【日時】
平成21年10月6日(火)            JR香椎駅前 AM10:50集合
【参加人員】    48名
【コース】  JR香椎駅前11:10出発~平山交差点(昼食) ~ 駕籠立場~ 原上交差点 ~ 夜泣き観音~三代交差点 ~太閤水~小竹口~蜜柑農園~横大路家住宅(千年家)~筑後・安武河内守鎮則の碑~上の府太郎丸バス停~福岡天神着17:00着

10月6日(火)11:00JR香椎駅前広場に48名集合!早速柔軟体操で体をほぐし、今に残る旧道「唐津街道」を古賀方面に向かって出発!途中、戦国時代の立花山城下の合戦の跡「夜泣き観音」や豊臣秀吉ゆかりの「太閤水」江戸時代の参勤交代の大名の休憩場所「駕籠立場」などに立ち寄り、往時の街道(現在の国道)の重要性を確認することができました。
その中で超目玉の史跡は、新宮町の横大路家住宅「千年家」です。今から1200年前、時の比叡山天台宗の開祖「最澄(伝教大師)」より頂いた「法火」をカマドで燃やし続けてこられ、現在で44代目夫人・85才のおばあさんが一人で頑張っておられます。
住宅の建築年代は17世紀と推定され、九州に現存する民家では最古のもの。国の重要文化財に指定されています。松九会の皆さんも見学されませんか。 本日の歩行距離は9km。(野田 弘信)

JR香椎駅前集合
今回の歩こう会は10km  まずは準備体操 新入会員紹介(左から久保さん、白石さん、神崎さん)
JR香椎駅から 昼食場所・平山交差点まで歩く(1時間)
昼食後平山交差点を過ぎてから唐津街道を歩く
駕籠(かご)立て場
駕籠立て場は殿様道と呼んでおり、その一部に駕籠立場という地名があります。殿様が駕籠から降り休憩したところだそうです。又、写真の「駕籠立て場」付近は当時ここから立花山が目見えたと思われていますが、現在は 木が茂り、見えませんでした。
千田の夜泣き観音からの立花山(367m)
立花山は、その昔、最澄の時代には、イザナギノミコトとイザナミノミコトの2つの神を祀る山として二神山(ふたがみさん)と呼ばれ,805年唐から帰朝した最澄がシキミの杖を地に刺すと、花を咲かせたことから立花山となったそうです。
南北朝期から戦国時代にかけては立花山頂に山城が築かれ大陸交易の拠点であった国際都市博多をみかじめる軍事的な拠点でもあったため、激しい争奪戦の舞台となり、1330年、豊後大友氏の拠点として、大友貞載(さだとし)が山城を築いたのが初めでその後、中国地方から進出した大内氏と大友氏による攻防戦が繰り返されました。
陶晴賢(すえはるかた)の乱により大内義隆が自害すると、代わって毛利氏が北部九州へ進出し、毛利氏と大友氏が攻防をくりかえし、1569年、立花城は毛利氏によって一旦攻略されましたが、翌年、大友宗麟の重臣戸次鑑連(
べつきあきつら)によって再び大友方のものとなりました。以後、鑑連(後の立花道雪(どうせつ))が城督となり、死後はその養子立花宗茂が引き継ぎました。
九州を北上する島津軍の攻撃を受けるが、1586年に秀吉の九州平定の先陣として小早川隆景の大軍が九州を下り、島津軍は脱却。九州平定の功により、隆景は秀吉から筑前一国および筑後、肥前の各二郡を与えられたが、急峻な立花城では城地も狭く水もないため、名島城を整備して居城としました。(1588年)
「千田の夜泣き観音」
永禄11年(1568年)春、立花城主7代目但馬守鑑載(たじまのかみあきとし)が、大友宗麟(おおともそうりん)のあまりの傍若無人さにたまりかね、中国の毛利元就(もうりもとなり)に援助を求めて謀反を起こしました。
このことに大友宗麟はひどく怒り、
戸次鑑連(べつきあきつら)(後の立花道雪)を大将として3万の軍勢をもって立花城を攻めさせたのです。
立花城は鑑載をはじめ城兵がよく防戦したので、容易に城は落ちなかったのですが、鑑載が信頼していた家臣、野田右ヱ門が裏切り大友勢を城内に引き入れたため、ついに落城してしまいました。
鑑載は武運つたなく自害して果てましたが、奥方様は我が子かわいさのあまり幼児を抱いて湊へと必死に走りました。千田まで逃げてきたところで大友勢の追っ手はすぐ後ろに迫り、こどもは火がついたように泣くので、もはやこれまでと覚悟をきめ、傍らの小川の橋の下に隠れて、日頃信心している観音様を一心に念じました。
すると、不思議にもこどもはピタリと泣き止み追っ手は橋の上を走り去ってしまったのです。やっとの思いで命が助かり、夜を待って湊にたどりつき舟で小倉へのがれて、毛利勢に助けられたということです。
それ以来、赤ん坊が夜泣きをするときは、この橋の下でロウソクを立ててお祈りすると泣きやむと信じられるようになりました。 
今の観音堂は平成元年に建てられたものです。   ~筑前の昔話より~ 
新宮町 三代の太閤水(飯銅水)
新宮町の「太閤水」で裏手に水を汲み上げる蛇口があり、今でも利用されているそうです。
天正15(1587)年関白豊臣秀吉が、当時、九州の大部分を征服していた島津義久に対抗し、ただ独り立花の孤城を死守し続けた立花宗茂(立花道雪の養子)を助けて、3月自ら軍を進め、遂に島津氏を降し九州を平定しました。 その帰途6月24日、ここで馬を休め自ら清い水を汲んで飲んだ所です。
往路この地で水を求めたとき良い水がなかったので、同行していた堺の茶人「津田宗友」が、この崖下に掘り当てた湧き水です。秀吉は、このことを聞くと即座に「宗友水」と名付けましたが、寛永5年(1626年)京都大徳寺の僧「江月宗玩」(宗友の子)が立ち寄った際「飯銅水」と改めさせ、後の人が石畳の井戸を造り太閤秀吉にちなんで「太閤水」と呼ぶようになったそうです。
途中・ミカン農園により、試食のミカンをいただく
横大路家住宅近くでトイレ休憩
  国の重要文化財指定                横大路家住宅(千年家)

横大路家住宅(よこおおじけじゅうたく)は 福岡県糟屋郡新宮町上府にある歴史的建造物。九州最古級といわれる古民家建築で、国の重要文化財に指定されています。「千年家」の通称をもち茅葺屋根の曲家で江戸時代前期(17世紀半ば)の建築ではないかと考えられていますが、明確な建築年代を示す史料は残っていないそうです。
伝承によれば、805年(延暦24年)、日本天台宗の開祖である最澄が唐での留学を終え、当地に上陸し、独鈷寺(新宮町立花口)を開基した際、協力した横大路家の先祖にお礼として法火(法理の火)と毘沙門天像を授けたそうです。織田信長の延暦寺比叡山焼き討ちの際には、比叡山の法火が消えたため、ここから火を比叡山へ運んだといい、現在でも、火は家の竈にあり、種火が消えないように千年以上も守り続けているそうです。
住宅は寄棟造茅葺。東側に突出部をもつ曲家である。2000年から全面解体修理が行われ、2003年4月に完了した。部材の仕上げなどから、創建は17世紀半ば頃までさかのぼり、九州地方最古級の民家建築です。当初は棟をコの字形に造る「くど造」であったが、19世紀前半頃に現在のような曲家となりました。解体修理に際しては庇の瓦、入口の障子戸などを撤去し、19世紀前半頃の姿に推定復元されたようです。
近くの岩井の水は最澄から授かったという霊水でこの水を飲むと男子を授かるという言い伝えがあるそうです。現在この水は、枯れています。

解体復元され新しくなった千年家 横大路家「曲家」
修復の跡が見れる梁 冬は寒くて堪らないそうです
3連カマド 近くにある霊水「岩井の水」
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安武河内守鎮則の碑
この梅津城主になった安武河内守鎮則の碑の説明文にある戸次氏苗字の由来について調べました。

「戸次」は通称「
べっき」あるいは「へつぎ」と読む、稀に「とつぎ」と読む方もいる。一般的に大分市やその近隣、福岡市、柳川市などで「べっき」、大分県豊後大野市や竹田地方では「へつぎ」と呼ぶことが多いそうです。「戸次姓」は極めて少なく、全国でも400戸余りの少苗字であり、「戸次」の意味は良く分らないが、「戸」は人家の区割りに由来し、「へ」が「へい」に変化し「閇(塀)」となったようです。「閇」は門の下です。したがって、「戸」は家の入り口を意味します。また「次」は後に続くことをさすので「戸次」は家々の続くところを意味し、集落を指すと思われるようです。
本日は心配した雨も降らず、さわやかな風の中で無事10kmの歩こう会は終了。
上の府太郎丸バス停で解散し、天神行きの急行バス帰宅しました。