【日時】
平成29年2月7日(火)  AM9:30 地下鉄・藤崎駅ターミナル1F集合
【参加人員】    35名
【コース】  藤崎駅ターミナル1F~猿田彦神社~紅葉八幡宮昇殿参拝~筑前高取焼登り窯~元寇防塁跡~元寇神社~西南学院大学(元寇防塁複製)~サザエさん通り~福岡市博物館~福岡タワー・TNC会館(昼食)~シーサイドももち海浜公園~百道浜西緑地散策~飛石橋(金屑川)~藤崎駅ターミナル1F(解散)
2月7日(火)早良区の藤崎駅ターミナル1Fに35名が集合!最初は、近くの猿田彦神社に参詣し、高取山の紅葉八幡宮にて昇殿参拝「息災長寿・家内安全」の祈願を行っていただきました。続いて西新の元寇神社に参詣し、新年の「三社初詣」となりました。途中、筑前高取焼き登窯→西南学院大学(元寇防塁)→サザエさん通りを歩き、博多湾の海岸を埋め立てて出来た「ニユータウン・シーサイドももち」に足を踏み入れ、福岡市博物館を訪ね、福岡博多の歴史を勉強をしました。ココは、元々白砂青松の海だった!自分たちが子供の頃は海水浴に来たもんだ!確か福岡市博物館の辺りに飛び込み台があつた!等々楽しい思い出のところでした。昼食は、福岡タワー/TNC1Fフロアーの食堂でおもいおもいの食事をいただきました。
午後は、シーサイドももち海浜公園を歩きました。博多湾に浮かぶ能古島や志賀島を右に見ながら、「はかた夢松原の会」の皆さんにより、新しく植樹されたクロマツの海岸を西方向に歩くと室見川の河口に出ました。川沿いの百道浜西緑地を上流に向かって歩き、金屑川の飛石橋の袂に出ました。あとは明治通りの早良口経由で藤崎駅ターミナルに到着です。本日はお天気もよく、梶山ご夫婦の小2のお孫さんも参加され楽しい歩こう会でした。                 歩行距離6km     野田 弘信
 
藤崎駅ターミナルの向かい側、道路に面してひっそりと鎮座していた猿田神社、鳥居の前では可愛いお猿さんがお出迎え。中に入るとここにも、あっちにもお猿さんがいました。 
猿田彦神社(さるたひこじんじゃ)
猿田彦様を祀る藤崎の猿田彦神社
猿田彦神社は、天照大御神の命により天孫降臨したニニギノミコトを道案内した猿田彦大神を祀っています。もともと街道の出入り口に祀られる道祖神として伝えられてきたものですが、猿の字を冠する神様ということから庚申信仰と結びついたとされます。以来、60日ごとの庚申(かのえさる)の日に祭りを行い、猿にちなみ「災難が去る」「幸福が訪れる」という信心を集めてきました。ここ藤崎の猿田彦神社も唐津に延びる唐津街道の出入り口に建立され、数百年の歴史を紡いでいます。
 
猿田彦神社から明治通りを「西新」駅方面に向かうと、大きな石の鳥居があります。
福岡藩主 黒田家の信仰が篤かった早良の総鎮守で福岡市早良区高取の神社 の紅葉神社へ向かいました。 
 紅葉八幡宮
筑前三代藩主・黒田光之が早良郡橋本村にあった小さな社を西新の地に移したもので、藤崎商店街から南へ少し入った所にあります。西新の町はこの神社を中心に発展したとされ大正4年(1915)、現在地の高取1丁目に移転。その名の通り境内にはモミジの木が多く、境内地の内、2000余坪を紅葉山公園としています。 
紅葉八幡宮(旧県社)の由緒と歴史
紅葉八幡宮は文明十四年七月(室町時代1482)筑前の国、橋本村に柴田蔵人佐繁信により建立せられました。蔵人は陸奥の國刈田郡柴田村の者にして、当地に来往し、その産土神をお祀りしました。以来、橋本村一円の氏神様として崇敬されてきました。江戸時代になり黒田藩三代目藩主光之侯がご幼少の頃、生母の里橋本村に養育されました。光之侯は、黒田騒動より八幡宮の氏子がお守りしたこともあり氏神様として崇敬が篤く、藩主となりますようにと祈願され、以後黒田家、黒田藩守護神として御参拝が慣例となっておりました。(HPより) 
 
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 紅葉八幡宮・平山宮司より「正式参拝と十表祓い」を受け、全員のお祓いをしていただき、歩こう会の世話人 野田さんが代表で玉串奉奠をささげました。 
 
筑前高取焼登り窯の見学 
高取焼の大きな特徴は、七色の釉薬を特色とする「高取焼釉薬」でその色が茶人の「心」をとらえ、その他の特徴としては、形や装飾の簡素さがあります。
 
西側元寇防塁跡 
北条時宗が、二度目の蒙古襲来に備えて出した結論。それが、防塁築造。
 幾つもの異なる素材と構造。わずか半年で完成という驚異的な速さ。防塁はいかにして造られたのか。 
 元寇神社と東側元寇防塁跡
『元寇防塁』 (案内板より) 
13世紀初め、チンギス・ハンは、アジアからヨーロッパにまたがるモンゴル帝国をうちたてました。その孫、五代皇帝フビライは、国名を元と改め、日本に使者を送り通交を求めました。 しかし鎌倉幕府がこれに応じなかったため、1274年博多湾に攻め込み、その西部に上陸し、九州の御家人たちと激しい戦いをくり広げました(文永の役 ぶんえいのえき)。 幕府は、元の再度の来襲に備えて、九州各地の御家人に命じて、1276年3月から約半年で、西は今津から東は香椎(かしい)まで、博多湾の沿岸沿い約20㎞にわたる石築地(いしついじ)(元寇防塁)を築かせ、その場所を警備させました。 防塁は各地の分担地区によって、その構造が違うことが分かっています。 石材は近くの山や海岸などから運び、全体を石で築いたり、前面だけを石で築くなどの工法が採用されています。 防塁の高さは、2.5~3mほどと考えられています。 この西新地区(当時の百道原)の分担国は分かっていません。 防塁の構造は粘土による基礎工事を行い、基底部幅3.5mの前面と後面に石積みをし、その間を砂と粘土でつめています。 石材の節約をはかった独特の工法となっています。 1281年、元は再び日本を攻めましたが、この元寇防塁や武士の元船への攻撃にはばまれ、博多の地には上陸できませんでした(弘安の役 こうあんのえき)。 元寇防塁は、1931年(昭和6年)、国の史跡に指定され、保存されています。 (2000年3月 福岡市教育委員会
 猿田彦神社、紅葉八幡宮に続き、最後は元寇神社に参詣して新年の「三社初詣」となりました
 西南学院大学(元寇防塁複製)
 当日は残念でしたが入学試験のため学内の元寇防塁複製見学はできませんでした。
 西南大のHPより。
本学第1号館の新築にあたって元寇防塁の遺構が検出されました。体育館南側などに保存されている西新地区元寇防塁と同様に 2.4mの本体の両面を石積みで堅固に整え、中に粘土と砂を交互に詰めていました。石積みは基底部をわずかに残すほどのもので保存状態は良くありませんでしたが、石塁の南側に約1mの間隔をおいて幅1.5m、高さ1.3mほどの粘土と砂を交互に積み重ねた土塁を検出しました。つまりこの付近では元寇防塁は石塁と土塁の二列構造になっているという新たな事実が明らかとなったのです。二列構造の意味の解明は今後の調査事例に期待したいところですが、元寇防塁研究に新たな視点を提供する大きな成果を得たことになります。 
出土した土塁は東西長さ20m。元寇防塁の遺構で土塁が発見されたのは今回が初めてです。土塁から見て北側(海岸線側)に並行して石塁の土台部分の石が所々に残っていました。「遺跡 元寇防塁」は、この遺構の一部を、出土した場所から約12m北東側へ移築し、復元したものです。
 
 
サザエさん通り~福岡市博物館 
福岡タワーが正面に見えるサザエさん通りを歩き、福岡市博物館へ 
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福岡市博物館 
博多湾の近くに建つ近代的な博物館であの金印が常設展示されています。
常設展示中の金印
印判部分は,約2.3センチ四方,厚さ5ミリほど,まるでチョコレートの一切れサイズほどの極めて小さいもの。その上部に蛇を形取った紐(ちゅう)と呼ばれるつまみがついている。江戸時代に博多湾に浮かぶ志賀島の農民甚兵衛が発見したと伝えられ,印面には漢委奴国王(かんのわのなこくおう)と刻印がある。館内常設展示場に展示されている金印は,ホンモノです。 
 
 福岡タワー・TNC会館(昼食)~シーサイドももち海浜公園
遅くなった昼食は、福岡タワー/TNC1Fフロアーの食堂でおもいおもいの食事をし、昼食後はシーサイドももち海浜公園を歩いて藤崎駅ターミナルへ
 
 
 
百道浜西緑地散策~飛石橋(金屑川)~藤崎駅ターミナル1F(解散) 
 博多湾に浮かぶ能古島や志賀島を右に見ながら、「はかた夢松原の会」の皆さんにより、新しく植樹されたクロマツの海岸を西方向に歩くと室見川の河口に出ました。川沿いの百道浜西緑地を上流に向かって歩き、金屑川の飛石橋の袂に出ました。あとは明治通りの早良口経由で藤崎駅ターミナルに到着し、解散となりました。
今日は心配した天候も晴れになり、潮風に吹かれながら心地よい歩こう会でした。大変お疲れ様でした。
歩こう会は100回達成まで後3回です。頑張りましょう。次回開催は後日詳細案内をしますので多数のご参加をお願いします。