旧糸島地区めぐり 第12回 糸島市・平原遺跡・伊都を歩く 第23回  志摩・姫島を歩く

【日時】
平成22年10月5日(火)   (集合)JR九大学研都市駅(北口)              
【参加人員】    53名
【コース】  九大学研都市駅前・昭和バス停~九大ビックオレンジ~キャンバス見学~ビックどら食堂(昼食)~元岡・浜地酒造~宮草発掘現場見学~糸島市島歴史資料館見学~伊都文化会館~前原宿・東構口~西構口~JR前原駅  

10月5日、9時30分JR九大学研都市駅前に53名集合。 バスにて九大説明会場へ移動。 早速大学の歴史、伊都キャンパスの概要、移転事業の紹介を受ける。 そもそも、古代「伊都国」の人々は、中国や朝鮮半島と玄界灘を挟んで頻繁に交流し、最先端の製鉄技術を発展させ、当時日本で最も繁栄した地域であった。 そして現在!奇しくもその地に移転した「九州大学」は、国内随一の水素研究センターを設立。 未来のエネルギーとして期待されている水素エネルギーの研究をハイピッチで行っている。 近い将来この地は日本のハイテク産業の拠点になる! 今、1500年の時空を超えて歴史は繰り返される。 
まさしく九州/福岡の誇りだ! 九大の学生食堂にて、50年前の学生気分になりボリューム満点の昼食を頂いた後は、近くの「浜地酒造」で酒蔵見学と試飲を楽しむ。 続いて、志摩歴史資料館にて、古代製鉄炉の模型、日本で最古の戸籍発見の場所、江戸時代福岡藩の新田開発など歴史の数々を知ることが出来た。 最後は唐津街道・前原宿の探訪。 江戸時代参勤交代の大村・平戸・唐津の各大名の本陣(宿)が置かれ、長崎への往来の宿場町として栄えた面影を忍びつつ、JR前原駅にて解散。 今回は、福岡西地区の浜地地区委員のお世話で、福岡市教育委員会の吉留さん始め糸島ふるさとガイド4名の方々の親切なご案内により、全員元気で事故もなく10kmを歩く。 皆さんに感謝々々!(野田 弘信)

写真撮影:  福永攻治  田中武忠 笠井雅弘
心配した天候は絶好のハイキング日和になり、JR九大学研都市駅の北口からバスで集合場所の九大伊都キャンバスのビッグオレンジへ向かいました。
九州大学伊都キャンバス (航空写真:平成21年)
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ビッグオレンジ

『Big Orange(ビッグオレンジ)』は,伊都キャンパスが完成するまでの間,キャンパスの整備状況や九州大学学術研究都市構想,キャンパス周辺地域の資源をパネルや模型・映像を用いて来訪者の方々に紹介する所で『Big Orange(ビッグオレンジ)』の名称は,伊都キャンパスが建設されている丘陵地が,かつてみかん園であったことに由来しているとのことでした。

集合後は、本日のガイドをお願いしています西地区の浜地和夫さんからのコース案内と糸島市市役所観光課の鬼木さんより、観光案内・PRがありました。
広大なキャンバス内を歩いて、食堂へ
生活支援施設ビッグどら(食堂・売店・書店) 
生活支援施設「ビッグどら」は,伊都キャンパスでの学生生活の中心施設で,約50種類の食事を提供する食堂・喫茶店,書店,売店(コンビニ)が入っていました。食堂は一般の方の利用も可能で当日も学生に交じって昼食を取りました。
キャンパスの中心建物
昼食後はいよいよ、秋風が心地よい糸島をJR前原駅まで、6kmを歩きます。
浜地酒造株式会社
途中、待望の試飲のお酒が飲める浜地酒造により、酒蔵の見学、お酒の試飲とお土産の購入、お土産は浜地さんの手配でJR前原駅まで配達してくれました。ここで本日の集合写真を撮影して出発。
浜地酒造㈱ 創業:明治 3年
住所: 〒819-0385 福岡市西区元岡
糸島半島の中央部にあり、酒蔵の周囲は田園に囲まれ、昔から良質の酒米と九州山地の脊振山からの清冽な伏流水に恵まれ、創業明治三年以来休まず、酒造りを行ってまいりました。また、近年では北部九州では初のビール製造免許を取得し、数々の品評会で高い評価も頂きながら、お客様に喜ばれる美味しい日本酒やビールを製造しているとの事でした。
浜地酒造前での集合写真
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浜地酒造の社長の案内で工場を見学
  元岡古墳群 7世紀初頭の有力豪族墓を発見
浜地酒造近くの元岡にある九大キャンパス敷地内の古墳発掘現場に立寄り、福岡市教育委員会文化財部から 現在の発掘状況や発掘品、発掘した豪族の墓を案内していただきました。
G1号墳で豊富な副葬品が出土       -7世紀初頭の有力豪族墓の調査-
九州大学総合移転に伴う元岡桑原遺跡群第55次発掘調査で、7 世紀初頭の豪華な副葬品をもつ、古墳(元岡古墳群G1 号墳)を発見しました。周辺にはこれまでの調査で、古墳時代前期から中期の前方後円墳や古代の製鉄遺跡、瓦窯跡などの貴重な遺跡が発見されているとの事。
古墳の特徴
古墳は5基からなる群集墳のひとつで、造られた時期は出土遺物から7世紀初頭と考えれ、古墳の形態は一辺約18m の方墳だそうです。
石室は長さ1.5~2m に達する花崗岩巨石を利用した横穴式石室であり、石室幅2.1m、長さ3.6m
石室の天井部などが破壊されていたにも関わらず、豪華な副葬品や供献品が豊富に残っていたそうです。
装飾付圭頭大刀(ソウショクツキケイトウタチ)など刀5振(フリ)、馬具、銅鏡1面(鏡式不明)、胡籙(コロク)耳環(ジカン)・玉類多数(銀製空玉(ギンセイウツロダマ)、琥珀製棗玉(コハクセイナツメダマ)、水晶製切子玉(スショウセイキリコダマ)・勾玉(マガタマ)・丸玉、翡翠製勾玉(ヒスイセイマガタマ)・小玉、碧玉製管玉(ヘキギョクセイクダタマ)など)、銅釧(ドウクシロ)
発見の意義
糸島地域は、装飾付大刀等の武具や馬具類の出土例が全国的に見ても多い地域ですが、装飾付刀は高度な冶金技術で作られた優品で、古墳被葬者の生前の威信財(権威の象徴)と見られます。同様の形態の装飾付大刀は全国的に広く分布することから、ヤマト王権から軍事的関係を持つ地域の有力者に下賜されたものと考えられています。今回出土した元岡古墳群G1 号墳の装飾付圭頭大刀は、糸島半島で現在唯一例であり、墳丘形態、規模から見てもその被葬者は糸島半島における代表的な軍事的指導者か、その関係者であったと考えられます。
今回の発見は、この地域の豪族層の存在や役割を示すだけでなく、ヤマト王権の対外政策や政治的関係の解明に重要な意義を有する資料を提示するものだそうです。
六所神社(ろくしょじんじゃ)
休憩に立寄った馬場地区にある六所神社は、見事な幹周り8mの大楠があり、神社の屋根の鬼瓦と桃は興味深々でした。
糸島市志摩の馬場地区、県道85号線沿いにある「六所神社(ろくしょじんじゃ)」は、旧志摩郡の総鎮守(そうちんじゅ:守り神)として知られる歴史深いお社。境内(けいだい)には樹齢(じゅれい)800年級で、胸高周囲8メートル前後、高さ28メートル以上と県内屈指(くっし)の大楠(おおくす・県指定天然記念物)が2本あり、一番の見所となっています。
何度も戦(いくさ)の炎に耐(た)え、今もなお力強く繁(しげ)っているその姿には自然の雄大さが感じられ、神社の名前は、伊弉冊命(いざなみのみこと)をはじめとする6柱の神様をお祭りしていること、また、管内の神社を登録・管理して統括(とうかつ)する「録所(ろくしょ)」から付いたと言われているとのことです。
可也山(筑紫富士)
標高 :365m
山頂には神武天皇を祭った「可也21神社」がある。その先200mの所は360°の展望が開け、玄界灘や壱岐の島も望め、四季を通し自然の移り変わりが楽しめる。南側裾野には3000本の小富士梅林があります。
志摩歴史資料館
志摩歴史資料館は、旧志摩町から出土した考古資料を展示公開・研究・収蔵するため、平成8年4月に資料館として開館しました。
資料館の周辺は玄界灘に突き出た糸島半島にあるため、大陸や朝鮮半島との交易をはじめ、海を媒体とした他地域との交流が活発に行われていました。周辺の遺跡からは海に関係の深い遺物が数多く出土しています。
常設展示では、海を大きな柱として、「住居」・「生活」・「交易」・「信仰」・「漁業」・「干拓」・「生産」・「墓制」の8つのテーマに分け展示をしていました。
ボランテイアの説明員より、常設展示場内のガイドをお願いし、有名な筑前国嶋郡戸籍川邊里を解説してもらいました。
日本最古の戸籍、「筑前国嶋郡戸籍川邊里」
「筑前国嶋郡川辺里戸籍」は奈良時代の戸籍で正倉院に残る日本最古のもの。大宝2年(702年)の「肥君猪手一家百二十四人」の家族構成が記され、古代豪族の様子を知る貴重な資料。
日本における戸籍制度の本格的な始まりは、670(天智天皇9)年の「庚午年籍(こうごねんじゃく)」と言われ、税の取立てと新羅・唐連合軍との戦いへの徴兵を目的とするものだったといわれています。
その後の701(大宝元)年に成立した大宝律令にもとづいて作られた最初の戸籍が
「筑前国嶋郡川辺里戸籍」だそうです。
「筑前国嶋郡川辺里戸籍」は奈良時代の戸籍で正倉院に現在残る日本最古のもので、文武天皇・大宝二年の戸籍にある「肥君猪手一家百二十四人」の家族構成が明記されています。川辺里に住んでいた古代豪族の様子を知る貴重な資料だそうです。

川邊里ちは「川辺村」で現在の志摩、前原、元岡(旧糸島郡)の地域で、この戸籍を見ると、この村には、28家族438人が暮らしていたことがわかるそうです。もちろん、各家族ごとに、大小ばらつきはあるにせよ、平均すると一戸当たり25人の大家族であったと言います。で、戸籍は、一人一行ずつで、戸主から始まり、姓名、年齢、税の区分、続柄が記され、配列は血縁順、最後に口分田の総面積が明記されているとか。同著曰く、「川邊里の最大家族は肥君猪手が戸主の124人で、口分田は全体で13町6反120歩(約14ha)であり、さらに郡長官の身分であり、別途に手当、6町(ha)が支給された」と。
「戸主の肥君猪手はこの年(702年) 53歳、朝廷から正八位上勲十等という位を受け=地方の有力者としては相当な高位である=嶋郡を治める長官の「大領」の位」にあったことがわかるそうで、つまり、ここに「志摩郡の郡役所があったことを物語っている」そうです。
さらに、続けて、「庶母 宅蘇古志 須弥豆賣 年陸拾伍歳 老女」とあるそうで、つまり、65歳の義母の存在が書いてあると。
その次には、
「妻 寄多奈賣 年伍拾武歳 丁妻」。52歳の正妻だそうです。続けて、「妾 宅蘇古志 摘賣」 47歳、「妾 黒賣」 42歳、「妾 刀自賣」 35歳とあり、一夫多妻制であったことがわかるとか。一夫多妻制自体は、日本でも江戸時代くらいまではそうだったのですから、まあ、驚くほどのことではないのでしょうが、ここで、注目すべきは、正妻の欄に姓が書かれてないことだそうです。
ちなみに、古代の戸籍は夫婦別姓だったのに1300年が経った現代、「夫婦別姓」が論議されていることに古代の人たちはどう思うのでしょうか。
「この時代、奴碑 (奴隷) には姓がなかったが、れっきとした正妻が奴碑であることは考えられないから、正妻も庶母と同様、宅蘇古志氏の一族と考えられ、妾1号2号に続けて書いてある2号、3号共に同姓ということになり、つまり、この猪手という人物は、
四姉妹を全部妻にした・・・とも考えられるのだそうです。 ほんとにこの戸籍はおもしろい。
JR前原駅まで、あと約3km
伊都文化会館
トイレ休憩後は本日の歩こう会初参加の紹介です。松九会事務局の藤幸多朗さんと南東地区の鎌田儀行さんの二人です。
前原宿のガイドをお願いしています糸島ふるさとガイドの吉丸会長より案内がありました。
唐津街道・前原宿
唐津街道は、北九州市から、唐津市に至る、玄界灘沿岸約130kmの街道で、その中の前原宿は、福岡藩の西の藩境に設けられた宿場で、その先は中津藩の深江宿になります。
構口跡
福岡藩内の宿場には、宿場の両端に石垣の上に土塀を築いて瓦を葺いた「構口」と呼ばれる構築物がありました。現在まで、前原宿の構口は、どこにあったのか分かりませんでしたが、明治21年に作成された前原村字図によってその所在が確認できたそうです。
石垣の上に土塀を築き瓦で葺いたものが築かれていたとのことですので判りやすく白壁の塀を合成しました。(下記写真)

戦国時代の前原村は、現在の前原駅の南側付近で、10軒位の村で前原の地名の由来が、村の前が原っぱだったので前原としたそうです。1638年の島原の乱の後、治安維持のため関番所が設けられ、1685年頃にはお茶屋・人馬継所ができ、前原村の人たちを強制的に移し、宿場として整ったそうです。
西構口跡 東構口跡
和泉屋 
間口4間、奥行20間のウナギの寝床の建物
綿屋
寛政7年創業で米、麦、呉服、金融などの多角経営の豪商。
人馬継所跡
ここは脇本陣であったと所で本陣は少し北側の法林寺あたりにあった言われています。
町茶屋跡
格式を備えた宿屋跡で今は陶磁器の辰美屋さん 
郡屋跡
約500mの前原宿見学を終え、大変お世話になりましたボランテイアの皆さんと別れて、JR前原駅に向かいました。駅では本日大変ご苦労かけました西地区の浜地さんにもお礼をいい帰宅しました。