【日時】
平成29年9月5日(火)~6日  AM8:20 天神日銀前集合
【参加人員】    35名
【コース】  (第1日目)
天神日銀前~基山PA~大村湾PA~小浜温泉~有馬キリシタン遺産記念館~原城跡~雲仙みかどホテル
(第2日目)
雲仙みかどホテル~仁田展望台~旧大野木場小学校被災校舎~潮受堤防展望所~道の駅たらふく館・漁師の館(昼食)~基山PA~天神日銀前
  9月5日(火)朝9時天神日銀前、35名を乗せたバスは長崎県島原半島に向かって出発。
なぜわざわざ一泊二日で、半島突端の南島原市の「原城跡」まで行ったのか!それは、わが国の2018年世界文化遺産候補「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産1番目である「原城跡周辺を歩く」ためでした。私たちの思いが通じたのか、現地では「ユネスコ:イコモス」の調査が行われており、たまたまその風景を見学することが出来、松九会歩こう会にとって歴史的に大変有意義な出来事でした。
その夜は、雲仙岳中腹にある「みかどホテル本陣」にて歩こう会「祝・100回達成記念パーティー」を実施。福永さん作成のDVD動画「歩こう会100回の歩み」を上映!皆さんそれぞれの17年(100回)を振り返り、「あの頃は若かった!よく歩いた!」等々感激にふけることが出来た一夜でした。
翌6日(水)は、1991年(平成3)9月に発生した、雲仙岳火砕流の被災施設(旧大野木場小学校校舎)と砂防みらい館を見学しました。特に噴火当時から収束するまで6年間のビデオ映像は、私どもに当時の自然の猛威を思い出させずにおりませんでした。以上、この二日間は、歩こう会皆さんの歴史勉強会と自然社会見学会となりました (野田 弘信)
 
天神日銀前~基山PA~大村湾PA~小浜温泉へ     小浜温泉での昼食後南島原へ
大村PA  小浜温泉
 
原城の価値をより理解するため世界遺産登録推進でオープンした「有馬キリシタン遺産記念館」を訪問
有馬キリシタン遺産記念館見学 
 キリスト教の繁栄と弾圧の歴史を持つ南島原市の「原城跡」「日野江城跡」。2つの史跡は、日本のキリシタン史の光と影の証人であり、人類の記憶として後世まで語り継がれる価値を持っています。本施設は世界遺産登録推進のため、平成26年4月、「有馬キリシタン遺産記念館」としてオープンしました。原城から発掘された十字架やメダイが展示されており、一揆軍が信仰によって結束していたことをうかがわせ又、人骨の発掘時を再現したレプリカなども展示されていました。
 
 世界文化遺産候補 南島原・原城跡
原城は1496年、東肥前までも勢力を延ばし当時26万石ともいわれた領主・有馬貴純によって築かれたといわれ、周囲4キロの三方を有明海に囲まれ難攻不落の天然の要害で、本丸・二ノ丸・三ノ丸・天草丸からなり、別名「日暮城」とも呼ばれた美しい城でした。晴純の代に至り、有馬氏の全盛時代となったが、次第に衰退、義直時代には、佐賀の龍造寺により再三侵略されたが、島津氏の救援で島原沖田畷にて勝利をおさめ、島原半島の南部をかろうじて維持できた。有馬晴信が1612年に岡本大八事件に連座し配流・切腹となり、子直純が再度有馬の地をおさめたが、2年後日向に転封となった。その後、1616年大和五条より松倉重政が入封、一国一城の令によって島原城(森岳城)を築城したので、日之江・原城は廃城となった。
1637年、この廃城となっていた原城に一揆が籠城した。世にいう「島原の乱」です。
昭和13年5月30日、国の史跡文化財に指定。原城本丸には南島原市出身の彫刻家・北村西望による祈りをささげる天草四郎像や、西有家町の民家の石垣に埋もれていた天草四郎の墓石が移されています。また、この台地は約9万年前に起こった阿蘇火山の大噴火による火砕流がつくったものであり、この地層の中には、雲仙火山のものとは全く性質が異なる白い軽石が含まれていました。 
 原城跡の見学コース 
訪問先の原城跡近くの南有馬庁舎駐車場に到着、ボランテイアガイドの案内で 徒歩20分の原城跡へ
     金子 成彦さん撮影  
   
なぜわざわざ一泊二日で、半島突端の南島原市の「原城跡」まで行ったのか!それは、わが国の2018年世界文化遺産候補「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産1番目である「原城跡周辺を歩く」ためでした
偶然が重なり 当日の同時刻に ユネスコの諮問機関・イコモスの調査団に出会い、望遠で一行を撮影。松九会歩こう会にとって歴史的に大変有意義な出来事でした。
 世界遺産登録に向けユネスコの諮問機関のイコモスが原城跡を調査
 原城跡で説明を受けるイコモスの調査員
       (中央の水色のシャツの人)

(当日の新聞記事)
平成30年の世界文化遺産登録を目指す「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」について、ユネスコの諮問機関「イコモス」による調査が9月4日からはじまり、9月5日、島原・天草一揆の舞台となった本市の「原城跡」の現地調査が行われました。調査にあたったのはイコモス国際専門家のリチャード・マッケイ氏(オーストラリア)で、文化庁の職員を含む関係者から説明を受けながら原城跡を視察しました。 調査は9月14日まで行われ、他の構成資産の調査を行った後、来年の5月ごろにイコモスによる評価結果が出され、来年の夏ごろに世界遺産委員会において登録の可否が審査されます。
 
  島原の乱では3万人以上のキリシタン・農民が命を落とし、原城一帯で後に多くの遺骨が出土されました。散乱していた遺骨を敵・味方の区別なく拾い集めてその霊をなぐさめたのが、このほねかみ地蔵だそうです
 本丸大手門跡 ほねかみ地蔵 
 
 
 幕府軍12万の総攻撃で徹底的に破壊された原城 
そして三万七千のキリシタン・農民が死んだ 
 
本丸櫓台跡 
 原城は有馬氏の転封とともに廃城となりましたが、島原の乱により、一揆軍の牙城として蘇りました。乱後、幕府軍12万の総攻撃で再び破壊されて廃城となった。ここは本丸櫓台跡で破壊された石垣が400年前の惨状を今に伝えていました。かつては三重の櫓が天守のごとく建っていました。
 
 大枡形虎口   本丸門跡
 
   
 本丸 池尻口門跡の天草四郎時貞の祈る石像
 15-16歳で島原の乱の総大将となった天草四郎の像。原城本丸で祈りをささげるこの像は、長崎平和祈念像で有名な南島原市出身の彫刻家・北村西望氏の作品です。 
  この写真はクリックすると拡大します
 
 若干15-16歳で一揆軍総大将に担ぎあげられ、3ヶ月堅固するも、最後は討死。本丸で首を斬られ晒し首にとあるが、実際は四郎の人相が幕府側に知られておらず、どの死体が四郎か分からなかった幕府軍は、本丸中央部にあった「立派な服装をした若い青年」の首を四郎と推定し、晒したという話があるそうです。墓碑自体はここにあったものではなく、近くの民家の石垣から発見されたもので、四郎の母が建立したものだろうということです                                                        金子 成彦さん撮影
 
 3万7千人の蜂起
湯島で一揆の計画が練られている中、領民たちの怒りが爆発する事件が起きます。年貢を納めきれなかった口之津の庄屋の妊婦が代官によって殺されたのです。それは身ごもっているにもかかわらず、冬の冷たい川の中の籠に閉じ込められ、母子ともども命を落とすという非常に残虐な事件でした。これをきっかけに島原半島と天草の領民たちは次々と蜂起します。彼らの総大将となったのはわずか15-16歳の少年、天草四郎でした。彼こそが天草に残された宣教師の予言にある「天童」であると信じられ、キリシタンは自らの信仰を表明し、領主に立ち向かっていったのです。島原半島では松倉氏の居城・島原城が、そして天草では富岡城が、蜂起した領民たちによって攻囲されました。かつて武士であった指導者たちによって民衆は武装・組織化され、単なる百姓一揆を超えた本格的な戦いへと発展していきました。
 天草四郎の墓碑の奥には、有明海を望む吉利支丹たちの像が、ひっそりと佇んでいました。いつ誰が置いたものかは分からないという。奥に見える島は「湯島」別名、談合島。乱勃発前に首謀者たちはこの島で会談し、一揆を決めたと伝われています。
 
 
池尻口門跡  
腰巻石垣のような道沿いの石垣、道の左側の空堀は結構な深さでした。  細い1本道をバスが迎えにきてくれました。
 
 
  雲仙みかどホテル
今回の宿泊ホテルは雲仙にあるバイキングと温泉で有名な雲仙みかどホテルです。
入り口のみかど門は雲仙普賢岳の大噴火の生き残り、樹齢800年の椎の木の銘木が出迎えてくれました。
 
 
 雲仙みかどホテル玄関前での集合写真
 この写真はクリックすると拡大します
雲仙岳中腹にある「みかどホテル本陣」にて歩こう会「祝・100回達成記念パーティー」を実施。福永さん作成のDVD動画「歩こう会100回の歩み」を上映!皆さんそれぞれの17年(100回)を振り返り、「あの頃は若かった!よく歩いた!」等々感激にふけることが出来た一夜でした。
 
評判どうりのバイキング料理で飲み物以外にも、カニ、刺身、国産牛の焼肉、握り寿司、デザート等食べ放題でしたが、この年ではもう元はとれませんでした。 
 
 
仁田展望台 
残念ながら天候不良で早々に次へ 
 
 
1991年(平成3)9月に発生した、雲仙岳火砕流の被災施設(旧大野木場小学校校舎)と砂防みらい館を見学しました。特に噴火当時から収束するまで6年間のビデオ映像は、私どもに当時の自然の猛威を思い出させずにおりませんでした 
 大野木場砂防みらい館  旧大野木場小学校被災校舎
南島原市深江町にある旧大野木場小学校被災校舎は、平成3年9月15日18時54分に発生した大火砕流に伴う、強烈な熱風(火災サージ)で焼失した校舎を、被災当時のまま保存・展示した施設です。
校舎の周辺には、熱風と共に運ばれてきた砂(火山砂)が、数センチほどの厚さで残っています。
この校庭にあるイチョウの樹は、大火砕流の熱風により焼かれてしまいましたが、翌年の平成4年には芽を吹き、見事に復活しました。 
 現在も残る被災した校舎やグランド  校舎から走り出る児童
 
諫早湾干拓堤防道路潮受け堤防展望所 
諫早干拓の潮受け堤防に建設された諫早干拓堤防道路、全長8.02キロメートルのほぼ中央にある展望所で休憩。
堤防建設で閉め切り工事に当時ギロチンと呼ばれた鋼製の閉め切りゲートが取り付けられ、引き潮の時一斉に落とされ、潮の閉め切りがされた映像が懐かしく思いました。そのゲートを埋設した状態で潮受け堤防が完成していますが諫早干拓には、環境的な問題があり今も未解決のままです。 
普賢岳がうっすら見えます  歩道橋 には小さな虫の大群で早々退散
道の駅たらふく館で買い物、漁師の館で昼食後帰路へ
 
 
 
この二日間のバス旅行は、歩こう会皆さんの歴史勉強会と自然社会見学会となり無事100回目の歩こう会達成となりました。

平成12年10月に第1回をスタートした歩こう会は歩こう会会員の皆様のご協力により、めでたく100回を迎えることができました。大変ご苦労様でした。
この17年間には福岡近郊の歴史・史跡、長崎街道宿場、篠栗霊場、 宗像・地島等の島々、石見銀山等の観光バスによる史跡巡り等に多くの方にご参加頂きました。

(延べ参加人員)     4,250名

(歩いた距離)             740km         博多・名古屋間の距離になりました。

 

この17年間にわたり歩こう会のお世話活動をされた野田さんを始め歴代の世話人の皆様のご尽力 に対し厚く感謝申し上げます。

我々九松を良き時代に退職し歩こう会で沢山の仲間と楽しい時を過ごしましたがいつの間にか後期高齢を迎えてそれぞれ人生の新しいステージが始まっています。
お互いに見た目はともかく、気持ちだけはいつまでも元気で溌剌と生きていきたいものです。

(歩こう会世話人)

   野田弘信  菊竹宏明  宮脇 彪  羽野保行  林田良一

(写真撮影・HP・動画制作) 福永攻治  

 
お知らせ

歩こう会100回達成の歩みの動画配布について

第100回の歩こう会に参加された方は宴会の席上でプロジェクターで鑑賞されましたが皆さんのご希望により無料配布することにしました。

参加者以外の方については最近まで歩こう会に参加し、残念ながら100回目の島原バス旅行に参加出来なかった歩こう会会員の方にも動画を配布したいと思います。
但し、事務局が負担にならないように配布方法の協力や一部費用負担(運送費)をお願いします。

(USBメモリーでの配布)
今回作成した高画質の前編、後編の2本の動画(mp4)合計容量3GB 放映時間各25分 をUSBメモリーで配布。
動画のUSBメモリーを受けったら自身のパソコンにコピーして次の人へ届けてください。届ける順番は後日連絡します。  


(申し込み先)
             福永攻治  wakakusa@csf.ne.jp         092-596-8483

                                          wakakusa0123.koji0789@gmail.com