「熊本城」を歩く
【日時】
平成21年2月3日(火)  AM8:00 天神・日銀前集合
【参加人員】    51名
【コース】  天神・日銀前 ~ 植木IC~ KKRホテル熊本 ~ 旧細川刑部邸 ~ KKRホテル熊本 ~ 清正公銅像~長堀~はぜ方門~二様の石垣~本丸御殿~天守閣~二の丸駐車場~基山ST~天神・日銀前

2月3日(火)あいにくの小雨にもかかわらず51名が天神日銀前に集合! 今から400年前に、加藤清正公が造り上げた「熊本城」とその周辺の歴史探訪を兼ねた歩こう会を実施しました。歩き始めに、加藤清正公の銅像に最敬礼し、幾重にも連なる「武者返し」の石垣や櫓を見ながら石段をあがり、やっと本丸にたどり着く。そこは見上げるばかりの天守閣と最近復元なった本丸御殿があり、さすが天下の名城「熊本城」である。皆、異口同音に「昔の人は偉い!どうしてこんな城を造ったのか!」と感嘆の声。最後に二言。①加藤清正公は、領民に小麦を作らせ外国に輸出しその金で城を造った。よって肥後国の人々は喜んで城造りに参加したとのこと。②現在の熊本城入場者は、あの世界遺産の姫路城を抜いてわが国ナンバー1になった。(熊本県の人が羨ましい!) (野田 弘信)

旧細川刑部邸(きゅうほそかわぎょうぶてい)
細川家三代忠利公の弟、旧細川刑部邸は300坪あり、唐破風の玄関や客間、入側造りの表御書院、二階建の「春松閣」があり、一階は銀之間と呼ばれています。別棟は書斎の付いた茶室、御宝蔵、台所などがあり、当時の上級武家屋敷としての格式を持った家だそうです。
旧細川刑部邸の唐破風の玄関
箱階段
熊本城の概要
日本三名城の一つに数えられる熊本城は、天正16年(1588)、肥後半国の領主として熊本に本拠を置いた加藤清正によって築かれました。築城は慶長6年(1601)に始まり、同12年(1607)に完成したといわれています。
城郭は周囲9Km(築城当時)、広さ約98万平方メートルで、その中に天守3、櫓49、櫓門18、城門29を持つ豪壮雄大な構えです。なかでも「武者返し」と呼ばれる美しい曲線を描く石垣は有名です。また自然の地形を巧みに利用した独特の築城技術がみられます。この城は以後、加藤家2代(44年)、細川家11代(239年)の居城となりました。
明治10年(1877)の西南の役に際しては、薩軍を相手に50日余も籠城し、難攻不落の城として真価を発揮しました。しかし薩軍総攻撃の2日前、原因不明の出火により天守閣など主要な建物を焼失。現在の天守閣は昭和35年(1960)、熊本市によって再建されたものです。
KKRホテル熊本の3階展望所
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KKRホテル熊本での中華の昼食

今もなお、市民に親しまれる清正公
行幸橋(みゆきばし)際に桔梗紋(ききょうもん)の具足(ぐそく)、蛇の目紋(じゃのめもん)の桶革胴(おけがわどう)、陣羽織(じんばおり)、長烏帽子(ながえぼし)姿で、熊本城を背にした清正公があたりを睥睨しています。虎の皮の上に座っています。
右手に采配(さいはい)を持ち床机(しょうぎ)に腰かけた姿は、戦を指揮しているときのものでしょうか。

長 塀(国指定重要文化財)

格調ある黒と白のコントラストが美しい。
下馬橋から厩橋に至る坪井川沿いに築かれている長さ253m塀。浅瓦を載せ、腰高に黒い下見板が張られた白壁の塀は、黒と白が美しく調和しています
春には、塀の内側から桜の花が川面に映り、また、秋のお城まつりでは長塀前河川敷で、県指定重要無形文化財に指定されている武田流騎射流鏑馬(たけだりゅうきしゃやぶさめ)の披露が行なわれます。

武者返し(むしゃがえし)
城に侵入してきた敵の武者を返してしまうことから、武者返しと呼ばれています。地面付近は勾配がゆるく上に行くにしたがって勾配がきつくなる独特なもので、武者返し(むしゃがえし)や「清正流石組」などと呼ばれているそうです。石垣の下の方は30度程度とかなり緩やかですが、上の方はほぼ垂直に近い絶壁になってます。
二様の石垣
石垣の積み方も時代によって異なり、加藤清正時代の勾配の緩やかな石垣(右側)は「穴太積(あのうづみ)」と呼ばれる石垣の積み方、細川時代の勾配の急な石垣(左側)は算木積(さんぎづみ)」と呼ばれる石垣の積み方で、石垣の角(出隅〔ですみ〕)の部分には長方形の石を左右交互に積んであります。
竹の丸 梅園より大天守を望む
本丸御殿
加藤清正公によって創建され、藩主の居間や対面所(接客の場)などに使われた熊本城の中核をなす建物。
本丸御殿の入口 杉谷行直の筆の杉戸絵
 復元された本丸御殿「昭君之間」
本丸御殿の最深部には、中国の故事に出てくる王昭君の絵画(襖絵とも屏風絵ともいわれる)のある「昭君之間(しょうくんのま)」と呼ばれる部屋がありました。この部屋には鶯張りの廊下や外へと通じる隠し通路があったといわれ、藩主の居間として使われていたようですが、一説によると、豊臣家の有事に際し秀吉の子秀頼を密かに匿うために造られた部屋であったといわれています。表面上は天下人の徳川家康に恭順しながらも、秀吉への恩を忘れない清正の忠義を示しているのだそうです。
本丸の最高所、標高50mの茶臼山の頂上に位置する天守閣は、「一の天守」と呼ばれる大天守(3層6階地下1階 約30m)と、「二の天守」と呼ばれる小天守(2層4階地下1階 約19m)から成っています。
この眺めの熊本城が一番美しい。
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熊本城天守閣からの眺め

天守閣展示室の西南の役と炎上する熊本城
天守閣入口の若武者
二の丸方向から見た天守閣
首 掛 石
熊本城築城の際、横手の五郎という怪力の若者が、花岡山からこの石を首に掛けて運んだと伝えられています。五郎は天草国衆一揆で加藤清正に殺された木山弾正の遺児で、父の敵の清正を討つため人夫として入り込んだといわれています
宇 土 櫓(国指定重要文化財)
明治10年の西南戦争のとき焼け残った唯一の多層櫓で「三の天守」とも呼ばれています。天正期(1573~92)の建築様式であることから、小西行長の居城・宇土城の天守閣を移築したものだという伝承が生まれました。(異説もあります。)
頬当御門( ほほあてごもん)からの天守閣
西大手門からの天守閣
二の丸 広場からの熊本城
熊本城南面図 の熊本城
現在の上の写真と比較して 見事な天守閣、宇土櫓、小天守等のバランスのいい壮大なスケールの熊本城はほんとにすばらしい。