【日時】
平成24年12月4日(火)
【参加人員】    37名
【コース】   早良市民センター(13:00集合)~猿田彦神社~紅葉八幡宮~高取商店街~西新中央商店街~金龍禅寺~鳥飼八幡宮~成道寺~唐人町商店街~円応寺~福岡城むかし歴史館~上之橋御門~肥前堀跡~アクロス地下2F(忘年会)

12月3日福岡市早良区市民センターに37名が集合!今回は三部構成で実施しました。
【一部】   紅葉八幡宮・平山宮司より「正式参拝と十表祓い」を受け、松九会と歩こう会の未来永劫の発展を祈願していただきました。
【二部】   江戸時代、福岡城下を通過していた「唐津街道」沿道にある、歴史的に有名な七社寺を参拝しながら、藤崎~天神までの一里を事故もなく元気に歩きました。
【三部】   天神アクロス地下の「中華料理店」にて参加者お互いの、無事だった一年間を讃え合いながら来年以降、ますますの健勝を誓い合う「忘年会」となりました。  (野田 弘信)

写真撮影:福永攻治
福岡市地下鉄・藤崎駅の2F図書館入口に13:00集合 、世話人の野田さんよりコース説明後、早速 紅葉八幡宮・唐津街道で天神に向かいました。
本日の福岡城下の寺社仏閣を巡るコースは、『まちづくり・まち歩きの活発化』として現在福岡市が進めています。折しも福岡城の創建者・黒田如水公が再来年のNHK大河ドラマの主人公に決定し、全国区的な筑前の国・福岡がクローズアップされています。今回はその唐津街道を歩き、周辺の神社仏閣を訪れながら忘年会の会場アクロスまで6km?を歩きました。
早良市民センター
猿田彦神社(さるたひこじんじゃ)
猿田彦様を祀る藤崎の猿田彦神社
猿田彦とは天孫降臨の際、邇邇芸尊(ににぎのみこと)を道案内をした神様で道の神、旅人の神、道案内の神様として有名でそのお姿が鼻は八咫、背長は七尺、というところから天狗様の原型になったとも言われているそうです。
 
 市営地下鉄空港線藤崎駅、早良区役所の直ぐ前の道路に面してひっそりと鎮座していました。鳥居の前では可愛いお猿さんがお出迎え。中に入るとここにも、あっちにもお猿さんがいました。
地下鉄「藤崎」駅から明治通りを「西新」駅方面に向かうと、大きな石の鳥居があります。
福岡藩主 黒田家の信仰が篤かった早良の総鎮守で福岡市早良区高取の神社 の紅葉神社へ向かいました。
紅葉八幡宮
筑前三代藩主・黒田光之が早良郡橋本村にあった小さな社を西新の地に移したもので、藤崎商店街から南へ少し入った所にあります。西新の町はこの神社を中心に発展したとされ大正4年(1915)、現在地の高取1丁目に移転。その名の通り境内にはモミジの木が多く、境内地の内、2000余坪を紅葉山公園としています。
紅葉八幡宮(旧県社)の由緒と歴史
紅葉八幡宮は文明十四年七月(室町時代1482)筑前の国、橋本村に柴田蔵人佐繁信により建立せられました。蔵人は陸奥の國刈田郡柴田村の者にして、当地に来往し、その産土神をお祀りしました。以来、橋本村一円の氏神様として崇敬されてきました。江戸時代になり黒田藩三代目藩主光之侯がご幼少の頃、生母の里橋本村に養育されました。光之侯は、黒田騒動より八幡宮の氏子がお守りしたこともあり氏神様として崇敬が篤く、藩主となりますようにと祈願され、以後黒田家、黒田藩守護神として御参拝が慣例となっておりました。(HPより)
氏子総代の藤井さんの名前がありました。 鳥居をくぐり、石段を上ると見事な紅葉でした
神門の正面に拝殿。
 
紅葉八幡宮・平山宮司より「正式参拝と十表祓い」を受け、松九会と歩こう会の未来永劫の発展を祈願しました。
 拝殿で全員のお祓いをしていただき、氏子総代の藤井哲夫さん、歩こう会の世話人が代表で玉串奉奠をささげました。
 
 
神主さんと集合写真 
この写真はクリックすると拡大します。 
唐津街道:高取商店街~西新中央商店街を歩く
 金龍禅寺
金龍寺は曹洞宗の禅寺で、境内に「東洋のアリストテレス」と讃えられる近代の天才学者・貝原益軒(かいばらえきけん)の墓と座像がありました。
益軒は読書家で非常に博識であり、書物だけにとらわれずに自分の足で歩き、目や耳で感じ、手で触り、口にすることで確かめることを主義主張としました。「養生訓」など多くの著作も残しています。
また、戯曲「俊寛」で有名な劇作家・倉田百三(ひゃくぞう)が執筆活動をした場所としても有名であり、境内には彼の歌碑が建っていました。
 
鳥飼八幡宮
古来より地域住民の生活と深く結びついてきた八幡信仰。その昔、神功皇后が新羅からの帰途、鳥飼村で胎内の皇子(後の応神天皇)の将来を祈念して杯を振る舞い、後に村がその地に社を建てたのが鳥飼八幡宮の始まりといわれています。
福岡藩初代藩主・黒田長政が現在地に移転しました。子どもの健やかな成長を助ける子安の御利益があるとされています。
境内に生える樹齢を重ねた20本の保存樹の緑陰はボーイスカウトの活動拠点として、「振武館」は青少年武道の鍛錬の場として広く開放されています。
 
 
成道寺(じょうどうじ)
寺は武蔵国出身の呑益(どんえき)上人によって元和二年(1616)に今とは別の場所に創建されたが、寛永十八年(1641)に現在の場所に移され、それから三回ほど改築を行いました。
山門をくぐると、長い参道が本堂までまっすぐにのび、左手に「八兵衛地蔵尊」というお地蔵さまがありました。
「八兵衛地蔵尊」
元禄時代、ある町で火事が起こり唐人町と須崎町の火消したちの間で火事場の争いから喧嘩が始まり、須崎町に数人の死者が出てしまいました。唐人町からは、下手人を奉行所に差し出さなければならなくなりました。
この話を成道寺の近くに住んでいた肥後の浪人、森八兵衛が聞きました。八兵衛は以前、大病を患い、隣人に手厚い看護を受けて九死に一生を得たことを非常に感謝しており、「父母妻子のある若い命が失われるのは悲しいこと。独り身の私がこの罪を受けましょう」と自ら身代わりとして申し出ました
両町とも切羽詰まった状況だったことと、八兵衛の意志が強かったことなどから八兵衛に刑が執行されました。
町の人々はその犠牲心を尊び、その供養のために建てたのが八兵衛地蔵です。今日では消防の守り地蔵と崇められ、毎年8月23日の施餓鬼会(せがきえ)には各町から多くの消防団が纏(まとい)を持って参詣に訪れます。
ちなみに成道寺は大相撲九州場所の高砂部屋の宿舎になっていて、朝稽古などが見学できるそうです。
 
 
 唐人町にあった甘棠館
福岡藩藩校・西学問所甘棠館(かんとうかん)も、東学問所修猷館と同じ天明4年(1784年)に開校しました。初代館長は、有名な亀井南冥です。当時、南冥の屋敷があった唐人町に開設されました。現在、唐人町商店街より1つ北の通りに「甘棠館跡地」の石碑があります。南冥の高名により、聴講生は学館に溢れていたといわれています。
甘棠館では主に徂徠(そらい)学が講じられました。ほかにも「独看」という、生徒自身による自主・自発の学習を重んじる科目がありました。この甘棠館からも多くの俊才が出ました。 
 
唐津街道の唐人町商店街
 
 
   
 
 円応寺
浄土宗圓應寺は慶長7年16024月、黒田如水公の婦人照福院殿が創立しました。
当時は
照福山顕光院と号し、京都知恩院に属します。 開基は天蓮社眞譽上人見道和尚です。
右の写真は黒田如水公の婦人照福院殿の記念碑で実際のお墓は不明だそうです。
 
福岡城むかし歴史館~上之橋御門 
茶色の壁に黒い屋根の不思議な施設は今年4月にできたばかりでまだまだ認知度は低い福岡城むかし歴史館に寄りました。 
内部は、床面が古地図となっていて、センターには、「しんわ」のロビーにあった福岡城(舞鶴城)の復元模型が展示されていました。福岡城の周辺が良く解かるようになっていました。
 
 
 
 
 
肥前堀跡~天神~福岡市役所
天神西通りから薬院新川にかけてあった堀で現在は埋め立てられていて肥前佐賀藩のお手伝いで作られたといわれています。
 
 
天神岩田屋横 福岡市・市役所
 
 アクロス地下2F(忘年会)
 恒例の歩こう会忘年会会場はアクロス地下2Fで食べ放題・飲み放題のバイキングでした。松九会・峰会長の音頭で始り、おいしい料理と飲み放題のお酒で楽しく、親睦を図り、最後は恒例の祝いめでた・博多締めで閉会となりました。次回歩こう会は2013年2月5日(火) 大宰府天満宮参拝と周辺史跡巡りです。