うきは市立浮羽歴史民俗資料館
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浮羽町朝田にある歴史民俗資料館で本日のガイド・福岡県文化財保護指導員の佐藤好英さんより大石堰・灌漑工事の偉業や歴史的背景を解かりやすく説明していただきました。 |
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現在、福岡県うきは市は九州一の大河「筑後川により肥沃な田園地帯ですが江戸時代初期までは水不足に悩まされていました。
その理由は筑後川より高台にあるためです。水不足に苦しむ農民のため立ち上がったのが5人の庄屋でした。庄屋たちは、私財を提供し久留米藩に負担をかけない、という約束で「かんがい用水路」の建設許可を願います。
しかし許可を得るのは簡単ではありませんでした。近隣の庄屋たちが、用水路建設が失敗したら被害を受ける、という理由で反対したからです。そのため工事に失敗した場合、5人の庄屋は処刑されるという条件で許可されました。事現場には5人分の磔柱(はりつけばしら)が立てられたのです。
こうして1664年工事が開始されました。予想されてはいましたが、筑後川は大河のため難工事だったのです。しかし「庄屋を死なせるな」という一念で用水路は完成しました。
農民総出の努力が実ったわけです。この用水路のおかげで、水不足は解消され今日まで恩恵を受けています。
近くの江南小学校では、五庄屋の遺徳をしのんで校歌として歌われています。また五庄屋は長野水神社に祀られていますが、近隣の農家は今でも代表の方が年に1回参拝するそうです。
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五庄屋が命を懸けて築いた大石堰を歩く |
大石堰は、五人の庄屋の発願よって筑後川左岸に江戸期に開削されました。これによって、肥沃な大地が生まれ、久留米有馬藩領の水田石高は増大しました。現在もその恩恵を受け、うきはの農産業を支えています。大石水道のほとりには、五庄屋の偉業を称えた三堰の碑(さんえんのひ)があり、「筑後川は諸志に著はれ実に天下の大水なり」と碑の冒頭に記されています。
●大石堰の歴史 ~五庄屋の灌漑工事の偉業
江戸初期の浮羽地方は、筑後川の沿岸にありながら土地が高く水利が極めて不便なところで水田にすることができませんでした。栗林次兵衛・本松平右衛門・山下助左衛門・重富平左衛門・猪山作之丞の五人の庄屋は、筑後川の水をこの大石から水道へ引き入れ送水して下流域を水田化しようと決心。寛文三年(1663)9月にこの計画を久留米藩に提出しました。しかしながら、あまりの大事業であり、水路筋にあたる11カ村から「大石村から水路を開削して導水すれば、洪水時に導水路にあたる村は多大な被害を受ける」と反対運動にあいます。五人の庄屋は、自分たちの計画を貫く為の決意表明として誓詞血判を行い、「計画通り工事をしても損害はない。万一損害があれば、極刑に処されても異存無し」と主張し、同年12月、郡奉行や村人らに灌漑工事を認めさせました。
寛文四年(1664)1月、藩営事業として工事が始められ3月中旬に開通。翌年寛文5年に溝幅が拡張され、続いて6年、7年と拡張工事が実施されました。更に灌漑面積を拡大するため、延宝2年(1674)難工事の末、大石堰が完成しました。その後、大石長野水道は農民の永年の苦労と努力に支えられ、今も下流域一帯、約30平方キロに及ぶ水田地帯を潤しています。
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江戸時代に作られた大石の堰は、昭和28年(1953年)6月に西日本を襲った大水害の際、甚大な被害を受け破損しました。
現在の大石堰
昭和28年(1953年)筑後川大洪水のため大石堰が破損 崩壊する その後、新しく現在の大石堰が完成し、下流域の広大な美田、穀倉地帯が維持されて 現在に至っているます。 工期 昭和29年~31年、工事費 3億4千万円で完成。
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旧大石堰見取図 |
寛文4年(1664年)1月藩営事業として、五人の庄屋と農民が一体となり難工事 に取り組みました。
同年3月中旬、総幅員4間、川幅2間の大石.長野水道が完成 引き続き、寛文5.6.7年に亘り水路拡幅工事を施工。
その後、延宝2年(1674年)灌漑面積を拡張するための難工事が完成 し 大石、長野 水道事業は完了しました。
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大石堰から川の流れは枝分かれし、市内へ流れています。 大石・長野水道 |
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大石堰のほとりには、大石堰遺跡・水神社があり五人の庄屋を祀っていました。
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大石堰前での集合写真 (この写真はクリックすると拡大します) |
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快晴の中、長野水神社までの5kmを歩く |
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水路ではコイの養殖 堰では小魚を狙う野鳥 |
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長野水神社 |
大石堰のこの偉業をたたえて五人の庄屋を祀ったのが長野水神社(五霊社)で、 4月8日の春の大祭には、小学生による「浦安の舞」が奉納され、 露店も出店し、
五庄屋の恩恵を受けている多くの人々が参拝に訪れているそうです。又、長野水神社は桜の名所で、桜の時期は花見客でにぎわいます。 |
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長野神社の由来
江戸時代は天災・飢饉の多い時代であった。米の不作のために農民の逃亡が起こり、納める久留米藩も地方のまとめの庄屋も不安と心配の連続であった。その頃、生葉の郡の江南地区に五人の庄屋、栗林治兵衛、本松平右衛門、山下助左衛門、重富平左衛門、猪山作之丞がいた。自分達の住む地のすぐ北側に筑後川がとうとうと流れていた。この水が欲しい。何とかしてこの豊かな流水を導水したいと、綿密な調査をし、計画を立てて、久留米藩に願い出た。この時郡奉行の高村権内は農民の厚い志を深く汲み取り藩の中枢に働きかけた。
寛文四年(1664)ようやく許可が下りた。すぐ工事が始められ約一年間という短期間のうち第一期工事完了した。特に大石堰、長野堰は最大の難工事だった。当初水門は一基、灌漑田畑は八十余町(ヘクタール)だったが、予期以上の好結果のため、第四期工事まで立て続けに行われた。
水門は二基となり流域は二千数百町歩(ヘクタール)に及んだ。現在に至るまで数多くの洪水のため何回となく石垣・水門は破壊されたが、そのたび改修工事をし、導水の確保がなされた。このため水路が出来てからは、どんな日照りの年でもこの地方は不作を免れた。農民及び久留米藩が喜んだのは言うまでもない。そのため、長野水道を守るため水神社を建立した。それに合わせて五人の庄屋を神として祀ったのである。五庄屋の厚き神恩に感謝するため毎年田植えが終わって、集落単位お礼のお参りが現在も続けられている。なお、大石水道からの水は、現在サイフォン式により隈の上川の下をくぐり、境内の地下を西に流れ出ている。また、長野堰は、昭和二十八年、四十六年の決壊のため近代的なテトラポット式に改修され昔の石畳の面影は東部と中ほどの一部が残っているだけである。
平成十五年十一月吉日 宮司 熊抱孝彦 謹書 |
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大石水道は、ここからサイフォンの原理を応用して隈上川と長野水神社の地下を 潜り、 再び地上に出て大石・長野水道とし下流へ水を運んでいます。 長野水神社の境内地下を大石・長野水道ヒューム管が通じているそうです。 |
長野水神社地下から再び姿を現した大石・長野水道 水
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隈上川への排水口 |
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隈上川 に架かる長野橋 |
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長野水道~角間天秤までを歩く |
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大石・長野の水道~角間天秤 |
分流点に差し掛かる手前では、川の流を2箇所で直角に曲げ、水流を弱めて分流点に向かわせています。分流点に水勢等の負担が掛からない様な工夫だそうです。 |
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角間天秤(分水と水量の調整をする分水路) |
角間はこのあたりの地名、天秤は金銀や薬の重さをはかる秤のこと、田畑に水を取り入れるだけでなく、水害を防いで水はけを良くするためにも、水量調節はとても大事なことでした。 この角間の分水点を、昔から貴重な品を計り分けた天秤の名をうけて語り伝えてきた人たちの思いは、今も用水路の水の歴史と共に息づいています。 寛文四年(1664年)春、九州一の大河・筑後川から水を引くという五人の庄屋発起の大工事以来、ここの水を分ける天秤の作りは少しづつ手直しされて現在の格好に変わってきたものです。 それは、この角間の地が重要な水路分岐点のほか、ながく筑後川の洪水常襲地帯であったこと、そして上流と下流の人びとの間に、生きるための水をめぐる争いが絶えなかった悲しい歴史の跡を彫り込みながら、風景としては、数個の石を無造作に置かれているだけと見える単純な構造、でもこの形にたどりつくためには、三百年余にわたって死に代り生き代りして田を打ち続けてたこの地方の農民達の抑制の利いた生きる営みが必要だったのでしょう。
現在、この天秤で分かれた南北の両幹川水路の前後にも三つの分水溝があって流域に合わせて約二千ヘクタールの田畑も潅漑し続けています。文(郷土史家) 今村 武志 |
当時の土木技術の高さを垣間見た気がします。絶妙な石の配置で水の量をコントロールしています。
北新川へ注ぐ堰 、流量調整の為の3個の大石が水争いを象徴しています。 右・北新川 左・南新川
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道の駅・うきはで昼食 |
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五人の庄屋の集落 本松平右衛門墓地 |
彼らの偉業に神妙な気持ちでお参りをする。発起人代表は高田村庄屋 山下助左衛門で、庄屋の年齢は18歳から 50歳代で平均年齢30歳代の若さだったそうです。
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福岡県生葉郡(いくはぐん)清宗村の庄屋。寛文4年(1664)筑後川から大石・長野水道をひいた「筑後五庄屋」のひとり。工事失敗の際は処刑覚悟の血判誓書を久留米(くるめ)藩に提出。5本の磔(はりつけ)柱をたてて工事を督励し,大石堰を完成させた。元禄10年2月8日死去。 |
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大正14年(1925)草野又六と五庄屋の徳をたたえて天神様として水神様と合祀した大堰神社 |
大堰神社
この地方の水田を潤す床島堰は正徳2(1712)年難工事の末完成をみた。床島堰の恩恵はこの地方の農業振興に欠かす事ができない。大正年間に床島堰建設の指導者をたたえ、草野又六・高山六右衛門・秋山新左衛門・鹿毛甚右衛門・中垣清右衛門・丸林善左衛門を追加合祀した。
バスの車窓から撮影した大堰神社 |
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クボタ農業機械歴史館 |
福岡県久留米市田主丸町の福岡クボタの「大橋松雄農業機械歴史館」を訪問。福岡クボタ会長であった故大橋松雄氏が収集した農具、農機具、農業機械を収集した資料館でした。館内ではずらりと並んだ展示品に圧倒され、もっぱら人力に頼った時代の「鍬鋤」からはじまって、発動機、エンジン発明によって可能になった初期の脱穀機や籾すり機を展示。人が押して歩くトラクタ、田植機が開発されたのが昭和30年代。コンバイン、乗用型トラクタ等が使われだしたのが高度成長期。そして、今では当たり前のように使われている乗用型田植機が登場したのが、昭和50年代だということに驚くばかりでした。鉄筋構造の広い建物2棟に貴重な農機が並ぶ農業機械歴史館でした
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本日はW杯ブラジル出場を決める大事なサッカー中継があるため、時間を切り上げ(最後の大堰神社は車窓から)、天神は17:00着となり、それぞれ自宅へ急いで帰りました。 |