【日時】
平成26年10月7日(火)   筑紫野イオンモール 9:00集合
【参加人員】       41名    
【コース】   筑紫野イオンモール~ふるさと館ちくしの見学~~大丸別荘前~天拝山歴史自然公園~~武蔵寺~御自作天満宮~荒穂神社~天判山城跡~飯盛城跡~武者返し跡~高取焼窯~蜂隈屋敷跡付近~筑紫野イオンモール
筑紫野市にある九州一の超大型商業施設「イオンモール筑紫野」を出発!
近くにある市立「ふるさと館ちくしの」で、地域の古代~現代までの歴史的展示品を見学し、筑紫国(つくしのくに)の中心地が、」筑紫神社を始めとするこの地である事を実感しました。当日は歩こう会会員の伊藤利之さん提供の「資料/戦国時代末期の北部九州の動向」をもとに、戦国武将:筑紫広門/帆足弾定の居城「天拝山城/飯盛城跡」などの歴史探訪を兼ねたコースを歩きました。途中、武蔵寺や管公ゆかりの御自作天満宮を拝み、天拝山までの登り道を歩きながら、若かりし頃の松筑荘宿泊研修で、みんなで朝食前に、「天拝山まで駆け足登頂」した事など、思い出がいっぱい浮かびあがりました。それにしても「今はゆっくりゆっくりしか登れない。しかし登れるだけでも健康の証か!」と今の幸せに感謝する一日でしだ。 参加者は41名。 本日の歩行距離6km   野田弘信
写真撮影:福永攻治・笠井雅弘
秋晴れの 絶好の歩こう会  AM9時には筑紫野イオンモールに集合し、早速、筑紫野市・ふるさと館へ
   
ふるさと館ちくし  地域の古代~現代までの歴史的展示品を見学
 二日市温泉街を歩いて天拝山へ
 天拝山歴史自然公園   天拝山歴史自然公園内に入り武蔵寺、御自作天満宮へ
天拝山(てんぱいざん)は、福岡県筑紫野市にある標高258mの山でその名は、大宰府に流刑された菅原道真が自らの無実を訴えるべく幾度も登頂し天を拝したという伝記に由来しています。古名は天判山(てんぱんざん)。昔はススキだけで木が無かったが、黒田長政の家来の小河内蔵充が郡司となったときに植樹し、全山を樹木に覆われる山にしたそうです。
 
 世話人の野田さんより本日のコースの紹介  新入会員の堀川繁太郎さんの紹介 
 
 このサイトは427年前の1587年に、秀吉により九州における戦国時代が終焉を迎えた史実をえがいたものです。  九州の戦国時代
 武蔵寺
みそぎ”をして登られたといわれる天拝山の登山口にある武蔵寺は、天台宗椿花山武蔵寺と言い、九州最古のお寺として有名で藤原鎌足の子孫、藤原虎麿が創建したと云われているお寺です。
創建時期は定かになっていませんが、境内の瓦や経塚より11世紀頃までには建立されていたことが確認されており、九州最古のお寺です。(飛鳥時代、奈良時代ともいわれています)
 御自作神社
道真公が彫ったとされる自分自身の像が祀られています。また上には大宰府を守護する神様として白瀧稲荷大明神が祭られています
 
 この集合写真はクリックすると拡大します! 
紫藤の瀧
 ここは菅原道真が無実の罪をはらすために天拝山に登る前に身を清めたという

道真が、天拝山に登って無実を訴えるために、身を清めたとされる「紫藤の瀧」と道真が禊ぎをする時に、脱いだ衣をかけたと言われる高さ2メートルほどの「衣掛石」があり紫藤の瀧の傍らにある三重の石塔は筑紫野市の有形文化財に指定されているそうです。
 
天判山城跡~飯盛城跡を歩く
 戦国時代には、筑紫氏の家臣だった帆足氏の山城が築かれました。山頂に天判山城、麓の堂ノ山に堂ノ山砦、東麓には飯盛城が築かれ、天拝山全山が城塞化していました。しかし、天正14年(1586年)岩屋城の戦いの折の島津軍の攻撃で落城。その折の城主帆足弾正忠勝は城を追われ、筑紫方の籠もる宝満城に籠もったといわれています。その後、廃城となり、天拝山はススキで覆われた荒山となってしまいました。
 
 
                              荒穂神社
山の中腹にある神社。佐賀県三養基郡宮浦にある荒穂明神の社を招いたものです。言い伝えによると宮浦荒穂明神が一昼夜のうちに飛んできてここの岩間に鎮座したとされています。ここは隠れた紅葉の名所です。
 
 天拝山
 標高258メートル、筑紫野市の西に位置するさほど高くない山です。この山では901年に菅原道真公が無実の罪を天に訴えるため、100日間「紫藤の滝(しとうのたき)」にうたれ、身を清め七日七晩山頂にて祈りをささげたといわれています。古くはこの山は天判山(てんばんざん)とよばれていましたが、いつしかこの古事に習い天拝山と呼ばれるようになりました。
麓には菅原道真公が自分自身を彫った像が御神体として祀られている御自作神社、山腹には五十猛命(いそたけるのみこと)を祀った荒穂神社、そして山頂には道真公を祀った天拝神社があります。登山道は自然が楽しめる菅原道真公が登った道とされる天神様の小路と、整備されて登りやすい自然歩道の二つがあります。
希望者(健脚組)で天拝山を登る
快晴の中 展望台からは太宰府市筑紫野市の素晴らしい全景が望めました
 
<天拝山の由来>
天拝山はその昔、『天判山』と呼ばれていましたが、菅原道真公が太宰府に左遷されたとき、この山に登り、天を拝んで自分の無実を訴えたという伝説から、いつしか『天拝山』と呼ばれるようになったそうです。
天拝神社  天拝山に登山した健脚組の皆さん
天拝山登山道と飯盛城跡の分岐点  天拝山から飯盛城跡へ 
 飯盛城跡
飯盛城跡は天拝山城の砦として、筑紫広門の家臣の帆足弾正が守っていました。築城の時期や築城者については分かっていませんが、筑紫氏の戦略上重要な位置を占めていました。
飯盛城跡は標高140m~150mの南北に細長い尾根上にあり北側の一段高い部分が中心と考えられています。北側の斜面は約60度の急傾斜があり、周囲には谷がめぐり自然の地形を巧みに利用した砦でしたが、天正14年(1586年)に島津氏(鹿児島)との戦いで落城しました。
 
飯盛城は天判山城から東に派生した標高150m程の山腹に築かれています。天拝山遊歩道の案内図にも記されている城で、東麓の道路沿いには標識もあり、山頂にある天判山城が案内で少し触れられている程度なのに対し、こちらはきちんと説明板まで建てられている。単郭の山城であるが、西へ繋がる尾根を自然地形と合わせて大きく切り離しており、切岸も高く見栄えがする。鞍部には土塁の跡らしきものがあり、もともとは多重堀であったようです。主郭は南北にやや長く、段ははっきりしないが北側が高くなっていて南へ伸びる尾根と北へ伸びる尾根を堀切で遮断しています。遊歩道に従って北東へ降りていくと「武者隠し」と呼ばれる地があり、堀に隠れて敵を迎え撃った所とあるが、地形はよくわかりません。東麓には江戸時代この辺りを治めていた福岡藩家老の立花氏の蜂隈屋敷があり、その家臣で温泉奉行を務めた松尾氏の屋敷跡があります。  
 飯盛城跡から武者隠しへ
中段の堀の部分が一段低くなっていて武者が潜んでいたそうです。
   
ログハウス風の人気レストラン・アラスカの駐車場に出てすぐの高速道下で一旦解散し、筑紫野イオンモールへ向かいました。 
筑紫野イオンモールに向かう途中に満開のコスモス畑がありました。今日の歩こう会は晴天の下、秋風が気持ちよく筑紫野イオンから歩いて天拝山に登れるとは思いませんでしたが、これも顔見知りのOBの仲間と楽しい会話をしながらの歩こう会だからできることと思いながら本日の遅い昼食をイオンのレストランで食べて帰宅となりました。歩こう会100回まで頑張ります。 
 次回のご案内
次回84回歩こう会は12月2日(火)・福岡城近郊と忘年会です。
詳細は後日案内しますので多数のご参加をお願いします。