【日時】
平成21年12月1日(火)            福岡市読売新聞西部本社 AM9:40集合
【参加人員】    51名
【コース】  読売新聞西部本社(NHK古代日本のハイウエー「1300年前の列島改造」視聴)~昼食~鴻臚館展示場13:00~菅原神社~小鳥神社~官道十字路~薬院新川~平尾~高宮八幡宮鳥居~盤瀬橋~若久川~石瀬駅~野間八幡宮/玉橋神社/菅原神社~石投げ地蔵~野間B遺跡~三宅廃寺跡(三宅公園)~大橋E遺跡~西鉄大橋駅西口16:30~やぶれかぶれ・大橋別館(忘年会)

12月1日(火)中央区赤坂の読売新聞社「よみうりプラザ」に51名が集合! 古代大宰府官道を歩きました。本年は三部構成で実施しました。
【一部】NHKの1時間半TV番組「古代ハイウエー・千年前の列島改造」を視聴。
【二部】続いて、旧平和台球場横の鴻矑館から平尾・高宮に点在する菅原神社などに詣でて、大橋・三宅廃寺までの8kmを元気よく歩きました。
【三部】最後は、大橋「やぶれかぶれ」にて、本年一年間6回実施の総まとめ「忘年会」となりました。
     (野田 弘信)

写真撮影: 福永攻治  原田和夫  田中武忠
読売新聞西部本社
今回は冒頭に参加者51名の集合写真撮影を行い、ビデオ視聴となりました。
この写真はクリックすると拡大します!!
世話人の野田さんより、歩こう会のコース・歴史についての説明後、1時間半のビデオ放映でした。
畿内と並んで、その古代官道の二大拠点となったのが大宰府!、九州では西海道が整備されますが、域内すべての官道は基点大宰府から延びています。また、大陸との外交や軍事面を担った「大宰府政庁」と、海外交流・国防の拠点であった迎賓館「鴻臚館」とを結ぶ「大宰府官道」は、幅12mの直線道路が2本、基幹的な道路でした。
古代日本のハイウエー~1300年前の“列島改造”NHKテレビ視聴
約1300年前、総延長6300kmにも及ぶ4車線相当(幅12mほど)の巨大道路ネットワークが敷かれていました。その古代日本のハイウエー歴史的背景を俳優の苅谷俊介さんと大澤亜季子さんが平城京から太宰府まで古代山陽道を旅しながら、古代道の謎を探っていく興味深いビデオでした。ビデオでは古代道と現代の高速道路の重なっているところが多いという事実、軍事的な要地とも重なり古代の強力な権力のもとに誰が造ったのか謎も多い。この巨大道路も100年後には壊されて、埋もれてしまいました。国民に支持されなくなったら壊される道路は現在の無駄な高速道も同じ運命かも。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)より。
日本の古代道路(にほんのこだいどうろ)は、古代日本の中央政府が飛鳥時代から平安時代前期にかけて計画的に整備・建設した道路または道路網を指す。地方では6m~12m、都の周囲では24m~42mに及ぶ広い幅員を持ち、また、路線形状が直線的である(時に直線が数十kmにわたる)という特徴を持つ。当時の中国(隋・唐)における道路制度の強い影響が想定されている。直線道路は、まず7世紀初頭の奈良盆地で建設されはじめ、7世紀中期ごろに全国的な整備が進んでいった。そして、8世紀末~9世紀初頭(平安時代初頭)の行政改革により次第に衰退し始め、10世紀末~11世紀初頭に廃絶した。
駅路は、中央と地方との情報連絡を目的とした路線で、各地方拠点を最短経路で直線的に結んでおり、約16kmごとに駅家が置かれていました。律令の地方制度は五畿七道といい、中央である五畿と地方である七道から成っていたが、七道のそれぞれに駅路が引かれた。駅路はその重要度から、大路・中路・小路に区分され、当時、国内最重要路線だった中央と大宰府を結ぶ山陽道と西海道の一部が大路、中央と東国を結ぶ東海道・東山道が中路、それ以外が小路とされていた。駅家に置く馬(駅馬という)は、大路で20疋、中路で10疋、小路で5疋と定められており、使者が駅馬を利用するには、駅鈴が交付されている必要があった。

駅家は16km間隔で馬家、宿泊、食事の施設や寺、役人の住居、田畑で構成されていました。 駅鈴(えきれい)は、日本の古代律令時代に、官吏の公務出張の際に、朝廷より支給された鈴です。現在残っている実物は、国の重要文化財に指定されている隠岐国駅鈴2口(幅約5.5 cm、奥行約5.0 cm、高さ約6.5 cm)のみだそうです。
舞鶴公園・平和台入口の紅葉
本日は鴻臚館跡展示館から三宅廃寺までの古代官道コースです(約7km)
古代官道が通った赤坂小学校前で
けやき通り
菅原神社

この菅原神社は管公こと菅原道真公が主祭神だそうです。所在地 福岡県福岡市中央区警固3−13

小鳥神社
当社の祭神は、「建角身神」といわれ、建角身神は、神産霊神のお孫神で神徳高く、国土開拓のため産霊の威徳をもって、神武天皇ご東征の折には、皇軍を導かれ、賊軍の説得に努め、多大の攻積をたてられたといわれています。
その建角身神を祭神とする当社は、古来より薬院の地に鎮座する地方の古社で建国創業の神として、地方開拓の産霊祖神として村人の信仰を、集めていたと、いわれています。明治5年11月3日、村社に指定されましたが、その当時の薬院村には、古小鳥南薬院、汐入町、原の町、上出口町、中出口町、岩戸町、中圧町、小森町がありました。なお、現在では家内安全、商売繁盛、子供の守り神として、地域住民から多くの信仰を集めている氏神様だそうです。     
(入口の解説板より)
入口の鳥居
この写真はクリックすると拡大します!!
高宮~野間~大橋
  石投げ地蔵
野間八幡宮

木立に囲まれた閑静な境内には菅原道真公を祀る玉橋天満宮もあり、鎮守の神として住民から厚い信仰を集めているそうです。

野間B遺跡
三宅廃寺跡

大橋からの官道がこの三宅廃寺跡に。
旧大字三宅字コクフにある奈良時代初めに建立された寺院跡。寺域は東西100mの規模と推定され、奈良時代前半の瓦、「寺」や「堂」と墨書した土器、正倉院宝物に類似する黄銅製の匙と箸などが発掘調査で出土しました。若八幡宮(三宅小学校前)の手洗石は塔の心礎を転用したものと考えられています。『日本書紀』宣化天皇元年(5365月の条によれば、那津の口に官家を修造し、内外の非常に備えて穀物を蓄えさせたとあり、これが三宅の地名の起こりと考えられています。ただし、「那津官家」(大宰府の前身)の位置は近年の発掘の成果から博多区の比恵遺跡に比定する考えが有力となっているそうです。

大橋E遺跡
忘年会 (やぶれかぶれ大橋別館)
恒例の歩こう会忘年会は大橋のやぶれかぶれ別館で開催しました。松九会井上会長の音頭で始り、おいしい料理と飲み放題のお酒で楽しく、親睦を図った2時間でした。(忘年会参加者43名)