前回:第12回歩こう会:前原・伊都国を歩く(2002年10月1日)HPへ
【日時】
平成27年2月3日(火)
【参加人員】      42名
【コース】   伊都国歴史博物館~築山端山(ハヤマ)古墳 ~細石神社~三雲南小路遺跡~(昼食)ファームパーク伊都館 ~高祖(タカス)城大手門 ~金龍寺(黒田家墓所)~高祖神社~怡土(イト)城土城土塁内部石垣  ~大門バス停留所)
糸島市の伊都国歴史博物館にて、NHK歴史秘話「女王卑弥呼はどこから来たか?のVTR鑑賞後,「伊都国の世界」の展示品の数々を見学しました。その後、近くの「伊都国王墓」や「築山端山古墳」を探訪しました。
昼食後は、奈良時代の我が国の最前線基地「怡土城」と戦国時代原田氏の「高祖城」を見学し、関連の金龍寺や高祖神社にお参りしました。当日はまれに見る好天気!青空の下でここに二千年前「伊都」という国があつたのだという感激に浸ることが出来ました。
今回は、西地区の浜地和夫さんに色々と支援・ご協力をいただき世話人一同大変感謝いたしております。
本日の歩行距離7km、(野田 弘信)
写真撮影編集・福永攻治
伊都国歴史博物館の見学 
  集合後、早速 博物館4階でNHK総合の歴史考察番組・歴史秘話ヒストリアが放映され、いとこく・邪馬台国について認識を新たにしました。終了後は3Fの常設展示場(国宝:平原王墓を中心に伊都国の繁栄について)、2F旧館常設展示室・怡土城跡を見学しました。
平原王墓
日本の歴史学者の間では、邪馬台国が「九州地方」にあったという説と、「近畿地方」にあったという説とがあり、近年では奈良県桜井市の大集落遺跡、纒向遺跡も邪馬台国の存在していた場所として有力視されるようになって卑弥呼と邪馬台国について非常に気になるところです。
NHK総合の歴史考察番組『歴史秘話ヒストリア』は、この疑問について「女王・卑弥呼は どこから来た?~最新研究から読み解く 二つの都の物語~」と題してメスを入れました。 
番組では、九州の福岡県糸島市に
2世紀頃に栄えたとされる「伊都國」という国の王の墳墓「平原王墓」に葬られている女王こそが、卑弥呼か、あるいはその親族(母親か姉妹)ではないかという興味深い考察が紹介されていました。800年以上も前に作られた古墳。番組では、中国の歴史書「魏志倭人伝」に「卑弥呼は『鬼道』と呼ばれる不思議な呪術を使う女王だった」という記述が残されていることにも触れ、この平原王墓にも「呪術」の痕跡が見られることに着目していました。そして卑弥呼は九州で生まれやがて大和へ。
 復原された伊都国王墓。長さ3mの割竹形木棺が納められていた。その他の墓から出土した巨大な甕棺も多数展示されていました。
 
王墓には中国製の鉄製素環頭大刀が置かれていたが、耳飾り、腕輪・首飾りなどから葬られていたのは、女性ではないかと推定されていて年代的に卑弥呼の時代に重なるとなると、以前からあった卑弥呼の墓ではないかとの説が現実味を帯びます。糸島市にも、卑弥呼と同じ時代に女王がいたということになるのであろうか。
 日向峠から上がる朝日に向けて一直線に並んでいる。
   
今回の新入会員の青柳政次 さん、原田康彦さんの紹介 
 
伊都歴史博物館前で 本日参加の皆さん     この写真はクリックすると拡大します 
 
 
午前中は三雲遺跡を中心に遺跡巡りへ、この冬一番の青空と心地よい春風で最高の歩こう会です。 
 
 
築山端山(ハヤマ)古墳 
 端山古墳(はやまこふん)は、古墳時代前期(4世紀初め頃)築造と推定される前方後円墳で全長78.5メートル、古墳時代前期と推定されるが、前方部は完全に消滅していて、大きな円墳状態になっています。前方部は二段築成、後円部は三段築成で、斜面には葺石が施されています。前方部の長さ約38メートル、後円部の直径は約42メートル、高さ約8メートル。盾形の周濠が廻らされており、周濠を含むと全長は約99メートルとなる。端山古墳の南100メートルの所に、同じく前方後円墳の築山古墳があるが、端山古墳の方が先に築かれたと考えられている。 古い記録には付近に茶臼塚と呼ばれる古墳も存在したことが記されているが、その位置は現在確認されていない。 端山古墳、築山古墳とも、埋葬施設の発掘調査は未実施である。これらの古墳は、細石神社の北東約200メートルの所にあり、さらに、北西約1キロメートルには平原遺跡がある。付近は魏志倭人伝の伊都国の主要な地域と考えられている。 古墳に葬られた人物は、伊都国王に代わってこの地域を支配した、大和政権と深い関係を持つ豪族であろうと考えられています。 
 
 
細石神社  
細石神社は、姉妹の女神である磐長姫命(イワナガヒメ)と木之花開耶姫命(コノハナノサクヤビメ)を主祭神とする神社です。
神話では、この二柱はともに天皇の祖先であるニニギに嫁いでいますが、姉は醜く妹は美しいという対照的な姉妹でした。そのためニニギは磐長姫命を親元へ突き返し、木之花開耶姫命のみと寄り添って暮らしたといわれています。
神社の真裏には、かつての王墓だとされる三雲南小路遺跡が位置していますが、民間伝承では、そこに眠るのはニニギと木之花開耶姫命なのだという説もあるとか。
そうしたことから、この周辺はかつての伊都国の中心部だったと考えられています。
 
 
三雲南小路遺跡 
三雲南小路遺跡。弥生時代中期の国王・王妃の墓と考えられ、伊都国の最初の王墓とされています。
文政5年(1822年)2月、三苫清四郎が住宅の土塀を築こうと南小路の畠の土を取ろうとして偶然発見したという。
後の1974年(昭和49年)の再調査の時に「3号甕棺」が発見された。
平成の学術調査で「周溝」を持つ事が判明し、現在は「方形周溝墓で、甕棺を2器を添える様にして設置した墓」である、とされる。
甕棺の形式は「立岩式古段階(弥生時代中期中頃)」の形状を持つ。「2号甕棺(王妃墓)」の被葬者は北東方向に顔を向けた形で葬られていた、らしい。
「1号甕棺(王墓)」は正確には不明だが、二つの甕棺が添うように安置されている事から、同様の形式で埋葬されたと思われる。
加えて、西側の周溝に「祭祀跡」とみられる痕跡があり、東側の「高祖山系」の山並みとの関連性がうかがえる。これは後の時代の平原遺跡1号墓(平原弥生古墳)に通じるものであろう[1]。最新の研究では、この三雲南小路遺跡と、春日市の「須玖岡本遺跡のD地点の遺跡(巨石下甕棺墓)」とは同一規模の構造を呈している可能性が示唆されている。 
 
 
 
 
午前中の遺跡巡りが終え ファームパーク伊都間館に向かい 遅めの昼食となりました。 
 (昼食)ファームパーク伊都館 
 
昼食後はいよいよ高祖山へ 
  高祖(たかす)山遠景(高祖山、高祖神社、金竜寺、怡土城址(いとじょうあと))
 
 怡土城(いとじょう)の特色は下記の3点です。
第一点は、正史に築城の担当者とその期間が明確に記載され、遺構の所在も確認されていることです。
第二点は、築城は中国式の築城法が採用されていることです。これは遣唐使として2度も中国に渡った吉備真備(きびのまきび)の存在が あると考えられています。
第三点は、築城に際して防人(さきもり)まで動員したと「続日本書紀」に書かれています。これは急を要していたことが、うかがえることです。
この築城の目的については、8世紀中ごろに新羅征討が論じられた際にその一環として築城されたと考えられる説と、 唐が西暦755年(天平勝宝7年)に勃発した「安碌山の乱(あんろくざんのらん)」に備えるためと考える説があります。
その後、中世(戦国時代)の糸島を支配した原田(はらだ)氏は、この場所を再利用して高祖城(たかすじょう)を築き、1587年(天正15年)に 豊臣秀吉に滅ぼされるまで拠点としていました。
 怡土城の範囲(奥は博多湾) 
 
 
 高祖(タカス)城大手門 
怡土城は、高祖山の西斜面に築かれた奈良時代の中国式山城。
756年から768年の12年をにかけて築かれた。築城責任者は、大宰大弐の吉備真備。ただし、真備の転任のため、764年からは佐伯宿祢今毛人が築城に あたった。
遺構としては、望楼跡5か所(北西尾根上)、建物跡2か所、水門跡数か所と山裾に南北1.6㎞の土塁がある。
防人も動員されていて、756年の唐の安禄山の乱以降の新羅と日本の緊張関係に備えたとの説もあるとのこと。また、船を管理する役所である主船司(現、周 船寺)を守る目的もあったようだ。
戦国時代に糸島を支配した原田氏は、怡土城を再利用して、高祖城を築いた。 
 
 高祖山正面登山口である高祖神社大鳥居口にある怡土城の土塁跡と怡土城石碑。土塁の高さは10m近くある。
 
怡土城跡(いとじょうあと)の土塁跡
 
怡土城 国指定史跡 怡土城(いとじょう) 前原市大字高来寺、大門、高祖   
 前原市と福岡市の境に位置する高祖山(たかすやま:標高 416m)の西側斜面一帯に築かれた大規模な古代山城で、大宰府防衛を主な目的として築かれ 「続日本紀」(しょくにほんぎ)によると、遣唐使として755年に唐に渡り、唐で19年の修行をしてきた吉備 真備(きびのまきび)が、天平勝宝8年(756)6月から神護景雲2年2月(768年)まで12年間かけて築いた中 国式山城で尾根づたいに5ヶ所の望楼を配し、西麓の平地に面した一線は土塁・石塁をもって延々と固め、その間 に城門・水門等が造られた。現在築城時をしのぶ遺構として、高祖山の西裾に1.6kmの土塁(どるい)が走り、 尾根線上に計8か所の望楼(ぼうろう:物見やぐら)跡が残っている。しかし、城郭内の施設等についてはよくわ かっていない
天平勝宝8年(756)に藤原仲麻呂が実権を握り、新羅討 伐計画を練った。その年勅命によって怡土城築城が着工した。筑紫では、大野城・基肄城の2城につぐ外敵防衛の ための古城である。しかし怡土城は、実際には使われる事も無く、9世紀の初めにその役目を終ったと考えられる。
 
高祖山城 (たかすやまじょう)前原市大字高祖 別名:原田城
 9世紀初頭に城の役目を終えた古代怡土城は、中世に入ると、戦国時代の山城として再利用される。建長元年 (1249)、土地の豪族原田種継が、荒廃した怡土城を利用して高祖山の頂上に城を築き、以降原田家の居城となる。 天正14年(1586)原田種信は、薩摩の島津軍と盟約し豊臣秀吉と抗戦し、高祖山城にて籠城するが、豊臣軍の小 早川隆景に攻められ種信は降伏した。高祖山城は破却、領地は没収され、原田種信は、肥後、熊本城主加藤清正の 与力となるが、慶長3年(1598)朝鮮にて戦死した。この原田家一族は我が郷土秋月の祖となった原田三郎種雄 (たねかつ)も一門で、広く九州北部に広がっていた。 
黒田24騎伝「久野四兵衛と高祖城攻め 
久野四兵衛は初めは官兵衛の小姓として仕えていましたが、後に家老にまで昇りつめました。
天正14年(1586年)、豊臣秀吉による九州征伐で、小早川隆景らが筑前国の高祖城を攻めたとき、黒田官兵衛は目付役として久野四兵衛を派遣していた。このとき、久野四兵衛は高祖城攻めに加わり、月毛の馬に乗って高祖城の大手門まで一番駆けをした。すると、高祖城の城主・原田信種は久野四兵衛の勇気を見て戦意を喪失して降伏したので、久野四兵衛は豊臣秀吉から感謝状を貰った。
■久野四兵衛の博多町割り
筑前の博多は貿易で栄えていたが、九州統一を巡る度重なる戦火で消失していた。そこで豊臣秀吉は九州平定後、黒田官兵衛や石田三成に博多の復興を命じた(博多町割り/太閤町割)。焼け野原となった博多は草で覆われており、町割りも困難な状態だったが、黒田官兵衛の家臣・久野四兵衛は古井戸を探し、古井戸から町の経営を想定して町割りを決め、わずか20日で博多復興の礎を築いた。 

 
金龍寺(黒田家墓所)  
金竜寺(金龍寺)は高祖(たかす)山の西斜面にあり高祖(たかす)神社の近くです。 この金竜寺は、この地方を治めていた大蔵朝臣(おおくらあそん)原田家菩提所として永年5年(1508年)に建立された寺です。
この原田家はコテコテの平家側の武将であり、源平の合戦で平家が敗れ、原田家も領地を没収されました。原田氏は関東に幽閉されましたが 1190年(建久元年)に赦免となり、 御家人として筑前国怡土庄に領地を与えられます。この時に、原田氏はこの地の領主となったのです。
しかし、その後、1587年(天正15年)の豊臣秀吉の「九州征伐」により、またも取り潰しとなり没落しました。
金竜寺の山門には「大蔵朝臣原田家菩提寺」と「福岡藩主黒田家准菩提寺」の表札が架かっています。
また、裏には高祖山を借景にした築山式の庭園もあります。
戦国時代、この土地の豪族、原田氏の菩提寺であった金竜寺 (後ろの山は高祖山) 
 
金龍寺の裏側には高祖山を背景にして黒田甚四郎政冬廟があり、お参りをしました。 
 
 高祖神社 
この高祖(たかす)神社の創建は定かでありません。貝原益軒の続風土記では、中世の頃「怡土(いと)の庄・一の宮」として中座に日向二代の神、 彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)を、右座に神功皇后(じんごうこうごう)、左座に日向三代の玉依姫(たまよりひめ)を祭ると記されています。 三代実録には「元慶元年(877年)高磯比咩神(たかすひめかみ)に従五位下を受給す」とあり、神話にちなんだ社だそうです。
 また、高祖(たかす)神社のある高祖(たかす)山には古代の太宰府防衛の第一線基地である怡土城(いとじょう)がありました。
中世(戦国時代)には土地の豪族、原田氏がその怡土城(いとじょう)の一部を改築し高祖(たかす)城として根拠地としました。 その時、この高祖(たかす)神社を城鎮守の神としたようです。 
 古代の太宰府防衛の第一線基地である怡土城(いとじょう)内にあった高祖(たかす)神社    拝殿には古い(明治時代)奉納絵馬がある
 
伊都歴史博物館前で 本日参加の皆さん     この写真はクリックすると拡大します  
 
高祖神から怡土城土塁内部石垣へ  
 
 
怡土(イト)城土城土塁内部石垣  
 遺構としては、北西尾根線上に五ヶ所、南西尾根線上に一ヶ所の望楼(物見やぐら)跡があり、山裾には南北約2キロに わたって土塁(どるい)が走っています。これまでの調査で、部分的ではあるものの土塁の前面にはテラス状の構造が確認され、 土塁の外側には幅約15mの濠(ほり)があったこともわかっています。
 
 
本日の歩こう会は無事に大門バス停留所に到着。ここで世話人の野田さんの挨拶で解散。
(今日はまれに見る好天気の青空の下でここに二千年前「伊都」という国があつたのだという感激に浸ることが出来ました。)
マイカー組はさらに出発地の伊都国歴史博物館まで歩きました。