異常気象で雨が続き、心配した天気は持ち直し、絶好の歩こう会日和となりました。9時に新宮町相島渡船待合所に集合して、9時20分発の連絡船・しんぐうで相島漁港へ向かいました。 |
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新宮漁港を出発 |
相島の名所・ 鼻栗瀬(通称:めがね岩) |
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相島の概要 |
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新宮漁港から北西約7.5キロメートル、町営渡船でわずか17分の海上に浮かぶ「相島」。万葉集や続古今集にも歌われた歴史ある島です。また江戸時代、鎖国政策をとるなかで唯一国交を結んでいた朝鮮からの「朝鮮通信使」を相島で接待し、文化交流の舞台となった島です。三日月形の島内には国指定史跡の「相島積石塚群」など貴重な遺跡や神社をはじめ、珍しい鼻栗瀬(通称めがね岩)や柱状節理の絶壁など大自然の造形美が見どころです。島を一周することができる全長5.4キロメートルの周回道路沿いに、島の見どころがあり、ハイキングコースとして親しまれています。
また、渡り鳥の中継地として、多数の野鳥が確認されており、バードウォッチングもおすすめです
(新宮町HPより) |
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左は相島中学校 右が小学校 |
連絡船しんぐうで17分で到着 |
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下船後早速 世話人の野田さんよりコース案内 |
今日の初参加・新入会員の小林英次さんの紹介 |
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相島漁港より島の左回りで相島石積塚群へ向かう |
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相島石積塚群 |
相島の北東、長井浜に「積石塚」があります。
古墳時代、死んだ人を埋葬するため、土を盛って様々な古墳が造られていました。その中に、墳丘を石だけで造ったり、石と土を混ぜ合わせて造った古墳があります。それが「積石塚」と呼ばれている古墳です。新宮町に大規模な積石塚群があると確認されたのは、平成4年のことです。
調査の結果、254基の積石塚が確認され、全国的にも珍しい遺跡であることが分かり、平成13年8月7日に国指定史跡となりました。
(新宮町HPより) |
相島積石塚群は、254基の積石塚からなる古墳群で、4世紀末から6世紀にかけて造られ。7世紀まで利用されていたことが判っている。積石塚の形は、方墳と円墳が約半分ずつで、主体部(死者を埋葬した部屋)の造りも箱式石棺、縦穴系横口式石室、横穴式石室など種類も豊富でり、保存状態も良好で、古墳の移り変わりを間近にみることが出来る貴重な古代遺跡です。当時の朝鮮南部の須恵器も見つかっており、積石塚の源流と言われている朝鮮半島との繋がりが伺える (掲示板より) |
鼻栗瀬(通称めがね岩)と手前と右は相島積石塚群 |
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この集合写真をクリックすると拡大します! |
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古墳は主体部に土を小高く盛って墳丘とするのが一般的だが、積石塚は主体部も墳丘も全て石で造られています。このような造りのものは朝鮮半島に多いために、それが日本に伝わって来たと言う説と、たまたまそこに石があったので石で造ったのではと言う説もある。全国で約20万基の古墳があると言われているが、積石塚はわずか2千基程度と言われており、古墳の中でも特殊なものだそうです。 |
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島一番のビューポイント |
鼻栗瀬(はなぐりせ・通称めがね岩)
島の東300メートルの海上にそそり立ち、全体が玄武岩でできています。高さ20メートル、周囲100メートルで海食洞があり、通称めがね岩と呼ばれています。平成18年2月21日に鼻面半島とともに県指定文化財(名勝)に指定されました。 |
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島の標高 は77m、この辺から坂道が続く。 |
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秀吉は文禄元年(1592年)と慶長二年(1597年)の2回にわたり朝鮮を攻めました。 このときに秀吉軍の軍船はこの島に寄り戦勝祈願をしました。その時に一石を運んできたそうです。
その石が小山のようになって今も残っています。これを「太閤潮井の石」といいます。この石宮神社の鳥居の手前を右に行くと穴観音に行きます。 |
太閤潮井の石
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秀吉軍が戦勝祈願した石宮神社 |
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穴観音のある海岸を望む
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穴観音の内部 |
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相ノ島は玄界灘に浮かぶ周囲6.1Km、九州本土まで7.3Km、新宮港から渡船で20分の島である。大陸、筑紫へあるいは唐津、長崎へ向う船人が立ち寄った海上交通の要塞の島、4~6世紀世紀に築造された積石塚古墳群、秀吉に朝鮮出兵を命じられた諸国の軍船が戦勝祈願した太閤潮井石、異国船監視の為に設けられた遠見番所跡など古跡が残っています。
秀吉の朝鮮出兵の際、秀吉軍は沢山の工人達を日本に連れて帰った。江戸時代になり、戦後処理としてこの工人達を連れ帰るために朝鮮から使節団がやって来た。この使節団を接待する客館が相島にあり、秀吉軍が戦勝祈願をした島で戦後処理の使節団をもてなしたことになる。
対馬、壱岐勝本港を出航した朝鮮通信使一行は、荒れる玄界灘を相島(藍島)に直行した。対馬藩主は案内役として同行し、平戸藩の警固する中、黒田藩が出迎えた。福岡藩(黒田氏52万石)はここ相島で摂待をした。12回往来しているが、ここ相島には11回立ち寄り、風待ちで最長23日も停泊した記録もあり、相島は国際交流の最先端の場所だったと言えます。 |
朝鮮通信使も利用した先波止 |
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朝鮮通信使客館跡 |
平成6年の発掘調査の結果、ここに大規模な建物跡や井戸漆椀、陶磁器などが見つかった。
黒田藩では前年から準備に取り掛かり、豪華な客館を新築したほか、接待側の宿舎などを建築し、さらに波止場の建築、運搬船の準備、道路の整備など、藩は莫大な経費を投じて供応した。最大限のもてなしをするため、御馳走奉行を置き、海の魚はもちろん、川魚やいろいろな鳥や獣を取り寄せ、肉の新鮮さを保つ工夫を凝らした。1682年の通信使の来朝、帰国の時の出費総額は銀284貫現在の28億円だったと言われています。(新宮町相島より) |
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朝鮮通信使の行列 |
朝鮮通信使の旅程図 |
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藍島図(岩国微古館蔵)
第9回朝鮮通信使の黒田藩『朝鮮人来航記』によれば、『1718年10月家老自ら重臣を率いて相島に渡り、通信使一行400余名の泊まる使館と対馬藩宗氏一行800余人と黒田藩接待役の宿舎を建設し、趣を凝らした庭園、警固の番所6カ所、波止場の整備と桟橋の構築、道路の整備、その他海上輸送と警固対策、船の調達等、大変な準備であった。そして10万石を越える大名はその経費をすべて自藩で負担せねばならず、黒田藩52万石の富をこの一小島に結集するほどであった。朝鮮通信使が相島から対馬へ向うと建物は毎回取り壊していた。
1719年7月24日暴風雨が襲い壱岐の使館が倒壊したが、相ノ島でも新築した使館が一部壊れ、迎護船も多数破損し水夫にも溺死者がでた。不眠不休で修理をし、ようやく歓迎態勢が完了した8月1日昼過ぎ、通信使船団の接近を告げる狼煙が玄界島、志賀島から次々と中継されてくる。三使船の曳舟144隻と対馬藩船の曳舟243隻に船頭と水夫3060人が玄海島沖まで出向き、一行を相島まで警護、曳航する。』とある。 |
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相島きずな館で冷房のきいた新築の部屋で昼食後、船の出発まで地域物産館で買い物・休憩。 |
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相島は猫の島としても有名、又、沢山のトンビが上空を舞っていました。 |
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予定どうり14時には新宮漁港に到着後、解散となりました。 |
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お知らせ
次回の第83回歩こう会は変更になりました。那珂川から筑紫野市内の戦国/江戸時代になります。
日程:平成26年10月7日(火) 後日 詳細案内をしますのでご参加ください。 |
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