【日時】
平成20年10月7日(火)  AM10:20 JR折尾駅集合
【参加人員】    55名
【コース】  JR折尾駅~光明橋~東筑橋~折尾高校(五平太船・資料館)~河守神社(昼食)~岩瀬の伏越し~中間唐戸(水門)~遠賀橋(遠賀川)~JR筑前垣生駅(解散)
6月3日(火)JR折尾駅に55名が集合。 今から240年前の江戸時代に完成した「堀川運河」沿いを途中折尾高校の「五平太舟」資料館や河守神社に立ち寄りながら中間の唐戸まで10kmを元気に歩きました。明治32年(1901)当時の遠賀郡八幡村に日本で最初の本格的製鉄所が出来た大きな要因が、筑豊石炭の石炭輸送路でもある「堀川運河」が存在していたからと言われています。終戦後長い間、生活排水路になっていましたが、最近では日本の近代化に貢献した歴史遺産として見直され、地元福岡県や北九州市が中心となり、その復元運動に拍車がかかっています。 (野田 弘信)
 JR折尾駅
JR鹿児島本線と筑豊本線の乗換駅・折尾駅は、日本初の立体交差の駅で明治24年2月に九州鉄道、8月に筑豊鉄道が、それぞれ開業しましたが、明治28年6月、両社は石炭輸送の便を図る為、折尾駅にて連絡線を敷設し、相互乗入れ運転を始めます。同年11月に、立体交差の二重構造を持つ2社共同の折尾駅が完成し現在にいたっていますが線路高架事業で平成21年に撤去される予定だそうです。
 解体予定の明治の名残りがある折尾駅舎前での記念撮影(この写真はクリックすると拡大します)
 
 日本ではじめての立体交差構造の一階と二階のホームを結ぶ煉瓦造りの連絡通路。駅待合室は、開設当初のままの円柱と下部に設置された木製ベンチ、円柱頂部の補強と装飾を兼ねた金物がありました。
堀川運河は、遠賀川の洪水対策や灌漑用水・水運路の目的で開削され、明治時代の石炭増産により、堀川運河は筑豊炭田の重要な輸送路となりました。
 
 AM10:20 54名がJR折尾駅に集合して早速、折尾の市街地から遠賀川の治水対策として、江戸時代に造られた堀川運河を歩きました。今日は上流の中間の唐戸まで、9kmを運河の側道を歩きます。
   
 堀川(ほりかわ)は福岡県中間市から北九州市八幡西区の洞海湾に注ぐ川で堀川運河ともいい、江戸時代に遠賀川から舟を通すことや洪水などの水害防止のために開発され開墾が進められた。明治時代以降は筑豊炭田からの石炭輸送に一役を買い八幡西区堀川町の折尾駅東口のターミナル下を流れ、沿岸には昔ながらの店が軒を連ねています。
   
折尾高校(五平太船・資料館)
 折尾高校内にある堀川ものがたり館と敷地内に展示している五平太船を見学しました。資料館では何故か懐かしい昭和40年代の九松第4事業部のラジオが展示していました。
   
   
 資料館の写真  明治30年代の洞海湾の風景写真
 
五平太船
江戸時代から明治時代にかけて遠賀川系の水運で活躍したのが川船で「五平太船」「川ひらた」等と呼び名があるそうです。
その語源は2つあり、
①石炭を発見したのが五平太と言うので石炭を通称「五平太」と言っていました。その石炭を運ぶので「ご平太船」と言う説と、②船の造りが浅瀬の多い遠賀川を運行するために平たくしてあり、通称「ひらた船」と呼ばれていました。そこで藩、即ち領主の直轄にあったため敬称がついて「御ひらた」が「五平太」となったと言う説、があります。天保年間5000隻、明治18年には9000隻の炭舟が遠賀川を上下したそうです。現存する川ひらたは、この1隻と芦屋町歴史民俗資料館に1隻だけだそうです。
   
 堀川運河の車返しの切り通し跡
 堀川工事で一番の難所だったのが、車返しとよばれるこの場所の掘削で、ノミの刃は2時間もすると使い物にならなくなり、鍛冶場がつくられたほどで、約400mの距離を約5.4mの幅で掘るのに9年間もかかったそうです。
現在は、折尾高校から河守神社にかけての岸壁にノミの跡が残り、当時の難工事を物語っています。
 河守神社(昼食)
 昼食・休憩に訪れた河守神社は、128年間中断されていた堀川工事を再開した福岡第六代藩主 黒田継高(くろだつぐたか)が祭られています。また、江戸時代に描かれた三十六歌仙絵馬も奉納されているそうです。
   
堀川運河を黙々と歩く
 
 唐戸の大樟
 中間唐戸(水門)
唐戸とは水門のことで江戸時代、黒田長政は、遠賀川の治水対策として堀川をつくりました。総延長約12km。人力による手掘りの作業で、完成までに184年かかったそうです。
1762年(宝暦12年)藩は、備前の国(現在の岡山県)の吉井川に強固な唐戸が構築されているのを知り、堀川工事の役夫頭(ぶやくがしら)を努めていた一田久作(いちだきゅうさく)を備前に派遣しました。江戸時代は、他藩の調査は許されておらず、冒険的な試みでしたが、無事帰国し、吉井水門を参考に中間の唐戸は完成しました。県の文化財に指定(昭和58年3月19日)されています。
 
中間唐戸(水門)
 
唐戸とは水門のことで江戸時代、黒田長政は、遠賀川の治水対策として堀川をつくりました。総延長約12km。人力による手掘りの作業で、完成までに184年かかったそうです。
1762年(宝暦12年)藩は、備前の国(現在の岡山県)の吉井川に強固な唐戸が構築されているのを知り、堀川工事の役夫頭(ぶやくがしら)を努めていた一田久作(いちだきゅうさく)を備前に派遣しました。江戸時代は、他藩の調査は許されておらず、冒険的な試みでしたが、無事帰国し、吉井水門を参考に中間の唐戸は完成しました。県の文化財に指定(昭和58年3月19日)されています。
現在の水門の管理人さんより説明をしていただきました
 宝暦12年(1762)に完成した中間唐戸(水門  現在の水門
   
   
水門下部の幅は3m 吊り上げ用の金具 鳥居巻と堰板戸
中間唐戸(水門)の前で記念写真(写真をクリックすると拡大します
 
 
 遠賀橋からの遠賀川
 
 JR筑前垣生駅(解散)
 
 本日歩こう会9kmを歩いて、15:30にはJR筑前垣生駅に到着してそれぞれ帰宅の途につきました。