【日時】
平成25年2月5日(火)
【参加人員】       52名
【コース】   西鉄太宰府駅(10:00集合)~延寿王院~如水井戸~太宰府天満宮~平重盛の墓 ~浦之城跡~安行社~伝教大師像~宝満宮竃門神社~昼食~石村萬盛堂工場見学・休憩/試食~九州国立博物館(解散)
平成25年の新年にあたり、太宰府天満宮から竃門神社周辺を歩き、それぞれの「家内・強運祈願」と「孫・合格祈願」の「新春三社詣で」を行いました。西鉄太宰府駅に52名が集合。午前中は太宰府館でゆかりの人物「伝教大師・菅原道真・平重盛・足利尊氏 ・黒田如水」などについて事前勉強をし、太宰府天満宮→浦之城跡→安行社→宝満宮竃門神社と宝満山の麓まで歩きました。神社祈願後は周辺のそば屋・カレー屋などにておもいおもいの昼食です。午後は帰りのコース。 途中にある石村萬盛堂の工場見学(試食/お土産) →九州国立博物館に到着即解散。 待ちかねたように雨が降り出し、参加者全員さっそくの「道真公のおかげ」を受けさせていただきました。 本日の歩行距離6km。 (野田 弘信)
写真撮影:福永攻治
西鉄太宰府駅集合から太宰府館へ
延寿王院
慶応元年(1865)2月13日に、長州征伐の責任をとった勤王攘夷派の五卿たちが太宰府に流され、ここに入ったのです。
安楽寺天満宮留守別当大鳥居家の宿坊で、宝暦4年(1754)桃園天皇より院号を賜りました。現在、西高辻宮司邸であり、幕末、尊皇攘夷派の三条実美ら朝廷を追われた5人の公卿が滞在し、その間、西郷隆盛・高杉晋作・坂本龍馬ら大勢の勤皇の志士らが出入りするなど明治維新の策源地となりました。五卿たちが京に帰ることができたのは、慶応3年、12月19日。慶応2年6月に幕府が長州征伐に失敗し、同年12月に孝明天皇崩御。そこで征長軍が解散され、翌3年12月に五卿復宮の勅命が下ったそうです。 
 天神様の使いの「牛」、その向うに意匠の素晴らしい御門。この門の奥の建物は現在は天満宮宮司の西高辻さんのお家で、中に入ることはできません。
 
「五卿遺跡」という大きな石碑が見えます。約3年の間ここに滞在した五卿たちは、毎日交替で社殿に参詣、国体安全や攘夷遂行を祈願したそうです。  門の上の瓦、梅がシンボルの太宰府でピンクがなんともいいね
 
太宰府天満宮
由緒と歴史
学問の神様として菅原道真公を祀っており、受験合格や学業成就などを祈願する参拝客や韓国・中国のツアー客で1年中にぎわっています。「飛梅伝説」でも知られるように、境内には約6,000本もの梅が植わり、2月上旬から3月中旬になると、境内を艶やかに彩り、梅は「献梅」といって全国各地より天神さまに捧げられたもので、極早咲〜極遅咲まで約197種類もの品種があるとされています。
梅にちなんだ饅頭「梅ヶ枝餅」は有名な名物の甘味として知られており、参道を歩くと、数多くの露店がにぎやかに建ち並ぶ。このほかにも、縁起の良い「合格」の焼き印がついた「合格ちくわ」や、天神様に縁ある鳥「うそ」の木彫り人形を、紫蘇入りの牛皮の中に納めた「うその餅」、太宰府政庁跡より出土した「鬼瓦」を模した「鬼瓦もなか」など、由来ある縁起ものの土産ものが多く揃っています。
太宰府天満宮は、菅原道真が葬られた場所の上に建てられた神社。門弟の味酒安行が祠廟(しびょう)を創建し、続いて左大臣の藤原仲平が勅命によって社殿を建立したのが始まりです。以後、戦火によって幾度か建物が焼失しますが、菅原道真を祀る神社として保護され、現在は学問の神様となった菅原道真に「合格祈願」、と多くの人が訪れています。ちなみに、宮司の西高辻信良氏は菅原道真の子孫で主管の味酒安則氏は、前述の味酒安行の子孫だそうです。
                               本殿の前の楼門
1845年(弘化2)に、福岡藩士・平野国臣が、福岡藩普請方として、この楼門の修理に携わったそうです。
 
この4枚の写真は西鉄太宰府駅集合前の9時半頃に撮影したものです。 
太鼓橋と噴水   太宰府天満宮・御神木の飛梅 
 
志賀社 【国重要文化財】 
1458(長禄2)年築。和、唐、天竺の三様式を持って構成された建物で、当初は黒漆と金製品をふんだんに使った美術工芸的な建築だったそうです。 
 如水井戸
太宰府天満宮の菖蒲池の近くに黒田如水の井戸がありました。福岡の藩主だった黒田孝高(出家後は如水)は、福岡城を建設中に大宰府に移り草庵を建て2年間隠居生活をしましたが、その時に使っていた井戸がこの井戸だそうです。
黒田如水(孝高)は太宰府天満宮がお気に入りだったようで小早川秀秋が筑前にいた頃に太宰府天満宮の社領を減らしましたが、如水は逆に増やしたそうです。
 
 
 
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 太宰府市連歌屋にある【平重盛の墓】
平(小松)重盛の墓と伝える祠。祠には揚羽蝶の平氏の紋があり、「小松内大臣平重盛之墓・正安二年(1300)」と刻まれています。以前は、谷であった場所の西側崖中腹にあった大きな松の木のそばにあったそうです。平重盛(1138~1179)は、平清盛(1118~1181)の嫡男です。NHK大河ドラマ『平清盛』5月27日(日)に放送されたドラマの中では、保元の乱(1156年)で初陣を果たす、重盛の姿が映し出されていました。“大宰府”は、その当時、日宋貿易を管轄しており、清盛は、1158年に、大宰府の実質的な長官である太宰大弐に就任、1166年には、清盛の弟・頼盛が同職に任ぜられるなど、平家とも縁のある地でした。
1167年に清盛は重盛に家督を継ぎますが、重盛は、1179年、父・清盛より早く亡くなり、京に埋葬されました。その後、1183年、平家が滅亡に至った治承・寿永の乱の際、平氏が戦況不利により京を離れる際に、家臣であった平貞能(さだよし)は重盛の墓を掘り起こし、遺骨を持って京を退去したのです。平貞能は、筑前守・肥後守を歴任するなど九州との地縁もあり、重盛の遺骨を、太宰府に埋葬したのではないかと言われているそうです。
 浦之城跡
鎌倉時代の1282(弘安5)年、筑前国守護の少弐経資の居城として築かれた。城の構えの詳細はわからないが、昭和44年の開発に伴う発掘調査で、御笠川とコの字形の急峻な斜面をもつ丘陵とを巧みに利用して造られていたことが判明した。小弐氏の六代頼尚は足利尊氏を助けて、浦ノ城北側の原山の一坊に尊氏を迎えて別名を大宰府城ともいいます。
 安行社
太宰府天満宮のそばにある、この神社の祭神は景徳大明神、俗名は味酒安行(うまさけやすゆき)という、もともと菅原道真の門人だった方がお祀りされています。安行氏は太宰府権帥に左遷された道真公に随行し、太宰府へやってきました。道真公が延喜三年(903)2月25日に亡くなったあと、「遺体を京都に送ってはならぬ」という遺言を守るため、どこに埋葬するか考えた結果、宝満山の麓に埋葬するよう予定していたそうです。 道真公の遺骸を乗せた牛車が南館から出発し、ゆっくりと宝満山に向かっていたところ、突然牛車が動かなくなってしまいました。安行氏は、牛が神託を告げているように思い、牛が止まった地点を道真公の墓所、安楽寺とし、自身はその墓守となります。安行氏は神託に応じて御殿を建て、安楽寺天満宮として発展してきた場所が、現在の太宰府天満宮です。安行氏は100歳を超える長寿だったそうで、晩年墓守として仕えたそうです。太宰府にはこのような興味深い伝説が多く残っているそうです。
 
 本日の歩こう会最大の難所 宝満宮竃門神社へ
 
 
宝満山 天台宗 妙香庵(最澄の銅像)
最澄の銅像は薬師如来・如意輪観世音菩薩で5メートルもある大きな像でした。
天台宗妙香庵の境内にある昭和六十二年に建立された銅像で玄界灘の向こうの中国の方角を向いて立っています。
宝満山の麓のこの地は最澄が遣唐船を待ったところ。延暦22年(803)、難波津から唐に向けで出航した船は瀬戸内で暴風雨に合って難破。その後、1年を竈門山寺などで過ごしたそうです。この像はそのころ、最澄が30代のときの姿ということ。804年、最澄は唐に渡り天台山で天台教学を学び、805年に帰国。そのとき最澄が到着したのは花鶴ヶ浜(古賀市)。最澄は帰国後の布教の拠点となる場所を探すため、持っていた独鈷と鏡を空へと投じました。二神山(立花山)の山中でこの二品を探し求めていたところ、地元の猟師と源四郎と出会います。源四郎は最澄を独鈷の元へと導きます。
最澄は布教のため源四郎の家にしばらく滞在。上洛する際、最澄は滞在のお礼に岩井の水(井戸)と唐から持ち帰った法火と毘沙門天像を源四郎に授けました。 この源四郎の家は千年家として現在も残っています。そして「法火」は今でもかまどの火種として燃え続けているのです。
(横大路家) 千年家伝承の炉火が宝満山・妙香庵へ

横大路家住宅(千年家)の概要
17世紀中期に建築されたといわれ、九州で最も古い民家として、昭和52年に国の重要文化財。 福岡県・新宮町大字上府字岩井に、 「曲り屋」と呼ばれるL字型に折れ曲る形の建物で、屋根は全て「茅」で葺かれている。ーーーこれは、僧 最澄(伝教大師)にまつわる伝説があり、これは 千二百年前に、唐から帰朝したおり上陸した海岸近くの民家( 横大路家 ・現、福岡県新宮町) に一時寄宿し上京の時、お礼として 「横大路」の姓と 「毘沙門天の像」「法理の火」「岩井の水」を贈られたもので、 これらを大事に守れば子孫が栄え家が絶えることはないと言われた。そして その家系は 千年も続いているという意味で「千年家」と呼ばれてきた。 しかし、第44代当主まて゛で、守ることが困難となり、新たに ここ宝満山麓に立つ伝教大師像 (妙香庵) の宝前で、「蓮華のともし火」として 守られていくことになったそうです。

 
宝満宮・竃門神社
霊峰 宝満山の麓にご鎮座する竈門神社。若い女性を中心に「縁結び(良縁)の神様」と親しまれ、また「厄除け(やくよけ)・方除け(ほうよけ)の神様」と信仰が厚く、春のお花見や秋の紅葉はもちろん、宝満山の登山者で一年中にぎわいます。
由緒
宝満山(869M)を上宮とし、麓に外宮が鎮座。明治までは中腹に山伏修行の中心地として中宮が栄えていたが、明治以降に廃絶。福岡県内に広く分布する宝満信仰の中心地であり、「宝満さま」として親しまれています。 
 綺麗になった新装の社務所
 
 
社務所裏展望所より太宰府の街並み  
 
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石村萬盛堂工場見学・休憩/試食
 最後は休憩と待望のお菓子の試食です。工場価格で沢山のお土産を購入。
 九州国立博物館へ
 
 
 九州国立博物館で解散
予定の歩こう会6kmの最終は九州国立博物館でした。
ここで世話人の野田さんより歩こう会世話人の交代の紹介がありました。 歩こう会は2000年10月3日に第1回をスタートし、本年で丸12年経過しました。
第1回からお世話いただいた菊竹宏明さん、宮脇彪さんのお二人が交代されます。本年4月(次回歩こう会)からは羽野保行、林田良一のお二人が世話人として活躍されます。皆さんのご協力をよろしくお願い致します。