【日時】
平成26年6月3日(火)   J天神日銀前 8:00発 ~ 19:00着
【参加人員】       50名    新入会員:谷 泰徳 さん
【コース】   天神日銀前~基山PA~日田IC~豊前・一ツ戸城~平田城跡~青の洞門(休憩)~中津城跡~城井ふるさと村(昼食)~牧の原キャンプ場~城井ノ上城~メタセの杜(休憩)~馬ケ岳城周辺~道の駅(かわら)休憩~八木山バイパス~都市高速~天神日銀前
写真撮影:福永攻治
心配した天気は大宰府天満宮の御利益で何とか持ち直し、予定どうり福岡天神・日銀前を8時に出発。途中、基山PAでトイレ休憩後、日田ICから耶馬溪へ。最初の訪問地は豊前・一ツ戸城から平田城跡へ。
豊前・一ツ戸城ぶぜん・ひとつどじょう別名:中間城
所在地:大分県中津市耶馬溪町大字宮園字一ツ戸
(1379年)に大内義弘が豊前守護となって後、友杉民部が(1192年)この地の地頭となり築城したとされます。友杉氏は中間氏・一戸氏・大江氏とも称したようです。天正十五年(1587年)黒田孝高(如水)が中津城に入部後、中間統胤は黒田氏に従い、城は黒田氏の出城となり、中間氏がそのまま在城しました。関が原の戦い後、黒田氏の筑前移封に中間氏は従い、この地をはなれました。その後、細川氏の出城として機能しましたが、元和元年(1615年)の一国一城令で廃城となったそうです。
城跡は、中津市指定の史跡となっていますが、台風で倒された木々があちこち横たわり、石垣は崩れて、木は生い茂り、荒れ放題となっています。見張り砦であった鳶が城や下城、足下の山国川や道路など全く見通せず、「一ツ戸城保存会」の方たちが、木を切ったり急斜面にはロープを張ったりして、登山道の整備をしているそうです。一ツ戸城は、天然の要塞として作られた山城で城跡に登ると、中世の山城の面影が、感じられるそうです。
 
 

一つ戸城と周辺の歴史(中津市の紙芝居より)

お城は、耶馬渓町の下郷地区と、山国町の中間地区と両方面を見渡せて、南を神谷川、北を一戸川、東を山国川に囲まれた天然の要塞として、険しい山頂に作られ、中世戦国時代には、敵の攻撃を防ぐには最適の山城でした。大手門は山国町の神谷側にあり、館は山の上に作られていて、そこには、城主とその一族が住んでいました。 城跡には地元の人たちが「馬飛ばせ場」と呼ぶ、長さ500メートル、幅30メートル、広さ4ヘクタールの細長い形の台地があり、馬術の訓練をしていたようです。麓には、清水がこんこんとわきだす所があり、戦で城に立てこもった時にも、水に困ることはなかったようです。城の南方、妙見嶽とよく似た岩山に、山国方面の見張り砦として鳶が城、反対の北方、江渕集落の山の上には、耶馬渓方面の見張り砦として、下城をそなえていました。 豊臣氏がほろび、江戸時代となり、黒田家を継いだ黒田長政は中津から筑前福岡へ国替えとなりました。統胤も家臣を伴って一戸城を去り、福岡城の出城、筑前小石原の松尾城の城主となりました。黒田公の後、中津城城主となった細川公は、荒川少兵衛を一つ戸城の城番としました。江戸幕府2代将軍秀忠が出した、一国一城令により、1615年、一戸城は壊されてしまいました。
 
 黒田武士・栗山大膳が少年期を過ごしたといわれる平田城跡
所在地:耶馬溪町大字平田
白米城とよばれる城館跡。もとは野仲氏の支城でしたが、長岩城落城後、黒田二十四騎の一人栗山利安に旧領が与えられ、利安は平田城を居城としました。平田城址は、日本三大お家騒動のひとつである「黒田騒動」の立役者として有名な「栗山大膳(くりやまだいぜん)」が、10歳まで生まれ育ったことで知られています。現在、城跡には黒田時代の石垣の一部が残っています。 
車窓からの観光  白米城とよばれる城館跡
 平田城址と黒田騒動(中津市の紙芝居より)
 中津方面から国道212号線を山国川に沿って上り、耶馬溪町に入ってきますと、川向こうに耶馬溪には珍しい広々とした田園風景が開けて見えます。この辺りが文字どおりの“平田の里”です。 その平田集落の後ろに、横長の小高い丘が目に入ります。「平田バス停」近くの山国川に架かる五連アーチの「馬溪橋」を渡った、真正面の丘が「平田城址」です。  このお城は一般に平田城址といわれていますが「白米城(はくまいじょう)」と書いて「まったけ城」というのが本当です。これは城があった所の字名を、町丈(まったけ)というところから来たもののようですが、町丈が、山国谷では米の多く取れる土地であることから、白米と書いて「まったけ」と呼んだともいわれています。 この「白米城」の起こりは鎌倉時代に宇都宮一族の野仲重房により、長岩城の出城として築かれました。

この白米城で生まれたのがあの有名な黒田騒動で福岡藩52万石を救った栗山大膳で1600年に主君の黒田長政がお国替えにより小倉城へ、更に福岡城へと移る際、栗山利安も家老として従い、当時、10歳になっていた大膳も父につれられ移って行きました。

青の洞門
 トイレ休憩・買い物に寄ったレストランと青の洞門、向こう側の護岸は2年前の洪水の復旧作業中でした。そしていよいよ中津城へ。
 
中津城跡
豊臣秀吉による九州攻めの立役者・黒田官兵衛孝高が、中津12万石を拝領して、天正16年(1588)から築城。動乱期のため未完成となった。関ヶ原合戦の戦功で、黒田氏は筑前へ転封(筑前52万石)。その後、細川忠興が入って城を大改修する。細川氏はのちに小倉城を築いて移り、中津城は支城とされた。以後城主には、小笠原氏、奥平氏が入り明治維新に至っています。
現在、5重の模擬天守と模擬櫓が建てられています。これは1964年(昭和39)、旧藩主奥平家の子孫と市民の浄財で建造されました。

○地形が北より南方に扇状をなしているので、別名を扇城という。
○本丸石垣と内濠(薬研堀)は当時のままで水門より海水が入って潮の満干で濠の水が増減している水城。地形種類は平城。
○周防灘に臨む中津川の河口に築かれ、日本三水城の一つ。
「中津市の郷土史を語る会」が作成した絵図です。
現在の模擬天守は薬研堀(二ノ丸と書いてある文字の上)上に作られています。
本丸は高さの違う上段と下段に分かれています。
上段は神社の敷地になっています。
下段は図の松の御殿付近に中津神社があるだけで、広場になっています。
中津城跡の駐車場には松九会大分地区の塚﨑幹事が出迎えてくれました。
 
 中津川沿いから望む中津
 

黒田時代の石垣と細川時代の石垣
左側の石垣は、細川忠興(三斎)時代のもので、忠興自慢の石垣。両時代の石垣とも花崗岩が多く使われている。右側の石垣は、黒田孝高(如水)時代の本丸跡の石垣。左側の石垣は、細川忠興(三斎)時代のもので、忠興自慢の石垣。両時代の石垣とも花崗岩が多く使われています。

中津城の模擬天守と模擬櫓
遺構として、模擬天守の右側に、黒田本丸の石垣と細川時代の石垣及び薬研堀が残る。天守のない城であったが、現在は5重の模擬天守と模擬櫓が建てられています。1964年(昭和39)、旧藩主奥平家の子孫により建造されました。下の堀は薬研掘。
 
 中津城の模擬天守と模擬櫓   現在の天守閣からの展望・右端は求菩提山
 
  この集合写真はクリックすると拡大します
 二の丸跡(集合写真・撮影場所の横の公園)
この部分は現在、公園と裁判所になっていますがこの公園部分はかっての中津高女 現在の中津北高がありました。
何故私が写っているのか、今日の案内人の笠井さんと私はこの中津北高の同窓生で、昨年同窓生で寄贈したまなびやの碑・記念碑を案内してもらいました。私は高校1年生までは写真の左側の高校に通い(昭和34年)、2年生からは中津球場横の当時は新築の現在の北高に通いました。写真のように当然現在の天守閣はありませんでした。現在の天守閣は昭和39年、奥平家の子孫と市民の浄財で建てました。

ついでに私は小学校は福岡県豊前市三毛門小学校、中学は隣の築上郡吉富中学校、高校はさらに隣の大分県立中津北高とこの時代は越境入学が当たり前でしたので中津城・二の丸跡にあった高校には自転車で豊前市三毛門から山国川を渡って通いました。(福永攻治)
 1年間通った木造の校舎  二の丸跡公園に同窓生で設置したまなびやの碑
 
 
野田さんお勧めの中津市、栗山利安の末裔が営まれている和菓子屋・栗山堂のういろう饅頭。. 公衆便所の隣に、2013年12月に急遽 黒田官兵衛 みやげ館が建設されていました。しか今日はういろう饅頭は売り切れで官兵衛ブームについていけないようです。
城井ふるさと村(昼食)
今回の昼食は築上郡築上町にある城井ふる里村でした。玉子かけごはんは卵の殻は、とっても頑固でふつうの卵より力を入れて割らないと割れないそうで、卵黄は、着色料を一切使用せず卵本来の色です。また、お箸でつかめるくらい新鮮で、硬く盛り上がっていますとのことでしたが、ケーキはついているものの物足りない、高いと思ったのでは。ただ追加の玉子は35円でごはんのおかわりは無料ですので2・3杯食べるとお得かもです。
 
昼食後は山城の築上郡・城井ノ上城』(きいのこじょう)と行橋市・馬ケ岳城を歩きました。 
城井ノ上城山城
福岡県築上郡築上町『城井ノ上城』 (きいのこじょう)
官兵衛の最大の宿敵ともいえる宇都宮鎮房の山城。天然の要害を利用した山城で、表門は人ひとりがやっと通ることができるほど狭い。
城井谷城は、宇都宮氏が城井谷渓谷の奥に築いて代々居城した。建久七年(1196)、豊前国に地頭職を与えられて下野から宇都宮信房が下向。戦国時代、その子孫の鎮房のころ築かれた。豊臣秀吉の九州平定のとき、鎮房は秀吉軍として戦功をあげたが、四国への移封を拒否し、一時城を明け渡して他へ移った。その後、城井城代となっていた黒田氏の家臣を追い払って立て籠もった。秀吉は黒田長政らに攻撃させたが敗北する。そこで偽りの講和を結び、当主鎮房を謀殺してしまった。ついで長政は城井谷に攻めよせ、当主を失った城井谷城は落城した。孝高はこの勇将・城井鎮房を殺害したことを悔いて(中津城に城井鎮房の亡霊が出たためとも)、中津城に城井神社を創建し、その霊を祀ったそうです。

中津城址内にある城井神社
弓三丁の手前に立派な天守閣がありました。これは自衛隊員さん達が造った小天守だそうです。 奥に見えるは「弓三丁の岩」といい、弓の使い手が三人いれば、大軍を撃退できるそうです 
 巨石を利用した城井谷城表門
 城井ノ上城は、黒田官兵衛の豊前六郡入部時、最大の宿敵ともいえる宇都宮鎮房が構える天然の要害を利用した山城で、表門は、人ひとりがやっと通ることができるほど狭く、まさに“難攻不落の城”の山城でした。 
この難航不落の表門を登るため、歩こう会の青年隊がロープをかけてくれました。
 なんとこれが二の門のようです。これもなんと狭いことか。
城井ノ上城跡
この地方では今でも官兵衛は目の敵にされてるそうで、町の職は全て「宇都宮鎮房」一色。
今年の大河人気にあやかって鎮房さんが注目されているが
果たして『大河ドラマ』で鎮房さん登場するかどうか。
次にあえて野田さんが嫌う宇都宮鎮房の話しを。
宇都宮鎮房はこの天然の難攻不落の山城で攻め寄せる黒田兵を撃退したが黒田氏との和議を受け入れました。そして黒田長政の招きに応じ「中津城」へ出向きましたが待っていたのが黒田官兵衛の謀略。官兵衛は息子長政にこう言った・・・「来たら殺せ」と。一の太刀は母里太兵衛が付けたといいます。「合元寺」の家臣達も全員殺され、官兵衛と一揆鎮圧の為同行中であった嫡男の朝房も官兵衛により謀殺されました。官兵衛のダークな場面が垣間見えるお話です。 
 最後の訪問は馬ヶ岳周辺を歩きました。
馬ヶ岳城
豊前国京都(みやこ)郡(現福岡県行橋市津積馬ヶ岳)にあった山城。 
黒田官兵衛は、1586年に軍奉行として豊臣秀吉に先立って九州へ入り、豊前の諸城を攻め落とした。その戦功として九州で官兵衛が初めて(1587年)与えられたのが、馬ヶ岳城(福岡県行橋市)である。 翌1588年、官兵衛は三大水城の一つとして名高い中津城へ移ってしまうが、もともと馬ヶ岳城は942年の築城という説もあるほどの古城であり、南北朝時代には両勢力が支配をめぐって攻防戦を展開し、戦国時代には大内氏・大友氏の間でもたびたび戦闘が行われた、豊前攻略のための交通の要所である。 なお、黒田官兵衛は秀吉の命令で諸将が朝鮮へ攻め込むとき、佐賀県に築いた肥前名護屋城の縄張りを行っており、豊臣家の軍事面を支えていたが、同時に五奉行筆頭の石田三成とはソリが合わず、関ヶ原の戦いでも息子の黒田長政が東軍の徳川家康につき、大活躍をしている。このとき官兵衛自身が九州を制圧し、そこを拠点に天下を狙ったとされる説もあるが、真実は不明。 関ヶ原の同年、馬ヶ岳城は細川氏の預かりとなり、1615年、徳川幕府から元和の一国一城令が出されると取り壊された。
馬ヶ岳城は2つの峰があり、右の長い方が本丸で左側が二ノ丸です 
馬ヶ岳城は、比高180mの馬ヶ岳に築かれていて、今年は大河ドラマ・軍師官兵衛の関係で、馬ヶ岳城周囲にも「黒田官兵衛の居城 馬ヶ岳城」と書かれた幟がに立てられていました。
 
馬ヶ岳城の周囲(堀切・堀跡・土塁・横堀・畝状竪堀群)を歩く 
 
二ノ丸下側面部の通路にある堀切。  尾根側面部に掘られた横堀で外側の土塁は畝状阻塁です。
 
 馬ヶ岳城址周辺
物見台には太閤岩がありなぜか、官兵衛岩、又兵衛岩の案内も立てられています。 2郭内部で小規模な平坦地です。 本丸跡・1郭内部。大きな碑が建てられています。
 
帰りは道の駅(かわら)で休憩後、田川・八木山バイパスへ 
道の駅(かわら)で休憩  車窓から 筑豊のシンボル・田川の二本煙突 
 
帰りは道の駅(かわら)で休憩後、田川・八木山バイパスから福岡都市高速へ、天神には午後7時着でした。大宰府天満宮の御利益で一度も傘をささずに、京築・中津の黒田官兵衛を楽しみました。お疲れさまでした。次回は2回目の島巡り 相島を歩く です。