【日時】
平成22年3月2日(火)       集合:天神・日銀前        
【参加人員】    52名
【コース】  天神・日銀前(8:30)~神崎・日柱一里塚~神埼宿/境原宿~佐賀宿・溝口橋~思案橋~柳町~旧中村家(昼食)~本陣跡~松原/佐嘉神社~徴古館~佐賀城・筑前堀~城内~天守台跡~鯱の門~本丸御殿~龍造寺八幡宮~善左衛門橋~多布施/伊勢町~日新小学校~八戸地蔵~高橋(本庄江川)~大和SA~福岡天神

3月2日、超満員52名を乗せたバスは8時30分天神日銀前を出発、長崎街道の田手宿~ひのはしら一里塚~神崎宿~境原宿をたどりながら、佐賀城下町の東の出入口「構口」に到着。町屋・商家や大名鍋島家は「ひなまつり」の真最中!そして総工費36億円かけて復元なった佐賀城本丸御殿内を見学!佐賀藩の雄藩ぶりを目の当りにしました。
最後は、幕末の江戸湾防備の台場に備えるけられた大砲50問を製造した、築地・多布施反射炉跡や六座(現在の工業団地)など街道筋の史跡を探訪しつつ、西の出入口「高橋」にて今回の歩き終わりとしました。本日の歩行距離7km。長崎街道の道程はまだまだタップリとあります。
我ら「歩こう会」は、熟年パワーを発揮し、終点「長崎」までの完歩を目指し毎年挑戦します!「九松」の人は皆元気ですね!!     (野田 弘信)

写真撮影: 福永攻治  原田和夫 
神埼宿~境原宿~佐賀城下
史跡  神崎・ひのはしら一里塚

小倉~長崎間を結ぶ長崎街道に唯一現存する一里塚で江戸時代、土で盛られていたというこの一理塚は、幕末から明治時代ごろにかけて、崩壊防止のために石垣が組まれました。「ひのはしら」の名前は、近くの櫛田宮に朱色の鳥居があったことから命名され、塚の頂上にまつられた地蔵が、炒(い)られた豆や土を塚に盛ると喜ぶとされていたことから、江戸時代には多くの人によって盛り土されたそうです。
慶長9年(1604)に幕府は日本橋を起点に主要な街道に一里ごとに一里塚を置いて目印とすることを命じました。神埼宿の一里塚は長崎街道の一里塚の中でたった一カ所現存している貴重なものなので当時の旅人はこの下でひと休みしたこと思われるそうです。

佐賀宿・溝口橋から歩き始め    
今回の新入会員の紹介
林幸子さん    藤岡敏子さん 樋口俊司さん 峰藤明さん
思案橋~旧中村家~佐賀城下雛祭り巡り
旧福田家
旧福田家は、明治末期から大正、昭和にかけて活躍した実業家、福田慶四郎が大正7年に構えた近代和風住宅で佐賀を代表する手織伝統工芸「手織り佐賀錦」をまとったおひなさまを展示していました。
旧古賀家
旧古賀家は町家でありながら武家屋敷に似た様式が特徴で、それぞれの部屋は見事な欄間やふすま絵など、明治時代の実業家の居宅にふさわしい趣のあるものでした。ここで展示されているのは鍋島小紋のおひなさま。鍋島小紋とは、佐賀藩鍋島家が裃に使用していた紋様(御留型)のことです。
ボランテイアガイドによる佐賀城下の雛祭り巡り
旧三省銀行
旧三省銀行は明治15年に設立された銀行で、銅版の窓や白壁が特徴的です。ここでは、佐賀で300年の歴史を誇る和絨毯“鍋島緞通”の展示、制作実演のほか、ひなまつりにちなんだ小物等を展示・販売しています。
旧古賀銀行
大正ロマンが漂う旧古賀銀行の1階では、銘菓丸ぼうろの製作実演を行っていて焼きたての丸ぼうろは大変人気がありました。
2階では、
小城鍋島家の古今雛や創作人形が展示していました。
創作人形
旧中村家(昼食)
旧中村家は古賀銀行が開業した際、社屋として利用していた明治期の建物だそうで、この「玄米食おひさま」での昼食でした。
昼食後は佐嘉神社~徴古館~佐賀城・筑前堀を歩く
佐嘉神社
境内に展示していた佐賀藩が製造したアームストロング砲(1863年)
徴古館

佐賀藩鍋島家伝来の御道具類や古文書などを多数収蔵していて、鍋島家の歴代夫人たちが愛用した雛人形や雛道具が一堂に展示されていました。

11代にわたって佐賀藩を治めた鍋島家最後の藩主直大の長女朗子(さえこ)さまが加賀前田家へ嫁がれた際の雛道具や、夫前田利嗣公から贈られた有職雛などが、はじめて佐賀の地に里帰りして展示していました。
佐賀城・筑前堀~城内~天守台跡~鯱の門~本丸御殿
佐賀城址の樹齢300年の大楠の前で
佐賀城址:天守台跡
鯱の門から本丸御殿へ
鯱の門前での集合写真 クリックすると拡大します
善左衛門橋から多布施反射炉跡へ
多布施反射炉跡碑

反射炉とは溶解炉のことで、幕末期、佐賀藩や薩摩藩などは銑鉄を溶かし大砲を鋳造するためにこの炉を建設した。日本最初の反射炉は佐賀藩の築地反射炉で、跡地にあたる日新小学校には煉瓦造りの記念碑が置かれていました。幕府から佐賀藩に正式に大砲の発注があり、これを機会に本格的な反射炉として多布施反射炉が建造され、多布施川が、直角に曲がる上多布施町字十間堀(現伊勢町)の地だそうです。多布施川沿いに多布施反射炉の碑がありました。

多布施反射炉跡付近
精煉方跡絵図 精煉方跡碑
精煉方跡付近
精煉方(理化学研究所)はこの多布施反射炉の北西隣にあたる神野町字高岸に在って現在もその地はどことなく往時の雰囲気を留めていますが、民有地のため発掘調査等は行われておらず、正確な位置は不明だそうです。ただ現地に立ってみると、ここに間違いないと思わせる 空気が漂っていて納得でした。
「築地(ついじ)反射炉」があったとされる日新小学校(佐賀市長瀬町)の敷地
日新小学校の校庭には、反射炉とカノン砲の碑が建てられていて幕末維新当時、この周辺は藩の調練所でもあり、碑には下記のように記されていました。
 「嘉永3年(1850)12月12日 わが国で最初に築造された佐賀藩の反射炉が、日本近代工業のあけぼのをつげた。幕末、黒船の来航など国内騒然とした中に佐賀藩主鍋島直正は世界の大勢を説き、海防を献策したが、幕府はこれを聞き入れなかった。そのため佐賀藩は独力で、この地に反射炉の建設にとりかかり、失敗を重ねたあげくわが国最初の工業用鉄精錬と鉄製大砲の製造に成功した。
 嘉永6年、ペリー来航にあわてた幕府は、佐賀藩に 「公儀用大砲200門鋳造」 を委託。佐賀藩技術陣は苦難に耐えこの大任を果たした。本碑は日本近代工業の先駆をなした郷土佐賀人の進取性と真摯な営みの歴史を顕彰するものである」
高橋(本庄江川)
本日の歩こう会は本庄江川の高橋で歩き終わりでした。心配した天候に恵まれて無事終了し、若杉観光バスで岐路に着きました。