【日時】
平成23年10月4日(火)
【参加人員】    57名
【コース】   壱岐神社~生の松原~元寇防塁~博多織工芸館見学~小戸大神宮~小戸公園~元寇防塁~丸隅山~旦過だるま堂~旧渡船場跡~ダイエーマリナタウン店(昼食)~愛宕神社~旧唐津街道姪浜宿~亀井 南冥(かめい なんめい)生誕地~住吉神社~興徳寺 ~JR姪浜駅

私たちが若い頃、九松の横の国鉄蓑島駅からSLに乗って行った姪浜駅。古くて狭い路地をしばらく歩くと、長柄川口に能古島行渡船場や魚市場がありました。 早良炭坑も元気で二つのボタ山が高くそびえていました。あれから50年!今どのように変わったのか?「西区歴史よかとこ案内人」の方の案内で、JR下山門駅→生の松原→小戸ヨットハーバー→ダイエーマリナタウン→愛宕神社(標高60m)→旧唐津街道姪浜宿→JR姪浜駅まで元気に歩きました。その中で驚いたことには、私たちが神社や地鎮祭などで聞き慣れている、神主が奏上する祝詞(のりと)のルーツがここ福岡市西区であったことです。後学のため敢えて紹介します。 「掛(か)けまくも畏(かしこ)き…筑紫の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小戸(おど)の阿波岐原(あはぎはら)に御禊祓(みそぎはら)へ給(たま)ひし時(とき)に……恐(かしこ)み恐(かしこ)みも白(まを)す」参加人員57名 歩行距離7km。  (野田 弘信)

写真撮影:福永攻治、笠井雅弘
今回の歩こう会も秋風が心地よく晴天に恵まれた絶好の歩こう会になりました。午前9時半にJR下山門駅に集合して、早速、西に300mの距離の壱岐神社へ。壱岐神社では今日の歩こう会のカイドをお願いした西区・歴史よかとこ案内人の方からコースの説明がありました。
壱岐神社
壱岐神社は壱岐直真根子(いきのあたいまねこ)を祀っています。。
『日本書紀』によれば、武内宿称(大和朝廷の初期に活躍したという伝承上の人物で大臣などをつとめる)は、都を留守にしている間に反乱の罪を着せられました。壱岐直真根子は武内宿称を助けるため、身代わりとなって亡くなりました。やがて無実であることがわかりましたが、壱岐直真根子が自分の命を犠牲にしてまで武内宿称につくしたことから、ここに祭神としてまつられました。
生の松原の地名は、神功皇后が松の枝を逆さにさして戦勝を祈ったところ、松の枝が根つき、生き返ったという逆松(さかさまつ)の伝説にちなんで名付けられたと言われています。
   
生の松原
生の松原の松林の中を海岸の砂浜まで一直線に参道が続いていました。 
 今津湾に面した元寇の防塁跡の残る生の松原   海岸の砂浜に鳥居がご鎮座
 元寇防塁
1933年に国の史跡に指定。「元寇防塁」は中山平次郎の命名で、石築地(いしついじ)が本来の呼び名だそうです。
鎌倉時代,元が1274年に来襲した文永の役の後,再度の来週に備えて,博多湾に沿った約20キロメートルの海岸に築かれた石築地が元寇防塁です。この防塁のお陰で2度目の蒙古襲来時(弘安の役1281年)には上陸を防いだ貴重な防衛施設で元寇絵巻(蒙古襲来絵詞)には,肥後の国の御家人竹崎季長の活躍の中で生の松原元寇防塁の様子が描かれています。
 
 『文永の役』で矢が飛び交い、鉄砲が炸裂する中をモンゴル帝国連合軍へ斬り込んでいく竹崎季長と応戦・逃亡する蒙古兵
(蒙古襲来絵詞)
 
博多織工芸館見学
博多織工芸館は、博多織元株式会社サヌイ織物が本社ビル内に開いた業界最大の展示・販売・見学施設だそうです。博多織の歴史は760年と言われます。当工芸館は西日本で唯一織物の組織(ジャガード織)で絵柄を表した博多織を一同に見ることができます。展示場での説明や工場見学で博多織に関しての知識や歴史を学ぶことができました。
 
戦時中は落下傘のベルトや特攻隊の制服の生地を作ったそうです。 博多織の本格的な工場見学は初めてでした。 
 
小戸公園     
秋風が心地よい美しい海岸線を歩く。 
 
 小戸大神宮
小戸公園の中にある神社。日本書紀や古事記に記されている『筑紫の日向の橘の小戸のアワギ原』の「小戸」とは福岡市西区の小戸であるとの説があり,住吉神,志賀神,警固神をはじめとしたたくさんの神々や,アマテラスオオミカミ(天照皇大神),ツクヨミノミコト(月読命),スサノオノミコト(素戔鳴命)などの三貴神が誕生した聖地とも言い伝えられています。神功皇后の伝説にまつわる「安産石」がありました。
元寇防塁
 
 
 
旦過だるま堂
興徳寺の旦過寮(旅の僧を宿泊させてもてなしたところ)跡で,中国の禅宗の開祖,達磨大師を祀っています。
市指定文化財の銅造塔婆型厨子や室町時代姪浜石で造立した五重石塔がありました。
 
姪浜・魚市場前 
 昼食・休憩後 本日の山場 愛宕神社へ向かう。後ろに福岡タワーが見えます。
 
愛宕神社の駐車場からの景色
 
「愛宕神社」
愛宕山は昔,鷲尾山といわれ,鷲尾権現がまつられています。寛永11年(1634年)筑前国二代目藩主黒田忠之が京都の愛宕権現をむかえたのが愛宕神社の始まりといわれてい正月大祭,愛宕桜祭り(4月),ほおずき夏祭り(7月),火祭り(12月)などの行事は多くの人でにぎわいます。境内からの福岡市内の展望はすばらしく夜景の名所になっています。愛宕山(標高60m)の頂上にある愛宕神社、ここからの眺めはすばらしく能古島や志賀島、近くのももち浜のビル群が良く見えます。
   
   
 (この集合写真はクリックすると拡大します)
境内からの夜景 撮影:2011年8月2日   愛宕神社の夜景 HPはこちら⇒愛宕神社の夜景
 
 愛宕山 観音寺
 観音寺境内  勝軍地蔵と文殊菩薩
   
 蛇岩
愛宕神社・観音寺参道の石段脇にあった蛇岩。どうみても蛇には見えません。形状を見ると海水に侵食された岩でその昔は海だったということです。
   
 旧唐津街道姪浜宿
姪浜は大型商港姪浜浦に接し、商船で栄えた商人町と、 漁業で栄えた漁師町、それに宿場町が雑居し「姪浜千軒」といわれ反映していたと言う。長崎警備の福岡藩、参勤交代の時の唐津藩の大名行列、幕府の要人などの多数の旅人が往来したと言う。製塩も盛んで良質の姪浜塩は高級品であったと言う。下の『姪浜町』では姪浜の街並の様子がよく分かる。また、東構口付近の様子もよく描かれている。 東構口の手前には万正寺が描かれている。下の名所図絵は左右が連続して描かれている。 右の『興徳寺・塩浜の図』では興徳寺の後方に立つ煙は石炭が燃えているものである。 西構口の様子もよく描かれている。 
 九州大学デジタルアーカイブ『筑前名所図会』
 
 東構口  姪浜宿の面影は残る商店街を歩く。
 亀井南冥生誕地(かめい なんめい)
 亀井南冥(1743年~1814年)は,志賀島から発見された金印を守る「金印弁」を著した人で福岡藩西学問所「甘棠館」の館長となり,多くの門弟を育成した。能古博物館には,筑前亀井学派の資料が多く展示されているそうです。  
 住吉神社
住吉神社の起源は、奈良時代の天平十五年(西暦七四三年)九月二十九日の夜半、住吉明神のご出現があり、翌年四月十三日にも異国船来襲の調伏祈願の折りにご出現され、このため一宇の小社を建立し住吉三神をお祭りしたことによります。西網屋町の社がそれで、住吉古宮といいます。くだって室町時代、応永二十三(西暦一四一六)正月十四日夜のご神託により、翌年八月二十九日に牛頭社地(現、住吉神社)で新社建立・ご還座の儀式を終え、ここに住吉三神は牛頭社(現、須賀神社)と相並んで、当地の産土神として尊崇されるようになったそうです。
新しい鳥居の理由
2005年3月の福岡西方沖地震で、大鳥居が倒れその再建の資金は、宮司さんが「クイズ・ミリオネア」に出演して見事1000万円を獲得。賞金と寄せられた浄財で、無事新しく大鳥居と御神門を再建したそうです。海上安全、交通安全、厄除け、災難除け、安産、商売繁盛の神社ですが、クイズの必勝祈願の参拝もありでは。
 神社境内 除災招福の神の使いの河童
   
 
興徳寺~JR姪浜駅
   
興徳寺見学後、本日の案内ガイドの歴史よかとこ案内人の皆さんから、締めのご挨拶をいただき、JR姪浜駅まで送っていただきました。本日は大変お世話になり、ありがとうございました。