【日時】
平成24年4月3日(火)
【参加人員】    38名
【コース】   JR久留米西口~松下電池工業跡~坂本繁二郎生家~日輪寺古墳~水天宮~梅林禅寺~長門石橋~西水門~長門石八幡宮~七木地蔵尊(昼食)~千栗八幡宮~堤公園(千栗堤防)~豆津橋~瀬の下町~JR久留米西口
4月3日の「超大型春一番」は「爆弾低気圧」ともいわれ、日本列島を駆け抜けて行きました。 JR久留米駅に集合した38名は、その風雨の凄さにビックリしましたが、現役時代から鍛えた「風にも負けず!雨にも負けず!道を開く!」の強い精神力で、松下電池工場跡、坂本繁二郎生家の見学、水天宮、梅林寺の社寺をお参りし、筑後川に掛かる長門石橋を渡り切りました。 つづいて
①  佐賀/福岡県堺の由来となった、江戸時代初期の旧筑後川底を歩き
②  久留米長門石の地名の由来になった平安時代の「宋船碇石」を見て
③  佐賀県北茂安の
八幡参詣と復元された千栗堤防を見学し

NHK大河ドラマ「平清盛」に登場する日宋間のもう一つの貿易ルート「有明海→筑後川→宝満川→太宰府」の確認と江戸時代から昭和時代まで続けられた「筑後川治水・捷水路事業」等々、先人達の努力・遺産を確認することができました。
帰りは、豆津橋から筑後大堰を遠望し「福岡周辺の水の1/3はこの筑後川の水だ」と感謝しつつJR久留米駅に到着しました。 もうその時は風はおさまり、ぽかぽか
陽気となっていました。 歩行距離8km「終わり良ければ、すべてよし」の一日でした。 
             (野田 弘信)

写真撮影:福永攻治
JR久留米駅西口に午前10:00に集合して、雨風対策をして早速、坂本繁二郎生家へ向かいました。
本日のコースは赤線のかっての筑後川の蛇行部です。【筑紫次郎】の異名を持つ筑後川は、阿蘇外輪山に源を発し有明海に注ぐ全長143kmの九州一の大河です。福岡都市圏の水道水の三分の一は筑後川の水と言われ日頃からその恩恵を受けており、感謝々々です。今回は久留米藩と佐賀藩が江戸時代から、そして福岡県と佐賀藩が明治~昭和まで行ってきた治水事業の歴史を現地で確認したいと思います。
坂本繁二郎生家
「放牧三馬」「帽子を持てる女」など、数多くの作品を制作し、74歳で文化勲章を受章した近代洋画家の巨匠、坂本繁二郎は、明治15年、旧久留米藩士の子として、市内の京町に生まれました。
この繁二郎の生家は、久留米市に残っている唯一の武家屋敷で、平成15年7月には久留米市指定文化財になっています。
市では、貴重な歴史遺産である生家を平成18年度から復元整備し、平成22年5月1日からは一般公開をしています。
整備にあたっては、古い部材を極力使用し、伝統的な工法で、繁二郎が20歳、明治35年頃の姿に建て直しています。また、生家には、繁二郎の高等小学校時代からの親友、青木繁が居候した茶室も復元し、彼らが描いたといわれる複製の襖絵も展示していました。
 
 水天宮
JR久留米駅から徒歩で約15分、筑後川の河畔にある久留米水天宮。
水天宮は水徳の神であり水難、安産、火災、疫病、除災の霊験を以って知られ、海運、農業、商業の信仰篤く、子供の守護神としても有名で筑後一円では春の大祭に子供を参拝させる習慣だそうです。
この水天宮は全国水天宮の総本社であり、東京の水天宮は藩主有馬頼徳(よりのり)が文政元年(1818)にここから江戸に分霊したもので境内には明治維新の先駆者真木泉守保臣を祀る真木神社や水天宮の創建者である按察使局伊勢を祀る千代松神社などがあり、河童発祥地でもあるそうです。
毎年、夏の風物詩・筑後川花火大会が盛大に開催されています。  
 ⇒昨年の第352回筑後川花火大会はこちら
 
真木泉守保臣(まきいずみのかみやすおみ)について 
水天宮の22代宮司であった真木泉守保臣は久留米藩の勤王の志士であった。保守的な久留米藩からしばしば咎(とが)められたが勤王の志あつく信念を曲げることはなかった。早くから薩長連合を唱えたが時到らず、このときは実現しなかった。
その後、長州いがいの脱藩浪士を中心に「忠勇隊」を組織し長州兵と協力して元治元年(1864)7月19日の「蛤門の変(禁門の変)」に参戦したが戦いに敗れ同志16名とともに天王山で壮烈な死(自刃)を遂げた。このときの「忠勇隊」の幹部は真木和泉をはじめとして弟の真木外記や土佐藩の中岡慎太郎、松山深蔵、越後出身の長谷川鉄之進などがいた。なお、次男の真木菊四郎も「忠勇隊」の一員であったが、「蛤門の変(禁門の変)」後の慶応元年(1865)2月14日下関市観音崎近くの薮で長州藩の俗論派とみられる刺客により暗殺された。明治維新の中心的な指導者であった真木和泉および次男菊四郎は志(こころざし)半ばで無念な最期を遂げたのである。
その後、土佐藩の中岡慎太郎は坂本龍馬とともに薩長和解運動に奔走し、中岡慎太郎が薩摩を説得し、坂本龍馬が長州を説得したといわれている。そして1866年には薩長同盟にこぎつけた。そして1867年10月14日に大政奉還になり実質徳川政権は終焉したのであるが、その1ヶ月後の1867年11月15日、京都河原町の近江屋で中岡慎太郎は坂本龍馬と共に襲撃され両名とも死亡した。このときの犯人は不明であるが、京都見廻(まわり)組の今井信郎ら7人と言われている。
明治維新といえば長州や薩摩と言われるが、土佐をはじめとして久留米、広島、佐賀など多くの勤王の志士達の命がけの活躍で成し遂げられたのである。
 
 航空母艦 千歳の艦内神社 
昭和19年10月25日 レイテ沖海戦、沈没  

碑文
いつよりの千歳かわかぬ千歳川 始めも果もなき名なりけり
昭和十三年就役以来 日支事変、太平洋戦争と幾多の戦闘海戦に出撃  赫赫たる戦果を挙げた軍艦千歳は
フィリピン沖海戦に於て勇戦奮闘するも衆寡敵せず 遂にフィリピン・エンガノ岬東方に艦長以下数百将兵と共にその勇姿を没した
時に昭和十九年十月二十五日午前九時三十七分
軍艦千歳は筑後川(別名千歳川)の名を取って命名されたものであり 艦内神社に水天宮を奉祀。 

 航空母艦 千歳 航空母艦千歳レリーフ像 
   
(この集合写真はクリックすると拡大します) 
梅林禅寺
 筑後川の畔・長門石橋(ながといしばし)手前に堂々たる伽藍を見せる臨済宗妙心寺派の禅寺。九州の代表的な禅の修行道場として知られ、久留米藩主有馬氏の菩提寺でもあるそうです。
   
 
 
 
長門石橋~西水門
突風の中、長門石橋(ながといしばし)を渡り、いよいよ、かっての蛇行した筑後川堤防を歩きます。この橋の横が花火大会の1番目の場所です。
強風の中、 桜と菜の花が綺麗で癒されながら、ひたむきに歩きました。
 
 本日の難所:天気なら気持ちいいコースと思いながら無口で歩く。
   
 
 
 長門石八幡宮(長門石)
   
 
七木地蔵尊
途中に立ち寄った七木地蔵尊で昼食・休憩。持参の弁当組とラーメン組に分かれて昼食。
南北朝の戦後、各地で地蔵信仰が盛んとなり各地に地蔵尊が祀られていますが、長門石町にある七木地蔵尊は七種の木のもとにあったと言われています。かつて肥前の龍造寺氏が高良山にたてこもる大友宗麟を攻める際に、戦勝祈願を成就したことから、眼病、諸病とともに進学・選挙にご利益があるとされ、御願成就の地蔵として参詣者が絶えず、また、4の日の縁日には善男善女で賑わっているそうです。
千栗八幡宮

千栗八幡宮(ちりくはちまんぐう)は、佐賀県三養基郡みやき町にある神社で前国養父郡の郡司壬生春成が八幡大神の御神託を蒙(こうむ)って創祀し、神亀元年(724年)ここに社殿を造営したと伝えられています。
なぜ「千栗」と書いて「ちりく」と読むかというと、壬生春成が千栗山に猟をしに行くと、八幡大菩薩の使いである一羽の白い鳩が飛んできて弓の先に止まりました。その晩白髪の翁が丸い盆に千個の栗を盛って枕元に授け、「この地に八幡神を祀れ」という夢を見ました。翌日、再び千栗山に猟に行くと、何と逆さに植わった千個の栗から栗の木が一夜のうちに生い茂っていたことから「くり」を逆さにして、「ちりく」というようになったとの言い伝えがあります。
祭神は応神天皇で、仲哀天皇、神功皇后、難波皇子、住吉明神、武内宿称、宇治皇子が合祀されています。
毎年3月15日に、日本三大粥祭りの一つである「お粥だめし」通称「おかいさん」の神事、8月1日には「茅の輪くぐり」通称「輪くぐりさん」、9月15日に「放生会」、「行列浮立」が行われます。(浮立は毎年開催日が異なりますので、お問合せのうえお越し下さい。)

また、1992年のバルセロナオリンピック金メダリストである柔道の古賀稔彦選手は、この神社の146段ある石段を足腰の強化のために上り下りしていました。

 146段ある石段  本殿
本殿で神主より、歩こう会参加者のお祓いと筑後川についてのお話がありました。 
   
 
千栗八幡宮の展望台より、中央の145号線の奥に長門石橋、梅林禅寺がかすかに見えます。
桜並木が蛇行していた当時の筑後川堤防です。
 
中央は新幹線     ここからの眺めは最高でした。
 
 千栗八幡宮から のこぎり形町並みの参道を見ながら千栗堤防へ
 
 千栗八幡宮の参道は「のこぎり形町並み」
千栗八幡宮の参道は「のこぎり形町並み」になっています。
「のこぎり形町並み」とは、道路の端がギザギザにかたどられ、家の軒がデコボコに突き出ている町並みの事をいいます。
なぜ「のこぎり形」になっているかというと、戦乱で敵が攻めてきた時に建物の陰に隠れて迎え撃つためという説があります。
集落道路整備が行われましたが、この「のこぎり形町並み」を残すように配慮されたため、見ることができました。
堤公園(千栗堤防ちりくていぼう 
河川の災害を防ぐ方法は、河川改修、水制の施工、堤防の強化、捷水路、放水路、分水路、霞堤、遊水地の設置、そしてダムの建設等の手段がとられてきた。それは洪水を一時的に貯水し、ゆっくり流すか、それとも早く下流に流すかに拠るもので筑後川の蛇行部を短絡にして、素早く洪水を流す捷水路の設置もひとつの方法です。 
千栗堤防は、寛永年間(1643年)に佐賀藩成富兵庫茂安によって筑後川右岸に築造された二重堤防で、完成まで12年の歳月を費やしたといわれています。
この堤防は高さ4間(約7.2m)、馬踏(天端)2間(約3.6m)、表裏共法勾配2割、川表犬走(小段)9間(約16.2m)、川裏3間(約5.4m)、堤敷幅30間(約54m)で、千栗から坂口まで延長3里(約12km)に及んでいました。堤防の補強のために、川表には竹が、川裏には杉が植付けられ、「杉土居」とも呼ばれていました。堤防は二重になっていて、その間は100間(約180m )もあり、これを洪水時の遊水池とし、水勢を弱めて本堤の安全をはかる当時としては、きわめて巧妙な構造となっていました。
 また、この下流にある安武堤防は、寛永年間(1626~1641年)に久留米藩が三瀦郡安武村地方(現久留米市安武町)に延長1里弱(約4km)の間に築いた堤防で、敷幅30間(約54m)、高さ4間(約7.2m)、馬踏3間(約5.4m)の規模となっています。その後、寛保元年(1741年)に山浦から下流住吉におよぶ延長約13町(約1.4km)が補築されています。千栗・安武両堤とも、鍋島・有馬両藩の水防上、重要な堤防として役割を果たし、築堤以来300年近くに亘り破堤等が起こらず、地域住民を水害から守りました。
現在は河川改修により
約180mを残すのみとなっていますが、県史跡に指定され、千栗土居公園として整備されていました。
小段:約5.4m●堤敷幅:約54m●二重堤防間:約180m(洪水遊水地として機能) 

   
 
 
約180mの千栗堤防を歩く。 
 
●明治以前の主な治水事業年表
治水事業年 主な事業内容
慶長6年 1601年 柳川藩主・田中吉政が瀬ノ下の新川開削。慶長4年完成。
寛永年間 1624年~
1644年
佐賀藩の成富兵庫茂安が千栗堤防を築造。築造に12年間。
寛永3年 1626年 久留米藩が安武堤防を築造。寛永18年完成。
 
豆津橋
福岡県久留米市と佐賀県みやき町の間を流れる筑後川にかかる国道264号の橋を渡り、JR久留米駅へ。
ここは花火大会の第2会場になります。
 JR久留米駅西口
予定の午後4時前には出発したJR久留米駅西口に到着。
最後に世話人の野田さんより、お土産品の紹介と次回の歩こう会(海の中道)の説明後、解散となりました。
今回は全国的に雨や突風の悪天候の中での歩こう会でしたが、予定どうりJR久留米駅から かっての筑後川の蛇行部・長門石橋から長門石橋、千栗堤防、千栗八幡宮、豆津橋までを風に押され、桜や菜の花の景色に癒されながら8kmを無事歩きました。
この悪天候の強風の中、病み上がりの野田さんをはじめ皆さん大変元気でまだまだ歩こう会は健在のようです。