟、北側の寺域を画する柵列が検出されています。そして、老司式軒丸・軒平瓦のほか、8世紀代を中心とする土器をはじめとする遺物が出土しています。  『上宮聖徳法王帝説』の裏書きに見る筑紫大宰蘇我日向が白雉5年(654年)に孝徳天皇の冥福を祈って建立した般若寺とする説があるほか、日向の般若寺は、実は筑紫野市塔原の塔原廃寺で、当般若寺は奈良時代に入ってから塔原から移転したものであるとする説があるそうです
般若寺跡塔礎石 般若寺七重石塔(国指定重要文化財)は花崗岩製で、基礎からの高さは3.35m各面に梵字で金剛界四仏が彫られています
隈麻呂の墓
大宰府に左遷された道真は、隈麻呂と紅姫という二人の子を連れていました。府の南館の生活は不自由で苦しいものでしたが、愛らしい幼児二人が道真の唯一の心の支えであったと伝えられています。しかし、過酷な生活の中で、左遷の翌年、隈麻呂は病にかかり急逝しました。榎社の東側、納骨堂の建つ小高い丘の上に、「隈麿之奥都城」とされる墓と六弁の花をつける梅の古木があります。また、隈麻呂の姉、紅姫のその後は定かではありません。一説には隈麻呂に次いで翌年道真も亡くなったので、土佐に流された道真の長男高視の元に向かったといわれています。榎社の社殿裏には「紅姫の供養塔」と言われる地蔵石像が、「隈麻呂の墓」から東へ徒歩4〜5分の所にも、同じく「紅姫の供養塔」といわれる板碑があります。その板碑には梵字が刻まれています。
隈麿呂の墓 隈麿呂の墓全体
榎社と菅原道真
榎社は、在りし日の菅原道真の配所でありました「府の南館」とよばれた大宰府政庁の官舎でした。菅原道真が大宰府に左遷されたときには、使用されていなかったため、井戸をさらえ、軒を修理してやっと雨露をしのげる程のあばら屋だったと伝えられています。府の南館で、道真がひたすら謹慎生活を送る心情をよんだ漢詩が残っています。「不出門」です。その一節を紹介しましょう。 都府楼はわずかに瓦色を看観音寺は只鐘声を聴く (漢詩の意味)政庁の楼閣の瓦はわずかに見え、観世音寺の鐘はだたその音を聞くだけ…道真の心情が伝わってくる一節です。そして、後の、治安3年(1023年)に、大宰大弐藤原惟憲が、道真の霊を弔うため浄妙院を建立。境内に榎がたくさんあったことから榎寺ともよばれ、現在は榎社とよんでいます。
榎社と浄妙尼
榎社の裏にひっそりとたたずむ祠には、「浄妙尼」あるいは「もろ尼御前」ともよばれる老婆が祀られています。配流の地で、食べるものにも事欠く暮らしを強いられていた道真に、”麹の飯”や”餅”を焼いて差し上げたり、なにくれとなく世話をしたとも、道真を刺客からかくまったとも伝えられる老婆です。この餅が後に太宰府名物「梅ヶ枝餅」となったといわれています。
 大宰府市の地域活性化複合施設【太宰府館】
新入会員(林田良一さん)の紹介 世話人の野田さんより本日のコースの説明を受けて昼食
九州国立博物館
博物館の表側 博物館の裏側
換算すると1千万の価値があるそうです ソーン・オック(ミヤンマー渋器の精華)仏前に供物を捧げるための容器
金銅製の壺鐙 大宰府政庁のミニチュア
 
火焔土器(縄文時代:新潟県(道尻手遺跡出土) コバルトブルーの龍が舞う瓶 観世音寺の日本最古の梵鐘
忘年会 (国民年金保養センター)
本年度の忘年会は大宰府の保養センターで開催、おいしい料理と飲み放題のうまい酒で会員の親睦、世話人へのねぎらい等楽しい2時間半でした。最後は来年の歩こう会は2月は熊本の田原坂、4月は篠栗と決定して閉会しました。