【日時】
平成20年6月3日(火)  AM9:50 JR教育大前駅に集合
【参加人員】  50名
【コース】  JR教育大前駅~須賀神社~赤間宿(勝屋酒造)~原町(コミュテイセンター南郷)~中村研一生家美術館~大穂(おおぶ)・宗生寺~八並の太閤水~畦町宿(宿庄屋跡・仁術の碑)~内殿バス停・解散~天神行きバス、JR福間駅)

6月3日(火)JR教育大前駅(宗像市)に50名が集合。 
昔の姿そのまんまの街道筋、宗像市・赤間宿から福津市・畦町宿までの12kmを「健康維持と歴史探訪」を兼ね、気分も軽やかに歩きました。
途中、沿道の酒造元・公民館・民家の方々の親切な対応に感謝し、下校時の可愛い小学生たちと大きな声で「こんにちは~」の素直な挨拶合戦!それぞれの小さい頃のふるさとを思い出し、歩きながら、話しながらの楽しい一日でした。(野田 弘信)

赤間宿
赤間 は昔、「赤馬」という地名で由来は神武東征の折、八所宮の神が赤い馬に乗って天皇を迎えたことから、「赤馬」=「赤間」と呼ばれるようになったと伝えられているそうです。
江戸時代の宿は1宿が1町村を形成している場合が多く、唐津街道の宿駅、筑前21宿のひとつである赤間宿も赤間村と呼ばれていたそうです。街道筋には旅館や商家が建ち並び、この附近一帯の交通、文化、経済の中心で現在も辻井戸や造り酒屋を始めとする大きな商家など、江戸時代からの建物が多く残っていました。
須賀神社
JR鹿児島本線教育大前を降りて南側にでるとすぐ近くに赤間宿を代表する須賀神社がありました。須賀神社は永禄9年に赤馬(間)の鬼門除けとして、菅原道真を祭神とする神社だそうです。
一の鳥居の前には宗像三偉人の一人「節婦阿政之碑」がありました。(宗像三偉人とは、武丸の庄助さん、節婦阿政、土穴のはん、以上の三人。)
新入会員の笠井柳子さん、松永八郎さんの紹介です 準備体操後、いよいよ12kmの歩こう会へ
五郷西遷之碑
法然寺の南には三条実美ら五人の公卿が赤間の宿に逗留したことを記念して立てられた
五卿西遷之碑が立っていました
赤間宿の案内板前で
赤間宿の勝屋酒造     勝屋酒造のホームページ
昔の面影を残す勝屋酒造・「楢の露」看板と杉玉(杉ぼて)が残っていました。杉玉(杉ぼて)は別名酒林とも云い、造り酒屋で新酒が出来た事を知らせる為に軒先に吊るしたものですが、現在は造り酒屋のシンボルとして常時吊り下げているそうです。 畦町宿では杉ぼてと呼んでいます
創業は1790年です 歴代首相直筆の「国酒」
赤間宿には白壁と甲造り屋根の家が多いく宿場町の雰囲気を残していました。赤間宿には七つの辻井戸があったそうですが、現在は町の中ほどにあるひとつだけだそうです。
節婦阿政(せっぷおまさ)
200年前、赤間村の豪商大黒屋七兵衛の後妻の娘として生まれた阿政は幼くして両親を亡くし、以後腹違いの姉夫婦に育てられました。18の時、姉夫婦から大庄屋との縁談を勧められましたが、阿政には亡父の遺言による本家筋にあたる長次朗という許婚がいました。阿政は育ててくれた姉夫婦への恩、本家筋への義理と貞節の岐路にに悩んだ末に婚礼の夜、「わが身ひとつかくごを極め参らせ候」と自害しました。頼山陽の「節女阿正の伝」(稿本には「赤間駅節女伝」)にも記され婦女子の鏡とうたわれています。
(須賀神社
境内入り口左にあった節婦阿政の碑)
原町(はるまち)
豊前小倉から、宗像、博多、を通り唐津へと向かう「唐津街道」は、赤間宿からこの南郷地区の原町・大穂を通って福間の畦町宿へ。
原町は赤間宿と畦町宿の中間の(合いの宿)で公認された宿はなかったそうです。  
コミュテイセンター南郷で昼食休憩後、原町から畦町宿までの歩こう会
中村研一・琢二 生家美術館
洋画壇の重鎮の中村研一画伯 (弟の琢二と共に宗像市原町出身の有名な画伯、研一は戦前の洋画壇の重鎮的存在で日展常務理事として活躍し昭和四十二年七十二歳で死去。)は原町出身でここの生家が記念館として開設されていました。
美術館の庭のアカンサスの花:Acanthus
南ヨーロッパ・南西アジア・北アフリカ原産のキツネノマゴ科の耐寒性大形多年草、属名のAcanthusはギリシア語のakantha(とげの意)に由来し、葉や根にタンニンを含み、下痢止め、止血に使われたそうです
原町の村中を抜けると急に視界が開け、向うに宗像三山の一つ、『許斐山』を眺めながら大穂へ 
原町から大穂(おおぶ)へ
大穂(おおぶ)界隈
太閤橋
この橋を地元の人々は『太閤橋』と呼んでいます。
この橋を下から覗いて見ると川底、側壁は栗石を敷き詰めた頑丈な造りで、狭い川幅にしては異常な程の石積みでした。 昔、よほどの重要な人物(太閤秀吉?)が、この街道を通る為に造られた橋であると推測して、村人達はこの橋を太閤橋と呼ぶようになったとか
宗生寺(そうしょうじ)
旧唐津街道から少し東側に入った所にある宗生寺(そうしょうじ)。この寺の歴史は古く、文明15年(1483年)宗像十四城の一つ、許斐(このみ)城主多賀出雲守隆忠が亡父のために創立した禅宗(曹洞宗)の寺です。
山門は、名島城の搦手(からめて)門を移築したものと言われています。また、寺の後方には桃山時代の武将で筑前の領主であった小早川隆景の墓所があります。宗生寺庭園には3,000本のツツジが植えてあり、4月末から5月初めにかけて鮮やかな赤やピンクに彩られます。
境内の裏山には大穂の馬頭観音があり、奈良時代の僧行基作といわれる秘仏「馬頭観音」があります。33年に2回開帳(前半17年、後半16年の2回)され、最近では平成2年4月15~4月21日に開帳されました。
馬頭観音へは、宗生寺本堂の、右手奥へ階段を上がり、細い急坂を、200m 登り付いた高台に観音堂があるそうです。
馬頭観音観音堂 馬頭観世音菩薩
平成18年4月15~21日 御開扉
宗生寺へ 宗生寺からの帰り
本日の歩こう会の一番の峠、山口峠(やまのうちとうげ)を黙々と歩いています
太閤水
天正15年(1587年)三月、豊臣秀吉は島津制圧のため軍勢と共に小倉に入城し、25万の軍を二手に分け、自らは筑前から肥後路へと南下しました。黒崎、赤間を過ぎ山の口峠(八並)越えた所で秀吉は大休止を命じ水を求め千利休が土地の老人の案内で清く冷たい湧き水を得て、この水で喉を潤した秀吉は大変美味しかったと見え、利休に「この水の味、京に戻っても決して忘れるな」と言ったといわれています。秀吉は5月には九州平定を完了し、箱崎宮に本陣を置いて約1ヶ月滞在し、この間に国割り、町割り、禁教令などを施行、茶会、連歌会を催したりして、7月箱崎を出立して帰路についた。 折から炎天の中、再び山の口峠にさしかかる前に馬を休め、この水で喉を潤し大変喜んだと伝えられています。以来、この清水を『太閤水』と呼ぶようになったそうです。
畦町(あぜまち)宿
この宿は、東の構え口(入口)から西の構い口まで約550mあり、御制札所(高札)、問屋(伝馬荷物の中継所)、郡屋(郡の集会所)、役人詰所などあり、また、酒造り、麹屋、紺屋等の商家が多く、往時は相当に賑やかな宿場だったそうです。
明治年代に入ると旧藩時代の宿駅は廃止され、明治二十三年(1890年)になると九州鉄道が畦町宿から遠く外れた福間町に通じる様になり、また、大正時代になると国道が、これまた遠い所(現在の手光付近に)に通じた為、この畦町宿は急速に寂びれてしまいました。
今日では、畦町は昼間でも人の往来は少なく静かな佇まいの村通りを今も保っています。
九州鉄道が計画された頃、最初は畦町宿を通す計画もありましたが、宿内の人達の反対にあって駅の実現されず、鉄道の線路は、現在の八並付近から大きく西へ曲げられてしまいました。 
村人達の反対理由の一つに「もし鉄道が通じると便利になり旦那衆が博多の色町へ遊びに行くようになるから……」と云う面白い逸話も残っています。
八幡宮のソテツ 八幡宮前で休憩して野田さんより畦町宿の説明を聞く
高村直嗣

畦町の初代定礼医として献身的な医療を行い、今の国民健康保険の礎を築いた人で彼の功績に感謝して上西郷村の人々より碑がたてられました。
畦町宿を歩く 宿庄屋を見学
内殿バス停(JA上西郷)で本日の12km歩こう会を解散しました。バスで福岡天神行き組みとJR福間駅からJR博多駅方面組みと判れてそれぞれ帰路に着きました。