【日時】
平成24年2月7日(火)
【参加人員】    47名
【コース】   よみうりプラザ~福岡城跡堀石垣~上の橋大手門~鹿鳴館跡~東門跡~名島門~長屋門~伝潮見櫓/下の橋御門~~福岡城模型~飯田屋敷~母里屋敷跡~赤銅御殿跡~枡形門跡~赤煉瓦文化館~水鏡天満宮
今!NHKテレビでは、タモリ&久保田アナの江戸城下町探訪の「ブラタモリ」が人気です。 私たち歩こう会でも「ブラ・フクオカ」と銘打ち、福岡藩黒田52万石の歴史を色濃く残し、現在の地名の由来となっている、福岡城三の丸及び城下町大手門~赤坂門~大名町~天神町(水鏡天満宮が起源)界隈を探訪しました。 民謡「黒田武士」で有名な「母里太兵衛」のご子孫に当たり、24代目当主母里市兵衛忠一様のご案内で、江戸初期福岡藩創始者黒田如水長政親子と共に数々の戦いで活躍した、後藤又兵衛・栗山備後・井上周防など「黒田24騎」といわれる武将の屋敷跡を訪れました。 また、明治以降では炭鉱王伊藤伝右衛門の銅御殿(あかがねごてん)跡や辰野金吾設計の赤煉瓦文化館(JR東京駅舎より古い)など福岡市発展の歴史を物語る建造物も見学しました。 折からの寒波襲来で寒い一日でしたが、全コース4kmを元気に歩きました。
参加人員47名   (野田 弘信)
写真撮影:福永攻治、笠井雅弘
今回の歩こう会は心配した雨も上がり、12:30に読売新聞西部本社に47名が集合しました。
今日は昨年の福岡地区合同記念式典で福岡藩傳柳生新影流「四方払い」をお願いしました母里市兵衛忠一 様に講演と本日のコースガイドをお願いしました。
よみうりプラザ
 
 福岡城跡堀石垣(毎週土曜日に公開)
明治通りの赤坂交差点から西へ2分ほど歩いたところに、福岡城外堀の石垣が保存され、毎週土曜日の午前10時から午後5時まで見学することができます。
福岡城は、関ヶ原の戦功によって筑前52万石を拝領した福岡藩初代藩主・黒田長政が、慶長6年(1601年)から7年の歳月をかけて築城したもので「福岡城」の名は、黒田家の出身地が備前国邑久(おく)郡の福岡(現在の岡山県)であったことに由来します。
この石垣は、明治43年に市内電車を通した際に埋められましたが、昭和53年の地下鉄工事のときに発見され、保存されたものです。このほかにも、旧平和台球場入り口にも保存されています

水中に沈んでいた石垣なので、自然石がそのままの形で積まれています。残された石垣はわずかですが、時代の推移に従って石垣の積み替えが行われたことが分かります。また、これらの石の材質は玄武岩で、西区宮の浦の唐泊地区から取り寄せたものだそうです。
また、石垣の真ん中より少し下の方が茶色くなっていますが、そこが以前のお堀の水面だったとのこと。お堀の深さは3m程あったそうです。
 
 
 
上の橋(かみのはし)大手門
福岡城の三の丸へ入る門は三つ存在しています。その中でも最も格式が高く、従来の出入り口として使用されなかった上の橋大手門。
福岡西方沖地震で石垣が孕みを起こし、長らく立ち入り禁止となっていましたが、下の橋大手門と合わせて再整備されることになりました。
上の橋大手門は部材こそ残っていませんが、明治期の古写真が残っており、下の橋大手門と同様の構造であったことが推定されています。下の橋大手門と比べて整備は遅れていますが、下の橋大手門と同様に復元される事を願うばかりです
 
江戸に近い、上の橋大手門は、黒田五十二万石を誇る本城三の丸に入る公式御門。「虎口構え」の高さ約10mに及ぶ石垣に守られた、二層の楼門は戦災で消失。現在は、算木積みの稜線の美しい石垣が、当時の面影を残している。昔は、石組み橋ゲタの中央に木橋が架けられ、敵が攻めて来た時には、自ら橋を焼き落とす仕掛けとなっていた。城側橋ゲタには、城内排水の仕組みがあったそうです。 
 
     
東門跡 
名島門なじまもん
福岡市指定文化財(建造物)昭和53年3月30日指定
この門は、天正15年(1587)小早川隆景が多々良川口の名島の陵端に築いた名島城の脇門で、慶長年間(1596~1614)黒田長政が居城を名島城から福岡城に移すとき、黒田24騎の一人である林掃部にさげ渡され、邸宅の門として使用されていたもので、「名島ひけ」と呼ばれた名島城の数少ない遺構の一つです。
明治の中ごろ、長崎に移築されそうになったのを、当時の代議士平岡浩太郎氏によって買い戻され、天神の自宅の門として使用されていましたが、戦後富士ビルの建設に伴い、平岡浩氏(浩太郎氏の孫)によって1961年(昭和36)現在地に移されたものです。
昭和63年2月福岡市教育委員会 
黒田長政が最初に入城した名島城にあった名島門を移築 
 
 
 旧母里太兵衛邸長屋門
移築復元された海鼠壁の武家屋敷門。母里太兵衛(もりたへえ)は黒田家の重臣「黒田二十四騎」のひとり。 
 
 
下の橋御門(しものはしごもん)  伝潮見櫓
(県指定文化財 昭和31年4月3日指定)
福岡城は、福岡藩初代藩主黒田長政によって、慶長6年(1601)から7年をかけて築かれました。
城内への門は、堀に架かる3つの橋、上之橋かみのはし・下之橋しものはし・追廻橋おいまわしばしにそれぞれあり、このうち下之橋を渡って入る門がここ下之橋御門(下の橋大手門)です。
現在の門は、文化2年(1805)に建てられましたが、明治時代に上層部を失い、長く一層のままでした。
平成12年(2000)に不審火によって被災したため、復旧に向けた調査研究を行い、同20年に二層櫓門にそうやぐらもんとして復原しました。門の上層部は、部材に残る痕跡・発掘調査成果・絵図・文献史料などにより、その規模、北側の下屋げやの様子、柱の立つ位置、外壁の漆喰壁しっくいかべなどが明らかになりました。
また直接の資料を欠く部分は、上之橋御門(上の橋大手門)の古写真や本丸表御門(現・崇福寺山門)などを参考にしました。
この復原は専門家で構成する「福岡城跡建造物等復原整備検討委員会」」で検討されたものです。
これとは異なった復原案も提案されましたが、現段階でより蓋然性が高いと判断された本案を採用しました。
平成20年11月 福岡市教育委員会

伝潮見櫓は、2層2階の湾内監視用の櫓。1956年(昭和31)、移築されていた旧黒田公別邸から戻され、現地に再建された。しかし、近年の調査で、潮見櫓ではないと言われているようです。 

 
 
  (この集合写真はクリックすると拡大します)
 
博多人形・黒田24騎
民謡「黒田節」に歌われる母里(毛利)太兵衛ら黒田藩の重臣団を「黒田24騎」といい、福岡城築城から400年を記念して「黒田24騎」を博多人形作家協会人形師が制作。人形師の中には24騎の母里太兵衛や桐山丹波の子孫もいるという。
福岡銀行の関連施設に展示していました。  こちらは博多人形師が作った母里太衛兵像。 
 
 
福岡城模型見学
福岡城の全体模型が、大手門一丁目にある新日本製薬オフィスタワーの1階ロビーに展示されています。
縮尺は400分の1。現存する櫓(やぐら)や堅牢な石垣などの遺構が、膨大な絵図や史実を基に精巧な姿で再現されています。
周囲4.7キロメートルに及ぶ広大な堀に包まれた城郭には本丸、幻の天守閣、家老屋敷が立ち並びます。
天守閣の存在について従来の通説では、正保3年(1646年)に作成された福岡城を描いた最古の絵図『福博惣絵図』には天守閣は存在していないため、天守閣はなかったといわれていた。しかし、近年、「長政が幕府に配慮し天守閣を取り壊すと語った」と書かれてあり、元和6年(1620年)に豊前国小倉藩主・細川忠興が嫡子忠利に宛てた天守閣の存在を伺わせる書状が発見された。この頃、大坂の役が終わり江戸期大坂城が築城の最中にあった。天下普請であり、諸大名が築城に駆り出され黒田氏も例外ではなく、特に豊臣氏恩顧の大名である為に幕府の監視の目が強かった。故に、天守閣を解体し大坂城築城の資材に回し、幕府の信任を得ようとしたと言う説も浮上しているそうです。
(福岡城)
1、城域が広い(総面積80万m
 福岡ドームの21個分で姫路城や大阪城よりも大きい。
2、福岡城を海側から見ると東西に広がる城の形が鶴が翼を広げ舞っているに見える事から別名【舞鶴城】と呼ばれました。
母里太兵衛屋敷跡
「母里太兵衛屋敷跡は天神の福岡天神センタービル、野村証券福岡支店のお店の前にあります。斜め向かいに「西鉄グランドホテル」があります。
 
伊藤家の別邸・赤銅御殿と柳原白蓮
 飯塚市に生まれた伊藤伝右衛門(でんえもん)は、一介の炭鉱労働者から身を興し、炭鉱経営に成功した立志伝中の人物で第十七銀行(後の福岡銀行)頭取、博多ガス社長、衆議院議員なども務めました。一方の柳原白蓮(びゃくれん)は、伯爵・柳原前光(さきみつ)の次女として明治18年(1885年)に生まれ、14歳で北小路資武(すけたけ)と結婚。15歳で長男を出産するも離婚し、明治44年(1911年)、伝右衛門と再婚しました。生まれも育ちも、世の中の価値観も全く違い、年齢差は25歳。うまくいく訳がなく、白蓮は贅沢な生活を送っていましたが、悶々とした心境だったのでしょう。
伊藤伝右衛門(でんえもん)は天神町にあった伊藤家の別邸・赤銅御殿(あかがねごてん)を白蓮のために大改装していました。屋根をすべて銅でふいた豪壮な建物でしたが、完成したのは離婚劇以後のことで、白蓮はこの豪邸に住むことはありませんでした。
残念ながらこの豪邸も、昭和2年(1927年)、漏電のために全焼しました。現在、天神にある伊藤ビル敷地北側に赤銅御殿名残の赤レンガ塀が残っていて、昭和通りに面するカフェの裏に、その一部を見ることができます。
 赤煉瓦文化館
『昭和41年まで日本生命保険相互会社福岡支店として使用された本建物は、明治末期の本格煉瓦建築として 価値が高く、昭和47年3月に重要文化財に指定された。同年12月福岡市が買収して、同47年に福岡市歴史資料館 として活用するための改修工事が行われ、戦時中の供出、戦後の改造による部分の復旧が行われた。
平成2年に市博物館の新設にともない、福岡市赤煉瓦文化館として整備されて、集会・催事の施設として 保存・活用されることになり、内部の塗装、玄関のリベット打双折戸、鉄製外柵等の整備が行われた。』(展示パネルより引用)
竣工:明治42年(1909).2 構造:煉瓦造 階高:地上2階地下1階、塔屋 敷地面積:597.85 建築面積:281.8
 
 
 水鏡天満宮
九州最大の繁華街「天神」の地名は、天神様を祀るこの神社に由来。建ち並ぶオフィスビルの谷間にひっそりと建つ水鏡天満宮は、天神様こと学問の神様・菅原道真を祀っています。
大宰府に左遷された菅原道真が、憔悴した自分の姿を川面に映したことからこの名がついたと言われ当初は今泉にあったものを、江戸時代初期に初代福岡藩主・黒田長政が、福岡城の鬼門にあたる現在地に東の鎮守として移したそうです。
 
  (この集合写真はクリックすると拡大します)
予定より早く、水鏡天満宮に到着しました。本日のガイド役の母里さん(68才)は、大変元気で足も早く、歩こう会より走ろう会のような半日でした。お陰様で寒い中いい運動になり大変お世話になりました。
次回の歩こう会は
第68回JR久留米駅~長門石~千栗堤防を歩く
(梅林寺、水天宮、千栗神社)
     実施日:4月3日(火曜日)