【日時】
平成21年6月2日(火)~3日(水) 出発7:00 【集合場所】
天神日本銀行前
【参加人員】     36名
【一日目】 
天神7:00
出発~めかりPA~吉和SA~浜田道路金城PA~江津IC~温泉津(昼食)13:00~13:40沖泊~鞆ケ浦~石見銀山世界遺産センター三瓶温泉:国民宿舎(さんべ荘)・夕食懇談18:00~21:00

【二日目】 
さんべ荘8:00出発~石見銀山公園~龍源寺間歩~五百羅漢寺~銀山公園~大石茶屋(昼食)~大森代官所跡~観世音寺~町並み交流C~旧河島家~町並み散策~銀山公園
出発15:00~江津IC~安佐SA~美東SA~古賀SA~天神着21:00
博多商人が発見した!世界遺産「石見銀山」を歩く
6月2日朝7時、36名を乗せたバスは、長駆450km先の島根県石見銀山に向かって出発。 なぜ、わざわざ一泊二日で石見銀山まで行ったのか! それは銀山を最初に発見し、銀山経営の中心人物が博多の豪商「神屋家の人々」だったからです。石見銀山遺跡を理解するには、事前の歴史的予備知識と歩いての現地探訪が重要ポイントになります。 これには我々「松九会・歩こう会」が毎回実施している姿勢がピッタリだったのです。先ずは、バス車中で「大航海時代のヨーロッパと黄金の国ジパング」と「石見銀山の歴史」をVTRで学習し、博多への銀積出港「温泉津・沖泊」を隅々まで歩きました。 その夜は三瓶温泉「さんべ荘」にて夕食懇談と一泊。 6月3日愈々本番! 午前中は銀鉱山地区を現地ガイドの方の親切で解りやすい解説案内でゆっくりと見学。 昼食後は大森代官所跡や町並みを自由散策。 午後3時に銀山を出発、午後8時博多に到着。 長時間のバスの旅で皆さん少々疲れぎみ。 歩行距離8kmの歩こう会でした。(野田 弘信)
世界遺産 石見銀山
石見銀山は、銀の産地として室町から戦国時代にかけて、日本で初めて「灰吹法」という、銀の精錬技術を取り入れ、大航海時代の世界で流通した銀のおよそ3分の1が日本の銀であり、さらにそのほとんどが石見銀山で産出されたものであったと言われます。この銀を求めて世界中から貿易船が訪れ、様々な文化が渡り、日本の文化にも大変大きな影響を及ぼしました。1526~1626年の100年間をピークに大名の軍資金、江戸幕府の財源として、この地から大量に採掘されました。世界各地に輸出されました。

世界遺産登録理由
銀山柵内、代官所跡、矢滝城跡、矢筈城跡、石見城跡、大森銀山伝統的重要建築物保存地区、宮ノ前地区、重文熊谷家住宅、羅漢寺五百羅漢、佐毘売山神社からなる「銀鉱山跡と鉱山町」のほか、鞆ヶ浦道などの「石見銀山街道」、温泉津伝統的重要建造物群保存地区などの「港と港町」が2007年世界文化遺産に登録された。石見銀山は、山を崩さず、木を伐採せず、狭い公道を掘り進んで採掘するという点が特徴で「21世紀が必要としている環境への配慮が、すでにこの場でなされていたこと」が、登録への大きな決め手となった。

石見銀山の発見と開発
石見銀山の発見について『石見銀山旧記』は、石見銀山を本格的に開発したのは
博多の商人・神屋寿禎(かみやじゅてい)であるとされているそうです。海上から山が光るのを見た神屋は領主大内義興の支援と出雲国田儀村の銅山主・三島清右衛門の協力を得て1526年(大永6年)3月、銀峯山の中腹で地下の銀を掘り出しました。義興の死後、大内義隆が九州経営に気を取られている間、1530年(享禄3年)に地方領主・小笠原長隆が銀山を奪い、3年後に大内氏が奪回しました。大内氏は山吹城を構えて銀山守護の拠点とし、1533年(天文2年)8月、神屋寿貞は博多から宗丹と桂寿を招き海外渡来の銀精錬技術である灰吹法に日本で初めて成功しました。この技術でより効率的に銀を得られるようになり、全国の鉱山に伝えられ、日本における銀産出に大きな貢献をしました。灰吹法確立以前は、鞆ヶ浦(仁摩町馬路)・沖泊(温泉津町)から鉱石のまま積み出されていました。
石見銀山から二つの港湾に向けてつながる、銀・銀鉱石と諸物資の輸送路
(1)鞆ケ浦道
(ともがうらどう)

鞆ヶ浦道(ともがうらどう)は、銀山から鞆ヶ浦(友の浦)まで約7Kmあり、港まで最短距離の街道です。16世紀前半の銀山開発初期に銀鉱石や生活物資などが運搬されていました。神屋寿禎が精錬技術を導入するまで、銀鉱石をそのままを運んでいました。

(2)温泉津沖泊道
(ゆのつおきどまりどう)
石見銀山の外港であった温泉津・沖泊と柵内を結ぶ全長12kmの街道。17世紀初頭に尾道(おのみち)道が開発された以降も銀山と港を繋ぐ幹線路でした。

テイセラ日本図
作者名:ルイス・テイセラ(スペイン王室の地図製作者)
製作年:1595年


大航海時代の16世紀、石見銀山はヨーロッパ人に唯一知られていた日本を代表する銀鉱山でヨーロッパで製作されたこの地図には、日本では「Hi(イ)va(ワ)mi(ミ)」(石見)付近にのみ「Argenti(アルジェンティ)  fodina(フォーディネ)」(銀鉱山)とラテン語で記されています。

その影響力の大きさを示すのが、当時ヨーロッパで作成された世界地図です。日本の中でも「石見銀山」は非常に大きく扱われており、その存在の大きさを表しています。
温泉津(ゆのつ)
温泉津の町並み
石見銀山の良さは、その歴史的価値もさることながら、現在でも人の住む町並みにあります。
この石見銀山に指定された地区には、「町並み保存」に選定されている町が2つあり、大森町と温泉津町です。10軒近くの木造旅館が軒を並べる様は特殊で、日本で初めて「町並み保存」に登録された「旅館街」でもあります。
温泉津(ゆのつ)湾 かつては、石見銀山(大森銀山)で採れた銀や木材、陶器・温泉津焼きの積出港として、また北前船の寄港地として賑わった港であるこの辺一帯はリアス式海岸で、天然の良港が多い所です。 龍御前神社(たつのごぜんじんじゃ)は温泉津港に出入りした北前の守り神であった背面には、龍のような岩山が絶壁となっていました。
この温泉津温泉街は重要伝統的建造物群保存地区に選定されていて1300年前に開かれた古い温泉場だそうです。
廻船問屋の路地 なまこ壁 博多の商人・神屋寿禎が記載されていた案内板
沖泊(おきどまり)
沖泊は、深い入り江と水深にめぐまれ、早くから天然の良港として知られていました。
 港の北に櫛山城(くしやまじょう)跡、南に鵜丸城(うのまるじょう)跡がありますが、櫛山城は戦国時代に毛利氏に最後まで抵抗した尼子(あまご)方の温泉(ゆ)氏の居城(きじょう)であたと言われています。後に銀山と温泉津を支配下に置いた毛利氏は元亀元年(1570)に鵜丸城を築き、対岸の櫛山城とともに毛利水軍の拠点として、船の監視と警護を行いました。沖泊は、銀の積み出しや銀山での消費物資の陸揚げ等、銀山の外港として重要な役割を担っていました。入り江には自然の岩盤をくり抜くなどして作った船を係留(けいりゅう)するための鼻ぐり岩が数多く残っており、かつての賑(にぎ)わいを今に伝えていました。
鼻ぐり岩:
鼻ぐり岩の形は写真(右)様な岩に通し穴を開けたものと、写真(左)の様な縁に膨らみのある円柱形の、2タイプがありました。元々写真(右)の通し穴のタイプが鼻ぐり岩と呼ばれ、牛の鼻に付ける鼻輪の通し穴に似ていることから名前が付けられたそうです。。
沖泊港 大永6年(1526)に建立されたと伝えられる恵比須神社
上の井戸
 沖泊集落に住む人々が生活に利用していた井戸水でこの井戸水を、沖泊に入港してきた船に与え、米や酒に交換していたそうです。
沖泊道(おきどまりどう)
沖泊道は、銀山から沖泊まで約12Kmの街道。16世紀後半毛利氏の時代に、銀や生活物資などが運搬され街道途中には幾つかの難所があり、大変だったようです。
石見銀山柵内→坂根口番所→降路坂→宿場町・西田→清水集落・金びしゃく井戸→温泉津→沖泊
石見銀山世界遺産センター
石見銀山世界遺産センター  石見銀山の予備知識はここで 御取納丁銀の5倍のサイズのレプリカが飾ってありました。全て銀でできていて、1千万円かかったとか。
三瓶温泉:国民宿舎(さんべ荘)

国立公園三瓶山の南麓の高台にあるさんべ荘での宿泊は、天然温泉の露天風呂や食事がすばらしくて大変満足でした。

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石見銀山・銀山公園
朝7:50分にさんべ荘を出発、石見銀山の観光の入口、銀山公園でガイドさんから銀山の模型を使用して説明を受けました。
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石見銀山コースのスタート前の集合写真(銀山公園にて)
午前中はガイドさんの案内で銀山公園~龍源寺間歩~五百羅漢までのコースを歩きました。
早朝までの雨で木の緑がきれいで、気持のいい歩こう会でした。
ゆきのした ( 雪ノ下 ) またたび うのはな(卯の花)
大久保石見守長安の紀功碑
1605年に建立された大安寺境内には、初代奉行として卓越した知識と技術を残した大久保石見守長安(おおくぼいわみのかみながやす)の実績を顕彰(けんしょう)して建てられた紀功碑(きこうひ)と五輪墓(ごりんぼ)がありました。
清水谷製錬所跡(しみずだにせいれんしょあと)
徳川幕府が崩壊し、明治時代になると、石見銀山では、一部の既存 の間歩(坑道)を利用した地元の人たちによる小規模な採鉱(さいこう)がかろうじて続いていましたが、本格的な銀生産の再開は、明治19年(1886)に萩出身の藤田伝三郎(ふじたでんざぶろう)たちが起業(きぎょう)した大阪の藤田組(現在の同和鉱業株式会社の前身)によりました。
藤田組は、仙ノ山(せんのやま)の南側の本谷地区の福石鉱床(ふくいしこうしょう)の金銀含有率と量に着目し、それによる銀生産を計画、明治27年(1894)武田恭作氏(当時東京帝国大学冶金学科学生)の設計による近代的な銀の製錬所の建設を開始し、20万円の巨費を投じて翌年に完成、4月から操業を開始しました。
 この製錬所には写真のような施設群があり、福石鉱床で採掘した原料の鉱石は、新たに掘削した金生坑(きんせいこう)と拡張した既存の蔵之間歩(くらのじょうまぶ)を通って製錬所の最上段までトロッコで運んでいた状況をうかがい知ることができます。
 鉱石の品質が予想より悪く、また設備の銀の製錬能力も十分でなかったことから不採算(ふさいさん)となり、明治29年10月に、開始からわずか1年半で操業を停止しました。その後、藤田組は柑子谷(こうじだに)に永久製錬所を新たに建設して、銅生産を中心に大正12年(1923)まで操業しました。(説明パネル記載文)
現在の清水谷製錬所跡 操業時の製錬所
鞆ケ浦道 上市場 :当時 市場があり繁栄していた場所
清水寺(せいすいじ)山門
清水寺(せいすいじ)は、元々仙山(せんのやま)頂上付近の石銀(いしがね)に、天池寺と言う名で建てられていたそうです。それが平安時代に清水谷に移され改名して清水寺となり、幕末に仙山中腹に移転し、その後明治11年に現在の地に移されたそうです。このお寺には、徳川家康公から頂いた「辻ヶ花染丁字文胴服」を所有され、この胴服は国の重要文化財に指定されています。
銀山町年寄山組頭遺宅
町年寄山組頭の高橋家遺宅である山組頭は、代官所と鉱山経営者である銀山山師達との取次ぎを行う役人で銀山師の中から選ばれたまた町年寄りは、銀山師達が住む町の運営に関わる役職だったそうです。
龍源寺間歩(まぶ)の入口:まぶとは鉱山用語の坑道のこと
龍源寺間歩(りゅうげんじまぶ):江戸時代の中頃1715年に掘られた代官所直営の坑道です。公開されているのは273mですが、実際は600mあるそうです。抗口:高さ2.5×巾2m、坑内:高さ約2×巾1m。公開されていない奥:高さ約1×巾0.6m。坑道に入れるのはここだけだそうです。
この写真はクリックすると拡大します。
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龍源寺(りゆうげんじ)間歩(まぶ)
龍源寺間歩は1715年に開発された代官所直営の坑道で、大久保間歩に次いで長く600mもあります。龍源寺間歩は中に入って見学する事ができ、通り抜けコースとなっている坑道は全長約273mで、途中157mのところから新しく開削した栃細谷新坑(とちばたけしんこう)を通って出口に向かいます。内部はノミで掘った跡が当時のままの状態で残っていました。また、古文書の石見銀山絵巻が電照板で展示してあり、当時の坑内の様子を知る事ができました。
唯一内部が見学できる「龍源寺間歩」
古文書の石見銀山絵巻の電照板 ひびが入っているように見える黒い線が銀幕です。
神屋寿禎(かみやじゅてい):博多の商人
銀山を見つけ大内氏に許可を得て、本格的に銀山採掘を始めた朝鮮の灰吹法を取り入れて銀の精錬を行ったこの技術により、銀鉱石を運んでいたのが、銀のみ運べることになった。
銀の精錬工程
工程1. 鏈拵(くさりこしらえ) 工程2. 素吹(すぶき) 工程3. 灰吹・清吹(はいふき・きよぶき)
銀鉱石を「要石(かなめいし)」の上に載せてかなづちで砕く。その後、水の中でゆすりながらより分ける

細かな銀鉱石に鉛とマンガンなどを加えて溶かし、浮き上がる鉄などの不純物を取り除き、貴鉛(きえん:銀と鉛の合金)を作る。

貴鉛を「灰吹床」で加熱して溶かし、鉛を灰へ染み込ませて、灰の上に銀だけが残るよう分離させる。その後、同様の作業を行い、灰吹銀の純度を上げる
出土谷(だし つち だに)
天文2年(1533)、博多の商人神屋寿禎(かみやじゅてい)が連れてきた技術者 慶寿(けいじゅ)が、革新的な灰吹法(はいふきほう)の技術を石見銀山に導入し、それがその後の大発展をもたらす契機になりました。かれが住んだのがこの出土谷だとされています。
江戸時代の文献にも「出し土」の地名が残るこの谷には階段状に区画が連なっています。まず17世紀はじめごろに石垣を積んで区画整理をしたらしく、さらに18世紀後半に大規模な再区画工事があった状況が発掘調査で判明しています。現状のような区画と石垣はその最後の工事のものであり、18世紀後半~19世紀中ごろの銀・銅を製錬した建物跡も確認されています。

当時の人口  20万人?? いや5万人  反論できる文献が見当りません。
仙山(せんのやま)  「石見銀山」は,仙山と要害山、その周辺の地下に分布する銀主体の鉱床を採掘した鉱山です
五百羅漢(ごひゃくらかん)

石窟五百羅漢は、銀山で働いて亡くなった人々や祖先を供養するためにと月海浄印が発願し、25年もの歳月をかけて1766年に完成したそうです。羅漢寺はこの五百羅漢を護るために建立されました。羅漢寺から道をはさんで向かい側、銀山川に架かる石の反り橋を渡ると、岩山に3つの石窟が掘られています。この左右の石窟に、合計501体の羅漢像が安置されているそうです。

大森代官所跡(石見銀山資料館)
江戸時代の代官政務所跡(だいかんせいむしょあと)で、陣屋跡(じんやあと)といいます。江戸時代256年間でのべ59名の奉行代官が交代しながら銀山の支配が行われました。
井戸神社
井戸神社は、明治12年(1879年)に第19代代官井戸平左衛門を祀って創建されたもので井戸平左衛門が、1731年に代官として着任した翌年(よくとし)、大飢饉(だいききん)が石見地方を襲い、領民は飢えに苦しみました。平左衛門はこの惨状を見て、税を減らし、蔵の米を領民に配布するなどの救済措置をとりました。また、当時移入の難しかったさつまいもを薩摩藩から取り寄せて、主要作物として栽培させるなど、当時の生活を安定させることに貢献しました。平左衛門は僅か(わずか)1年8ヶ月の勤務でしたが、この地方では「芋どのさん」「芋代官」とよばれ、今に至るまで敬慕(けいぼ)されているそうです。
大森地区の古い町並み    重要伝統的建造物保存地区
重要伝統的建造物群保存地区に指定された旧街道沿いの古い町並みである銀山エリアの北に位置する大森エリアは、銀山の経営や行政の中心として栄えたところです。石見銀山資料館にもなっている大森代官所跡をはじめ、武家屋敷や商家などの古い家並みが続き、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。
石城山観世音寺
石城山観世音寺からの大森集落
石州瓦の赤い屋根が特徴的である石見銀山から産出される多量の銀は、世界相場を左右したと言われるほどで、この見事な町並みも当然と言えるかも知れません。
旧大森区裁判所
明治23年に開所した旧大森区裁判所当時は邇摩(にま)、邑智(おおち)郡の49村を管轄していた明治時代に建てられた区裁判所が現存しているのは全国的に珍しいとのことです。
旧河島家住宅
河島家は、唯一公開されている上級武家の武家屋敷で(地役人の組頭)内部には、当時使われていた調度品が展示していました。
大森町並
さらに街道を進む延々と古い町並みが続いていて世界遺産に登録されてから、観光客も大幅に増えたそうです。そうです。
家の前の花と古い町並みがきれいで、映画のロケ地(アイラブピース)になっていました。
大田市大森町は石見銀山領の中心となった地です。地元の人の手により、当時の面影をそのままに残しています。

明治期以降の石見銀山と終末

石見銀山は1867年(明治元年)の太政官布告による民間払い下げにより田中義太郎が経営権を取得したものの、1872年(明治5年)の浜田地震の被害を受けてしばらく休山となった(1873年(明治6年)頃に松江市の安達惣右衛門が別の鉱区を経営していたともいわれるが記録が少なく詳細についてはわかっていない。その後、1887年(明治19年)からは大阪の藤田組(後に同和鉱業から現在はDOWAホールディングス)により再開発の試みが続けられた。藤田組は採鉱施設・事務所などを大森から柑子谷(仁摩町大国)の「永久鉱山」に移したが、鉱山から主に採掘されていた銅の価格の暴落や坑内の環境の悪化などにより1923年(大正12年)には休山するに至った。その後、日中戦争、太平洋戦争の最中、軍需物資としての銅の国産化を目論んで、1941年(昭和16年)より銅の再産出を試みるものの、1943年(昭和18年)の水害で坑道が水没する大打撃を受け、完全閉山となる。鉱業権はDOWAホールディングスが保有している。現在でも銀山採掘のために掘られた「間歩」と呼ばれる坑道が500余り残り、大久保間歩及び龍源寺間歩の一部が一般公開されています。(大久保間歩の公開はツアー形式での限定公開)。

石見銀山の観光は歴史背景や銀山の生い立ちなどの事前知識がないと面白くないかもしれません。今回の歩こう会は来るときのバスの中でのビデオや、石見銀山世界遺産センターでの展示物で知識を吸収し、当日は熱心なガイドさんの説明で石見銀山の概要を理解しながら撮影をしました。それでも自信のない箇所は後日インターネットで調べながらのHPの作成でした。(福永攻治)