【日時】
平成29年6月6日(火)  AM9:00 宮地嶽神社本殿前集合
【参加人員】    31名
【コース】  宮地嶽神社本殿~石室古墳不動神社~菖蒲園菖蒲まつり~宮地嶽神社駐車場・バス停~奴山古墳群~西光山寶蓮寺(昼食)~福間駅
日(火)午前900分、日本一の大注連縄で有名な宮地嶽神社本殿前に31名が集合。早速、祭神の神功皇后様に家内安全と今日一日の安全祈願をいたしました。続いて、本殿裏手にある奥の院岩屋不動尊と呼ばれる嗣洞(奥行23mの巨石古墳)にお:参りしました。当日は折よく「江戸菖蒲まつり」が行われており、10万株の花菖蒲が境内各所に咲き誇っていました。続いて、本年7月の世界遺産登録を目指して取り組んでいる「神宿る島」沖ノ島宗像・沖ノ島と関連遺産群の「新原・奴山古墳群」まで足を伸ばし、周辺を歩き回りました。この古墳群は直線距離1km×500mの区域の中に41の古墳が点在しており、その中を九松OB(松愛会会員)で宗像歴史観光ボランティアをされている安永憲男さんの案内と解説をいただきながら、今から1500年前の古墳時代にタイムスリップした気分で一日を過ごすことが出来ました。途中、近くの寺院・宝蓮寺さんのご好意により、本堂をお借りして思い思いの昼食を頂くことができました、本日は、安永さんの心からのお世話に感謝感謝の一日でした。 歩行距離:年齢相応の5km       野田 弘信  
 
宮地嶽神社
宮地嶽神社の創建は、約1600年前までさかのぼるという。国史にその名を残す息長足比売命(神功皇后)の御代である。仲哀天皇のなきあと、自ら大陸に渡られる折り、皇后は当地に滞在され、裏の山の頂きに祭壇を設け、「天命を奉じて彼の地に渡らむ、希わくば開運を垂れ給え」と、祈願して船出された。これより、彼の地を「宮地」と呼び、彼の山を「宮地嶽」と称するようになりここに、本山は息長足比売命の有名不可思議な御偉業を称え、御祭神と祀り、ともに功労をなした勝村・勝頼両神とあわせて、宮地嶽三柱大神と崇め、世の崇敬を集めている三つの日本一大注連縄(おおしめなわ):直径2.5m、長さ13.5m、重さ5t大太鼓:直径2.2m、重さ1tの牛の一枚皮で作られている。大鈴:直径1.8m、重さ450kg
夕日の道・光の道の観光スポットの参道 境内は満開の菖蒲まつりが開催中
 約100種・10万株もの江戸菖蒲が 本殿前と江戸菖蒲園 
 本殿前で満開の菖蒲に囲まれての集合写真
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本殿の巫女さん  二番社・稲荷神社 …食物とお米の方策を守る神様 
奥の宮不動神社(三番社・不動神社) 
日本最大級の石室古墳(不動神社)
宮地嶽中腹の不動神社を祀る日本最大級の巨石古墳が発見されたのは、250年以上まえの事です。この石室は、6世紀末から7世紀始めのものといわれ、全長23mという大規模な石室は、高さ幅とも5mを超す大きな石を積み重ね作られたものでした。古墳からは、馬具、刀装具、緑に輝く瑠璃玉やガラス板など、およそ300点が発見され、どれも第一級のすばらしいものであり、そのうち十数点は重要国宝に指定されています。この地に君主した氏族の繁栄と富みを象徴する、まさに地下の正倉院といえます
 手水舎(てみずや)  不動神社の拝殿
今回は九松OBで地元の宗像歴史観光ボランテイアの 安永憲男さんが案内してくれました。
宮地嶽神社からは 自家用車組とバス組に別れて新原・奴山古墳群・展望所へ
新原・奴山古墳群 
この展望所からは沖ノ島は見えません
沖ノ島は第65回つばきの地島を歩く 倉瀬展望所より見えました。
福岡県福津市勝浦字新原地区と福津市奴山地区にまたがる東西800mの低い丘陵地帯に前方後円墳5基と円墳53基、方墳1基があり福岡県でも有数の古墳群となっています。 (現地の説明板では古墳の数は前方後円墳5基と円墳42基、方墳1基となっていますが、この数字は古いようです。)
この計59基の古墳群の中で一番古いと思われているのが22号古墳の前方後円墳です。全長80mあり、大きさも一番大きい古墳で、埴輪が出土しているそうです。 
 
駐車場の横が展望所  34号から43号の宗像氏が支配した海の民の古墳
22号墳・新原地区の縫殿宮
この計59基の古墳群の中で一番古いと思われているのが22号古墳の前方後円墳で全長80mあり、大きさも一番大きい古墳で、埴輪が出土しているそうです。22号古墳は前方後円墳でしたが今は後円の部分だけが残っており、西側に縫殿宮(ぬいどのぐう)の鳥居があります。かっては縫殿宮(ぬいどのぐう)の社殿が頂上に建っていたそうです。 今は頂上に縫殿宮(ぬいどのぐう)の小さな祠があるだけです。大正六年の鳥居が建っていますからその頃には社殿があったものと思われます。 
 
 奴山地区の縫殿宮
 後日分った事ですが、昼食に利用した西光山 寶蓮寺の裏に奴山地区の縫殿宮がありました。
近くの奴山地区(昼食をしたお寺の裏)には日本最初の裁縫(さいほう)の神様と云われている縫殿神社(ぬいどのじんじゃ)という神社がありますが、 縫殿(ぬいどの)の名前も同じです。この2つの縫殿神社と縫殿宮は直接の関係はなく、奴山地区では縫殿神社を建て、新原地区では22号古墳の上に縫殿宮(ぬいどのぐう)を建てて、別々に呉から来たという4人の姫を祀ったのではないかと言われているそうです。 
 (現地の案内板の引用)
応神天皇の頃に、呉の国から兄媛(えひめ)、弟媛(おとひめ)、呉織(くれはとり)、 穴織(あなはとり)の4人の媛(ひめ)が織物、縫物の進んだ技術を日本に伝えるために招かれました。
この中の兄媛(えひめ)は宗像神の求めでこの地に残り、中国の高度な染色、機織り、裁縫の技術を広めたと言われています。
祭神は、この4人の媛(ひめ)と応神天皇、神功(じんぐう)皇后、大歳(おおとし)神で、この神社は日本最初の裁縫(さいほう)の神様であり、 この地はデザイン、ファッションの発祥の地と言えます。
この神社には、永享(えいきょう)12年(1440年)につくられた梵鐘(ぼんしょう)(県指定有形文化財、宗像大社神宝館に展示)、 南北朝時代の大般若経(だいはんにゃきょう)600巻や江戸時代中期ごろの三十六歌仙絵扁額をはじめとする絵馬があります。  
 
30号墳  鍵穴形をした6世紀中頃の全長54mの前方後円墳
 この新原・奴山古墳群の他に、北の勝浦から、この奴山、生家(ゆくえ)、須多田、在自(あらじ)、宮司まで、 福津市の北部から南部まで連なるように、広い範囲に宗像一族の墓と思われる古墳があります。
これらの古墳は5世紀には福津市北部を中心に古墳造りが行われ、奈良・平安時代の郡司の時代には南部を中心に遺跡が出土します。年代とともに北部から南部に移動していますが、 宗像氏一族が営んだ連続した遺跡群と見ることができます。
胸形の君(むなかたのきみ)一族の古墳造りの最後は宮地嶽神社の奥の宮になっている「宮地嶽古墳」と「手光波切不動古墳」と言われています。 いずれも7世紀に造られた古墳であろうと推測されています。 
 
福岡県福津市奴山にある浄土真宗本願寺派の寺院  西光山 寶蓮寺を訪問 
昼食会場にお願いしていた寶蓮寺さんの本堂をお借りして思い思いの昼食を頂くことができました。新しい立派なお寺は天井には宗像市の花、カラノユリを始め山桜、藤、水仙等が描かれていました。
 
今日は短い歩こう会でしたが、最後に世話人の野田さんより いよいよ100回目を迎える次回の歩こう会(長崎)の概要説明後、、自家用車に分乗しての帰宅となりました。 大変お疲れ様でした。
 
 
次回記念の100回目の歩こう会詳細は後日連絡いたします。多数のご参加をお願いします。