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【日時】
平成25年9月3日(火   志賀島旅客待合所集合  AM9:00集合
【参加人員】       23名
【コース】   志賀島旅客待合所~志賀海神社~志賀島旅客待合所~沖津宮~しかのしま資料館~蒙古塚~金印塚公園(解散)~志賀島旅客待合所(昼食)
平成14年の夏から始めました、「玄海島に浮かぶ11の島を歩くシリーズ」の2順目が始まりました。
今年は史跡が一杯の「志賀島」を歩きました。先ずは志賀海神社の本殿に参拝し 勝馬石積古墳の上にある中津宮に行き、海岸から150m沖合の沖津島にある沖津宮を遥拝し、古代より「海人の神」として崇められてきた、綿津見神(わたつみのかみ)3神3社参りを致しました。
その外「蒙古塚、国宝金印出土の地」を訪れ、昼食は8月から島内8軒の食道で始まった、(新金印カレー)をいただきました。
台風17号の影響で雨模様の一日でしたが、涼しく熱中症の心配も無く、元気に歩けた一日でした。 福永さんが撮ってくれた記念写真。11年前の写真と今回の写真を見比べても、 何ら遜色もなく皆さん元気に写っています。(野田弘信)
 写真撮影:福永攻治 笠井雅弘
志賀島旅客待合所
雨天決行でAM9:00には志賀島旅客待合所に集合。世話人の野田さんより本日のコース説明を受ける。 
   
ベイサイドプレス発の市営渡船利用の参加者と合流 福岡市博物館や鴻臚館跡展示館で販売されている金印スタンプ
   
小雨がぱらつく中、早速 志賀海神社へ
志賀海神社
志賀海神社は、志賀島の南東部に鎮座する神社で蒙古襲来の際には戦場となりますが、室町時代以降は、大内氏、小早川氏、黒田氏の保護を受けました。
志賀海神社は古来から玄海灘に臨む海上交通の要所である志賀島の総鎮守として鎮座し、海洋の神「底津綿津見神」「仲津綿津見神」「表津綿津見神」の三神を祀った神社です。底・仲・表は海の底、海の中、海の表の意味で、海にまつわる全ての事をお参りできる神社だという事です。
古くは志賀島の北側、勝馬地区に「沖津宮」「中津宮」「表津宮(うわつぐう)」があり、「表津宮」の移転後に志賀海神社が興ったそうです。沖津宮、中津宮は志賀海神社の摂社として今も勝馬地区に鎮座しています。「表津宮」は跡地は残っている様ですが、鳥居などは存在しない様です。
 
 志賀海神社の立派な楼門
 
参道の入り口には、お潮井が置いてあり砂で体を清めます。
参道沿いに万葉集に収められている「ちはやぶる鐘の岬を過ぎぬとも・・・」の万葉歌碑がありました。
石造宝筐印塔
(せきぞうほうきょういんとう)
 
 志賀海神社・本殿前ての集合写真 (この写真はクリックすると拡大します)
下の写真は第9回の歩こう会で同じく本殿前で撮影したものです。私の参加は第10回からですので何方が撮影したのか判りません。
第9回 歩こう会  【桜吹雪の「志賀島」を歩く】
【日 時】 平成14年4月2日
【参加者】 31名  【距離】 10Km
【コース】 志賀海神社~火炎塚~潮見展望台
        ~仲津古墳~歴史資料館~金印公園
        蒙古塚~志賀島渡船場

志賀島渡船場に総勢31名が集合、天気は快晴!志賀島神社参拝と宮司さんの歴史解説を拝聴し、海抜169mの潮見展望台から視界360度の玄海灘や博多湾を眺め、古代から鎌倉時代の遺跡を探訪し、そこに繰り広げられた数々の歴史ドラマに想いを馳せ、さわやか春風にうかれながら、全員一周10kmを楽しく歩きました。

志賀海神社参拝後、天気が悪いためコースを変更して 志賀島旅客待合所からは各自の車に便乗して休暇村志賀島の駐車場へ
休暇村志賀島の駐車場~中津宮~沖津宮~下馬ケ浜海水浴場~しかのしま資料館へ
標高20mの丘陵の古墳上に志賀海神社の中津宮がありました。
中津宮・・・・・中津錦津見神が祀られてます   沖津宮へ 
 
 下馬ケ浜海水浴場~沖津島を歩く
 
 沖津宮ではイザナギの禊祓で出生した底津綿津見神(そこつわたつみのかみ)が祀られています。
大潮の干潮の時だけ渡ることができますが今日はバックにしての集合写真です。
 
沖津島をバックに(この写真はクリックすると拡大します)
 美しい海岸は下馬ケ浜海水浴場で、この天候でもサーフィンに興じる若者でけっこう賑わっていました。
 
しかのしま資料館
しかのしま資料館は金印の模型をはじめとする考古資料を展示しており、展示テーマでは「志賀島の歴史」「無形文化財」「万葉集と志賀島」「元寇と志賀島」「志賀島の産業」に分かれ、農具や漁具などの民俗資料も陳列していました。 
 
しかのおしま資料館で見学後は金印公園へ
金印公園
金印公園
この地は後漢(現在の中国)の光武帝が奴国(現在の福岡市を中心とする地)の使者に授けたといわれる金印(国宝)が発見された場所としてわが国の歴史上、重要な地とされています。
印綬伝来から1900余年を経過したいま、この地に立って博多湾、玄界灘を望みながら遠く中国大陸と交流があった当時をしのべば、私たちの心に新たな感銘を呼びおこすでしょう。(福岡市)
「漢委奴国王金印発光之処」の石碑。
天明4年(1784年)に金印が発見されました
  公園には「金印」の拡大バージョンの碑がありました。
   
 古代地図の方位広場:対岸に見えるのは博多湾に浮かぶ能古島です
 

(金印についての記事)
天明4年(1784)2月23日、福岡の志賀島の畑の中から、全くの偶然によって金印が発掘されました。
この金印の発見者は農民の甚兵衛でなくて、地主さんの名前であることが分かりました。実際にこれを掘りだしたのは秀治と喜平というふたりの小作人であるとのこと。そして掘り出して、貴重なもののようなので地主さんに相談し、その甚兵衛さんのお兄さんが米屋で働いていて「米屋の旦那は学があるから何か分かるかも」とそこに持ち込み、その米屋の旦那が、亀井南冥と親交があったため亀井が鑑定することとなり、その鑑定で古代超一級の史料であることがわかったのです。

発見された時の様子ですが、金印の回りを石で囲ってあり、更にその上に大きな石を置いて、蓋をした形になっていたとのこと。この埋め方は、まるで何かひじょうに大事な建物(大規模な祈祷所か大王クラスの人の公邸)の結界を作るために、超貴重な宝物をそこに埋めたというもののようにみえます。
南冥は後漢書の記事として光武帝が倭国から来た使者に金印を授けたという記事があることからその印であろうと鑑定。そんなに貴重なものであれば、ということで金印は福岡藩が預かることにしました。
現在はこの金印は福岡市博物館に展示されています。また、金印の発見場所は現在「金印公園」として整備されています。また、福岡市博物館の売店にはこの金印のレプリカも販売しています。
さてこの印鑑は一辺2.3cmの四角形で重さ108.7gの純金製。印面は国委漢  (漢の字は縦に長い)王奴の5文字が彫られていて通常「漢の委(わ)の奴(な)の国の王」と読まれます。
当時福岡藩では「奴」とはけしからんからその文字は削ってしまえ、などというとんでもない主張もあったようですが、亀井南冥は「いやいや奴の字は『の』と読むのでこれは『かんのわのくにのおう』と読むのです」と詭弁を使い、金印を守ったという逸話が残っています。
この時代朝鮮でさえ銀印しかもらっていなかったのに、なぜ日本が金印を貰うことができたのかについては、謎のようです。

   
 
 11年前の第9回歩こう会は周囲10kmを歩いていましたが、今日は残念ながら悪天候のため、コースを変更して自家用車を利用した歩こう会となりました。しかし下馬ケ浜海水浴場や沖津宮、仲津宮を巡り、島の東海岸の景観を楽しむ事ができました。最後は金印公園で散会して志賀島旅客待合所にもどりそれぞれ昼食後帰路につきました。雨の中大変ご苦労様でした。