前回の第47回歩こう会 玄界島ウオーキングへ


【日時】
平成27年9月1日(火)  AM11:00 ベイサイドプレス博多埠頭に集合
【参加人員】  27名
【コース】  博多埠頭~フェリー~玄界島・渡船場~小鷹神社~玄界小中学校寄木浜~公園下~大浜(島の裏側)~立神岩~立場埼~浜広場~玄界島待合所~博多埠頭
9月1日(火)ベイサイドプレス博多埠頭に27名が集合、当初8時30分集合の予定を天候不順の為、集合時間を11時に変更して11時20分発のフェリー「ニユーげんかい」で玄界島に向かいました。玄界島到着後、まず小鷹神社にお参りし震災後新しく建てられた玄界玄界小・中学校正門前で集合写真を撮影。天候も回復し青空も見えるこの高台からの玄界漁港・博多湾は絶景でした。その後車道を下り島内4kmを一周し、午後3時には博多埠頭に帰着しました。 
ご存じ「玄界島」は平成17年3月20日の福岡県西方沖地震で、全壊107戸総額210億円の被害に遭ったにもかかわらず、国、県、市をあげての災害復旧事業のより見事復興しました。当会では、平成20年8月にその状況視察も含め、玄界島一周を行いましたので今回はニ度目になります。綺麗に復興されているので、「玄界の島」という雰囲気でなく、博多の町、住宅地という気分になりました。本日の歩行距離 4km 野田 弘信
天候不良のため急遽、集合時間を11時に遅らせてベイサイドプレイス博多埠頭に集合、11時20分発の博多港~玄界島を約35分で到着。雨もやみ絶好の歩こう会日和になりました。


博多港に停泊中のサファイア・プリンセス

2004年に長崎で造船された11万トン の豪華客船

乗客定員 2,670人/
乗組員数 1,100人
/全長 290m/全幅 37.5m/
総トン数 116,000トン/
巡航速度 22ノット(41km/h)
玄界島・渡船発着所 
玄界島に到着後、港では漁船より獲りたてのカマスを詰めていました。ビニール一杯で500円でした。
玄界島 
 玄界島は福岡湾の出入口に浮かぶ離島で、東南東4.5kmに志賀島、南西2.5kmには糸島半島の蒙古山が望めます。標高218mの遠見山を中心に斜面が海岸線まで続き、平地はほとんど無く、港がある南側の斜面に住宅が張り付くように軒を並べています。
★耕地面積が少ないために農業は自給の畑作ぐらいで、島の経済を支えているのは豊かな資源を有する玄界灘での漁業です。タイやブリなどの一本釣りが盛んですが、同時に刺網漁や近海でのサザエやウニ漁も行われています。玄界灘は対馬暖流が流れ込む海域で、その流れがたくさんの恵みを運んできます。玄界島へ向う定期船には地元の人達に混じって釣竿を持った太公望の姿をよく見かけます。
★玄界島の定住の始まりはよく分かっていませんが、永禄年間(1558~1570年)には72戸の民家があり、海賊に頻繁に襲われるようになったので全島民が対岸の宮浦へ避難したとありますから、16世紀の初めの頃には既に集落があったのでしょう。その後40年ほど無人の状態が続き、再び人が住み始めたのは慶長年間(1596~1615年)になってからです。しかし、その頃の石高帳には玄界島ではなく、久島(ひさしま)村と記されていたようです。それがいつの頃からか月海島(げっかいじま)と呼ばれるようになり、元禄5年(1692年)の元禄国絵図には玄界島(村)と書かれているといいます。どうしてそのように名前が変化したのかは不明です。
★玄界灘は古代より日本と大陸や朝鮮半島との関係において重要な海域でした。7~9世紀には遣隋使や遣唐使の航路になり、鎌倉時代には元寇が襲来。1905年(明治38年)には日露戦争の日本海海戦の舞台になりました。そして2005年には玄界島に甚大な被害を及ぼした大地震が起きています。
漁港からの集落・右上の小高い丘に新しい玄海小中学校が見えます
 玄界島は、福岡市西区にある島です。「ベイサイドプレイス博多埠頭」より定期船が出ており約35分の船旅で到着します。徒歩で約1時間で1周できる大きさで観光地としても親しまれています。自然が豊富で水産物が大変美味しく、福岡市内からのアクセスが良いのも特徴です。2005年の福岡県西方沖地震により家屋の約7割が全半壊するなど多大な被害を受けましたが、2008年に復興事業が完了し、今まで課題であった斜面を解決するためエレベータ設置などの様々計画が行われ、約3年で新しい玄界島へと生まれ変わりました。
玄界島到着後、早速、小鷹(こだか)神社へ向かいました。

小鷹(こだか)神社

島に向かって左の高台に小鷹(こだか)神社がありました。ここは震災の復旧も終わりきれいになっていましたが、階段が急でいきなり息切れ。この神社には百合若伝説(ゆりわかでんせつ)の話が残っているそうです。
<百合若伝説(ゆりわかでんせつ)>
豊後の国守百合若は筑紫警備の帰路、この島で休憩しましたが、家来の別府兄弟の裏切りで島に置き去りにされたのです。兄弟は国守の地位につき百合若の妻にまで手をかけようとしました。
2年を過ぎたある日、百合若の愛鷹みどり丸が飛来し百合若は手紙を託しました。1ヶ月後にみどり丸はすずりと手紙を運んでくるが精根尽きて死んでしまいました。その後百合若は漂着船に助けられ、姿を変えて別府兄弟に復讐する、という話です。この小鷹神社は「みどり丸」を奉ったものであると言われています。
島の道路と渡船場周辺の平地は比較的被害が少なかったようで、昔の状態を保っています。手前は新しい県営住宅が建ち並んでいました。 島の道路と階段、車道は急斜面のため蛇行しています。 
 
前回の歩こう会(平成20年8月5日)では建設中だった玄界小中学校の校舎は立派に建っていました。
早速、正門前での集合写真。
 この写真はクリックすると拡大します。

玄界島周囲約4キロを歩く(右回り)

玄界島外周路を歩く、青空も見え、涼しい風もあり絶好の歩こう会日和です。中間地点の柱島へ。

ドクロが半分海面に頭を出したように見えるのが柱島です。玄武岩の浸食による変化でまったく平地がなく、見るからに人を寄せ付けない奇怪な島です。

集合写真    この写真はクリックすると拡大します
海からドクロが半分顔を出したような奇怪な柱島
玄界島の北西約700mに浮かぶ無人島。玄武岩の柱状節理が発達しているので、見た目から名前が付いたようです。高さが60mある巨大な岩といった感じで、ドクロが頭を海面に出しているかのような形をしていて不気味な感じがします。 
 
 立場埼ーーー百合若が愛鷹みどり丸を待っていたところ。
立場崎というスポットに到着。ここは、百合若が愛鳥「緑丸」の帰りを待っていた場所なんだとか。言い伝えによると、百合若が玄界島で休んでいたところ、左大臣の座を狙っていた別府兄弟から置き去りにされてしまい、緑丸が百合若の妻・春日姫からの手紙を届けてくれたそうです。
 
玄界島を一周して、漁港に無事帰還
玄界島は、日本でも屈指の猫の島として有名な場所でしたが震災で壊滅状態でしたが現在は増加中だそうです。
午後2時30分発の市営渡船ニュー玄界で博多港へ
フェリー内の2階展望室。 ベイサイドプレス博多埠頭に到着後、解散となりました。
次回の歩こう会は10月6日 那珂川です。歩こう会100回まで後12回(2年)です。頑張りましょう