【日時】
平成27年12月1日(火)  AM9:40 JR加布里駅前広場に集合
【参加人員】    46名
【コース】  JR加布里駅前広場~長野川堤防・大新開~岩本開~長野川/泉川堤防 天保開~~弁天橋~宝暦開~嘉永開~元禄開~小富士海軍航空隊記念碑~加布里湾干拓記念碑~西隊門跡~加布里湾漁港~牡蠣小屋・住吉丸で忘年会~JR加布里駅
紺碧の空、糸島富士(可也山365m)もくっきりと聳え、本年最高の天気!雲雀さえずる「小春日和」、JR加布里駅前広場に午前10時、46名が集合!  糸島平野の一角、加布里湾に面する霊山川々口周辺に、400年前から人口的に造成し続けられた,広大な加布里干拓農地と、同地に70年前の大東亜戦下開悦隊され、  2年間で5千名の予科練生を育成した、子富士海軍航空基地跡地を探訪しました。
 今では、何気なく通りすぎていたこの地を、あらためて歩いて見ると、こんな素晴らしい先人達の歴史的ドラマがあったと言う事実を再発見することが出来ました。  
また、コースの側にあった「空調技術工業(株)」に立ち寄り、九松OBで元気に活躍されてる技術者の方(古賀さん他)にも再会することが出来、皆さん自分の事のように喜んでいました。  
最後は、西地区浜地和夫さんの心行く準備とお世話により、「焼き牡蠣料理の昼食&忘年会」となり皆さん大満足でございました。  歩こう会100回達成実現に向かって、来年も頑張るぞ!と歩行距離7kmの一日で ございでした。   野田 弘信
 
心配した天気は暖かい・快晴の歩こう会日和でした。
JR加布里駅前広場に集合し、世話人の野田さから本日のコース説明を受け、早速元気に出発。
 
長野川堤防・大新~岩本開~長野川/泉川堤防 天保開  
 江戸時代、全国の諸藩にとって財政の基盤はなんといっても「米の石高」でした。 官兵衛の子、福岡藩の初代当主長政も、福岡藩の石高を上げるため、糸島地域の大規模な干拓や、遠賀川の整備・運河建設など、さまざまな米作振興に取り組みます。
新田開発を目的とした糸島の干拓事業は、長政が代官菅和泉守(かんいずみのかみ)に命じて始まりました。雷山川の下流を「泉川」と呼ぶのは、この菅和泉守の名からきています。干拓事業はその後、元禄年間や嘉永(かえい)年間にも行われ、“糸島富士”と呼ばれる可也(かや)山周辺には整然と区画された水田が現在も広がっています。
 400年前から造成した広大な加布里干拓農地・天保開    右側は長野川のハマボウの木
 天保開拓地と可也山  糸島の夏の風物詩:ハマボウ   朝咲いて夕方にしぼむ可憐ではかない花でハイビカスの同じ仲間
 
可也山をバックに泉川堤防・天保開拓地での集合写真      この写真はクリックすると拡大します
泉川・弁天橋・小富士海岸ウオーキング 
泉川は雷山川下流の通称で300年前の干拓によりできた川で堤防にはハナボウ、海はカブトガニ、クロツラヘラサギ等の希少生物の宝庫です。
この時期はミサゴ(英名:オスペレイ)は上空20m位から水中へ急降下して飛び込み、ボラやコイを捕獲します。 白くクチバシが長いのが希少生物のクロツラヘラサギで世界300羽しかいない珍鳥
 加布里湾・泉川に架かる弁天橋を渡り、トイレ休憩に立ち寄った空調技研工業さんの社屋

小富士海軍航空隊・施設跡

戦局の悪化により、海軍は航空隊の拡充を図るため、15,16歳の旧制中学3年終了程度の男子に対し搭乗員養成を目的とした教育をすることにした。そこで小富士村、可也村を含む広大な土地に昭和18年10月より用地測量、用地買収を行い、航空基地を完成させた。昭和19年5月15日に鹿児島海軍航空隊小富士分遺隊として発足した。
5月27日には、鹿児島航空隊より、約600人の第13期甲種飛行予科練習生が到着し、7月24日には教育終了生が各地の航空隊へ配置されていった。その後も当地で教育して、終戦までの2年ほどで5000名もの予科練生が巣立って行った。
終戦後、航空隊跡地の利用について、県農業会や地元関係者が集まり協議を重ね農地として開拓することとし、昭和31年5月には各個人へ売り渡し、元の田畑に返り今日に至っている。 
 小富士海軍航空隊記念碑  航空隊兵舎跡
70年以上経っているためく老朽が激しい。(個人の納屋)
 
 記念碑碑文
風雲急なる大東亜戦下 祖国防衛の念に燃え決死報国の覚悟を秘めた若人を集め 消耗する航空戦力の補充を目的に若鷲練成の基地として 昭和十九年五月小富士海軍航空隊を解隊終戦まで甲十三期乃至十六期の各期予科練約五千名を育成した 当時十有余才の学徒は国難に殉ずる我を惜いて他無しとの悲壮の決意で奮躍予科練に入隊し 青春の情熱を傾けて訓練に励んだ 然るに戦局愈々過烈となり予科練教育は中止され夫々特攻基地に派遣されたが 遂に戦運我に利なく昭和二十年八月終戦となり小富士航空隊も其の使命を終わった思えば当隊の歴史は僅か二年にすぎなかったが我らが命をかけて鍛錬した予科練魂は 克く戦後激動の試練に耐え新日本発展の礎となった 我等は往時の予科練時代を偲び茲に同隊の碑を建立する
昭和四十八年五月二十七日  小富士海軍航空隊出身者有志外一同 
 
玄界航空基地跡などの糸島半島の戦跡 
玄界航空基地
昭和20年2月下旬、指宿基地に進出した偵察302の瑞雲隊は、敵の沖縄侵攻に備え後方基地の設置を必要とした。そのため、船越に本部を置く玄界基地が設置された。この基地は第634海軍航空隊が主基地とし、本隊本部を置く水上機の最大の秘匿海軍航空基地となった。
この634海軍航空隊は、水上爆撃機瑞雲隊と水上雷撃機水偵隊を結集した水上機100機を越す最大の水上機攻撃部隊となった。
この基地の施設は、船越、久家、香月、岐志、新町並びに加布里湾岸の二丈・松末等に飛行機の格納庫などを置き集落の民家を宿舎とした。終戦後の撤収時には関係施設がほとんど残らず基地の全体像は、それぞれの集落住民が断片的に記憶していたにすぎなかった。
元禄開~嘉永開の干拓地  昔の海岸線を歩く
 
 
再度、加布里湾・泉川に架かる弁天橋を渡って加布里漁港へ
 
 
加布里漁港・牡蠣小屋住吉丸
歩こう会恒例の忘年会は本日の最終地の加布里漁港にあるカキ小屋住吉丸で西地区浜地和夫さんの心行く準備とお世話により、「焼き牡蠣料理の昼食&忘年会」開催。
早速、松九会・中島さんの音頭で始り、苦戦しながら牡蠣・活車エビ・ハマグリ・サザエ・イカの炭火焼に挑戦、持ち込みのお酒で終始楽しく懇談をしました。最後はカキ小屋内での集合写真。
 加布里ハマグリは全国でも珍しい天然物
かつて蛤の好漁場だった加布里湾は、1970年後半から、乱獲などによる個体数が激減、休漁が長く続きました。そんな中1997年に発足された糸島漁協加布里支所「ハマグリ会」は、持続的に蛤漁ができるようにと資源管理に乗り出す。漁期、漁獲量、大きさの規定を決めることで、数少ない天然蛤が育つ環境を作り上げてきたそうです。
集合写真    この写真はクリックすると拡大します
楽しかった懇談の最後は集合写真そして世話人・野田さんの挨拶で解散。
帰りは加布里漁港からJR加布里駅まで歩き(20分)、それぞれ帰路へ。本日は大変おつかれさまでした。
次回の歩こう会は平成28年2月2日(火))早良吉武飯盛史跡探訪です。
歩こう会100回まで後10回(2年)です。頑張りましょう 
                                                      
カキ小屋での忘年会解散後 せっかくの天気でしたので夕日撮影に行きました。
場所はJR加布里駅から車で15分、202号線の海岸沿いにある箱島神社の突端。
 加布里湾の夕日  PM5:06撮影