【日時】
平成26年12月2日(火)
【参加人員】    46名
【コース】   福岡城上之橋御門(13:10集合)~東の丸(裁判所)~南内堀土手上~東二の丸~福岡城むかし歴史館~北内堀土手~下之橋御門~高屋敷~名島門~福岡城・鴻臚館案内処(三の丸スクエア)~二の丸~本丸~天守台跡~南二の丸~福岡美術館バス停~アクロス前~アクロス地下2F(忘年会)

平成26年12月はNHK大河ドラマ「軍師・官兵衛」50回目の放映により、最終完結となりました。黒田如水・長政親子は西暦1600年9月の関ヶ原合戦大勝利の証として、その年の12月に筑前国に入国。早速翌年より7年の歳月をかけ、52万石の大国にふさわしい広大な「福岡城」を築城しました。その地形的規模は、今の福岡市動物園の裏山から博多湾に突き出た「大休(おおすみ)連山」の途中を切り取って、連山峰部(赤坂山)を福岡城の最高地点(天守台跡)として、山全体を削り取り、本丸→ニの丸→三の丸とした。更に、周囲の干潟・沼地を埋立て家臣団の屋敷・町人の住居・寺院とし、残りの入江を防御施設の内堀・大濠とした。今回は、その実態を知るべく、福岡城上の橋御門跡に集合し、城の東端から西端まで三→ニ→本丸と登り、最後は城外に出て、天守台と峰続きの「桜ヶ峰」台地(中級武家屋敷跡群)一帯を散策しました。中でも、福岡市が旧舞鶴中学校の教室を改造し11月にオープンした「福岡城三の丸スクエア/立体地図」は、福岡城の生い立ちが一目で分かりやすくなっており大好評でした。また、隣の教室を改装し新設された「如水庵」コーナーは抹茶・コーヒー喫茶/官兵衛ゆかりのお菓子いただき、しばしの休憩をとりました。      本日の歩行距離6km、参加者46名  野田 弘信

 福岡城模型製作:筑前城郭研究会・小田原早嗣さん、写真撮影編集・福永攻治
この冬最高の寒波が福岡にもに襲来、寒さ対策も万全にして福岡城上之橋御門に13:00集合。世話人の野田さんより、天候を考えて本日のコース変更と新人3名の紹介をして福岡城跡の観光コースに向かいました。
○庄嶋隆さん、世話人の野田さん、 ○有田博文さん、 ○鳥越岩男さん  ○は新入会員の皆さん
福岡城・上之橋御門
 今年整備された上の橋大手門は、黒田五十二万石を誇る本城三の丸に入る公式御門。「虎口構え」の高さ約10mに及ぶ石垣に守られた、二層の楼門は戦災で消失。現在は、算木積みの稜線の美しい石垣が、当時の面影を残している。昔は、石組み橋ゲタの中央に木橋が架けられ、敵が攻めて来た時には、自ら橋を焼き落とす仕掛けとなっていた。城側橋ゲタには、城内排水の仕組みがあったそうです。城下町福岡から城内・三の丸に入るためのメインゲートになっていました。現在もこの上の橋を渡った正面の裁判所側に大手門の石垣が残っています。
 
三の丸エリア 東の丸(裁判所)
福岡城の三の丸はとても広大なエリアになっています。西側には舞鶴中学校、ぼたん・しゃくやく園、城内西広場(北丸)などがあり、
北側には陸上競技場、平和台球場跡などがあります。東側は高等裁判所(東丸)になっています。
(栗山善助の屋敷址
有岡城の戦いで、荒木村重の説得に向かいそのまま捕えられ半死半生の黒田官兵衛を救出した栗山善助は福岡城築城後は三の丸東側(東の丸、現在は福岡高等裁判所)に屋敷を構えていました。
 
 東の丸(裁判所)~南内堀土手上~東二の丸を歩く
 
 
 東二の丸
扇坂門跡。東二の丸から二の丸への虎口。東二の丸から扇坂を登ると二の丸に入るが、扇坂に「お綱門」があった。 
二の丸の東側で、東御門の階段をのぼった場所が東二の丸になります。かつては、二の丸御殿(現在の球技場)が建ち、その南側は水ノ手の池(現在の野球場)になっていました。また、東御門の階段をのぼった辺りには本丸への検問所があったといわれています。

                   九松の良き時代に全社運動会をした懐かしの競技場をしばし眺める。
福岡城むかし歴史館 
茶色の壁に黒い屋根の福岡城むかし歴史館に寄りました。 内部は、床面が古地図となっていて、センターには、「しんわ」のロビーにあった福岡城(舞鶴城)の復元模型が展示されていました。野田さんより本日のコースを赤外線ポインターで説明されたのでよく判ったのでは。
下の橋御門(しものはしごもん)  伝潮見櫓
(県指定文化財 昭和31年4月3日指定)
福岡城は、福岡藩初代藩主黒田長政によって、慶長6年(1601)から7年をかけて築かれました。
城内への門は、堀に架かる3つの橋、上之橋かみのはし・下之橋しものはし・追廻橋おいまわしばしにそれぞれあり、このうち下之橋を渡って入る門がここ下之橋御門(下の橋大手門)です。
現在の門は、文化2年(1805)に建てられましたが、明治時代に上層部を失い、長く一層のままでした。
平成12年(2000)に不審火によって被災したため、復旧に向けた調査研究を行い、同20年に二層櫓門にそうやぐらもんとして復原しました。門の上層部は、部材に残る痕跡・発掘調査成果・絵図・文献史料などにより、その規模、北側の下屋げやの様子、柱の立つ位置、外壁の漆喰壁しっくいかべなどが明らかになりました。
また直接の資料を欠く部分は、上之橋御門(上の橋大手門)の古写真や本丸表御門(現・崇福寺山門)などを参考にしました。
この復原は専門家で構成する「福岡城跡建造物等復原整備検討委員会」」で検討されたものです。
これとは異なった復原案も提案されましたが、現段階でより蓋然性が高いと判断された本案を採用しました。
平成20年11月 福岡市教育委員会

伝潮見櫓は、2層2階の湾内監視用の櫓。1956年(昭和31)、移築されていた旧黒田公別邸から戻され、現地に再建された。

 
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御高屋敷
三の丸の西側で、現在は「ぼたん・しゃくやく園」になっている場所で黒田如水が晩年を藩主・黒田長政の傍らで暮らした屋敷が「御鷹屋敷」です。ここは荒戸の方より見上げる丘陵地になっていたことから「御高屋敷」とも呼ばれていました。 
1600年末、筑前に入国した長政は名島城に入り、官兵衛は親しかった神屋宗湛の旧宅があった博多の宗湛町(現在の博多区綱場町・店屋町)に仮住まいします。翌年から福岡城の築城が始まりますが、この間、官兵衛は太宰府天満宮の鳥居の東に宅を移します。境内には「如水の井戸」が残っています。官兵衛は和歌・連歌の神としても知られる天神様(菅原道真)を崇敬し、夢の中でのお告げにより詠んだ連歌を奉納しています。 福岡城の築城が進むと、三の丸の小高い丘に住居を構えました。黒田如水公御鷹屋敷(おたかやしき)跡の石碑が立っています。
 
名島門 
黒田長政が最初に入城した名島城にあった名島門を移築

福岡市指定文化財(建造物)昭和53年3月30日指定
この門は、天正15年(1587)小早川隆景が多々良川口の名島の陵端に築いた名島城の脇門で、慶長年間(1596~1614)黒田長政が居城を名島城から福岡城に移すとき、黒田24騎の一人である林掃部にさげ渡され、邸宅の門として使用されていたもので、「名島ひけ」と呼ばれた名島城の数少ない遺構の一つです。明治の中ごろ、長崎に移築されそうになったのを、当時の代議士平岡浩太郎氏によって買い戻され、天神の自宅の門として使用されていましたが、戦後富士ビルの建設に伴い、平岡浩氏(浩太郎氏の孫)によって1961年(昭和36)現在地に移されたものです。昭和63年2月福岡市教育委員会 
 
福岡城・鴻臚館案内処(三の丸スクエア) 
福岡城跡・鴻臚館跡エリアに案内・休憩施設として「三の丸スクエア」が, 先月平成26年11月1日にオープン。 史跡案内や企画展示などの展示スペースや軽飲食やお土産を販売する『甘味処如水庵』で休憩、抹茶とお菓子をおいしくいただきました。 
福岡城
 福岡城は福岡市の中心部に位置する平山城であり、福崎丘陵に建造され、本丸を囲むように二の丸があり、その外に大きく三の丸が配されています。東側は那珂川を天然の堀として活用し、また西側の干潟を大堀として活用したそうです。この大堀は現在、市民の憩いの場である大濠公園となっていて城下町は城の北側すなわち海側に配されています。現在の城跡の大半は舞鶴公園となっており、平和台陸上競技場などのスポーツ施設があり、かつては西鉄ライオンズの本拠地であった平和台球場もあり、福岡高等裁判所、福岡市美術館もあります。公園内には門・櫓(47基)が現存し、多聞櫓とそれに続く二の丸南隅櫓は国の重要文化財に、潮見櫓・大手門・祈念櫓・母里太兵衛邸長屋門が福岡県文化財に、名島門が福岡市文化財にそれぞれ指定されています。また、多聞櫓に続く二の丸北隅櫓が復元されています。城跡からは昭和62年(1987年)に平安時代の外交施設である鴻臚館の遺構が発見され、古来より地理的に重要な拠点であったことを窺い知ることが出来ると言われています。
天守閣の存在について従来の通説では、正保3年(1646年)に作成された福岡城を描いた最古の絵図『福博惣絵図』には天守閣は存在していないため、天守閣はなかったといわれていた。しかし、近年、「長政が幕府に配慮し天守閣を取り壊すと語った」と書かれてあり、元和6年(1620年)に豊前国小倉藩主・細川忠興が嫡子忠利に宛てた天守閣の存在を伺わせる書状が発見された。この頃、大坂の役が終わり江戸期大坂城が築城の最中にあった。天下普請であり、諸大名が築城に駆り出され黒田氏も例外ではなく、特に豊臣氏恩顧の大名である為に幕府の監視の目が強かった。故に、天守閣を解体し大坂城築城の資材に回し、幕府の信任を得ようとしたと言う説も浮上しているそうです。
(福岡城)
1、城域が広い(総面積80万m2 福岡ドームの21個分で姫路城や大阪城よりも大きい。
2、福岡城を海側から見ると東西に広がる城の形が鶴が翼を広げ舞っているに見える事から別名【舞鶴城】と呼ばれました。
二の丸
 東二の丸の南東側には、かつて二の丸御殿がありました。現在、球技場(ラグビー、サッカー場)になっている場所です。また、二の丸御殿の南側には、かつて水ノ手の池がありました。昭和23年(1948)の第3回国民体育大会の際、水ノ手との境界であった南側の石垣が撤去され、ラグビー場が建設されました。
 
 福岡城本丸御殿
 福岡城の本丸跡は広い敷地になっており、かつてはここに広大な本丸御殿が建てられていたといいます。
現在はたくさんの桜の木が植えられ、庭園風に整備されています。さらに、この本丸には月見櫓や御時櫓をはじめ、数多くの櫓が建てられていました。また、井戸の跡も複数残っています。
御殿は、城主の住居であり、また、君主との主従関係を確認する対面の儀式の場でもある。また、藩政のための庁舎でもあり、実用上城内では最も重要な施設である

○御広間(五十六枚)対面の儀式を行う重要な殿舎

○梅の間(十枚)○釈迦の間 毎日一回異見会をする部屋   ○御台所(御殿の中で最大の殿舎)、○役所、○その他座敷からなる
 

表御門櫓

厳重な防備と高い格式を持つ櫓門でこの門には透門がついています。資料では高さは五間と書いています。

 鉄門(くろがねもん)

鉄砲、弓矢等の武器でも破壊することができないような構造となっている鉄門上櫓。 左側の櫓は切腹櫓です。5間×1.5間

 
 埋門(うづみもん)

1間×2間で見栄えは良くないが、防御性能は高く、裏口や非常口として築かれた。
埋門・櫓 7間半×2間で天守と天守櫓・鉄門上櫓を結ぶ通路である。 天守櫓  9間×2間と二階3間×2間となっている。石落と狭門があったと思われる。 

 
天守台跡
天守台は市街地より20m以上も高い本丸台の赤坂山(現・桜坂)にさらに9mの石積みによってできています。その台上からは全市360度全方向が見渡せる高台の好展望地となっています。福岡城の「天守閣」はこれまでその存否が議論されてきましたが、平成元年以降の文献調査によって、 一時期の間、この天守台に天守閣が存在していたことを裏付ける史料が数多く確認されたそうです。5重層(6階構造)高さおよそ70余尺(23~24m位)の天守閣が想定されています。又、大天守台跡には天守閣の柱を立てたと思われる約40個の礎石がきれいに配置され、残っています。
 天守

上限の石垣は東西十二間、下段の石垣は十九間で正方形に近い。石垣の高さは、北石垣高七間半、南石垣高四間三尺、東石垣七間半、西石垣高六間半。 天守は4重で内部は六階(地階を含む)で十一間七尺の高さに相当します。 

 裏御門
 表御門櫓と同じで、石垣の間に門を設け、上に渡櫓を載せる形式で、最も厳重な城門です。
   
南二の丸
二の丸南郭(にのまるみなみくるわ)とも呼ばれている場所で、二の丸の南側に張り出す形になっています。現在は多聞櫓(たもんやぐら)の内庭として、きれいな芝生が整備されています。多聞櫓(たもんやぐら)とは、石垣や土塁の上に細長く建てられた長屋形式の櫓を一般に多聞櫓と呼んでいます。部屋の内部は通常、吹き抜けの状態とされていますが、福岡城南丸の多聞櫓内は16の小部屋に独立していました。 
 

○御広間(五十六枚)対面の儀式を行う重要な殿舎

○梅の間(十枚)○釈迦の間 毎日一回異見会をする部屋  

○御台所(御殿の中で最大の殿舎)、○役所、
○その他座敷からなる
 この集合写真はクリックすると拡大します! 
 
今日は寒波襲来で急遽コースを変更して、ここが最後の歩こう会となりました。
バス組は福岡美術館バス停へ、健脚組は歩いて忘年会会場のアクロスに向かいました。
 アクロス地下2F(忘年会)
 恒例の歩こう会忘年会会場は2回目のアクロス地下2Fで食べ放題・飲み放題のバイキングでした。松九会・中島さんの音頭で始り、おいしい料理と飲み放題のお酒で終始楽しく懇談をしました。やはり昔懐かしい面々と懇談するのは楽しいことでこのようなOB会が継続できることに感謝。最後は野田さんの決意(歩こう会100回目指して)と締で閉会となりました
      次回歩こう会は2015年2月3日(火) 伊都国歴史資料館周辺の史跡探訪です。