日時 平成19年6月5日 (火)  
参加人員 57名
コース 対馬藩秋葉町 〜 佐賀藩轟木宿 → 五反三歩池 → 郡境石 〜 中原宿 →追分石 〜 田手宿 → 
一里塚 〜 櫛田神社 〜 神崎宿 → 吉野ヶ里歴史公園センター 〜 吉野ヶ里遺跡(外環状) 〜  
吉野ヶ里歴史公園駐車場 → バスR385 → さざんか道の駅 → 西鉄大橋

6月5日(火)福岡市天神日銀前に57名が集合、貸切バスにて鳥栖市まで直行。早速、江戸時代の長崎街道「轟木宿〜中原宿〜神崎宿」の間にある、一里塚や宿場・神社仏閣を探訪しました。
午後は「弥生人の声が聞こえる!吉野ヶ里歴史公園」を訪ね、総延長2.5kmにも及ぶ外環壕に囲まれた、環壕集落内の復元建物の数々を見学しました。
当日は、親子二代にわたり吉野ヶ里遺跡の発掘保存に人生
の全てをかけてこられた、佐賀県文化財課の七田忠昭さんより、弥生時代の北部九州と中国・朝鮮との国際情勢の説明と現在でも続けられている「壷棺墓地」の発掘調査現場の案内をしていただいきました。この遺跡がわが国の国策として未来永劫保存されるよう、我々も協力しなければと心に誓った次第です。
歩行距離7km。
(野田 弘信)

対馬藩秋葉町 〜 佐賀藩轟木宿
秋葉町の町並み
轟木宿は鍋島藩領の東端にある宿場町で、上町、中町、下町、新町の四町からなっていました。対馬藩領とは轟木川を境にして分かれていました。江戸時代の記録には、「人家140軒ばかり、宿屋・茶屋多し」と記されています。
轟木川は対馬藩では西郷川、鍋島藩では番所川と呼ばれていて川の西岸の轟木宿の入口に旅人の荷を改める藩の番所があったそうです。二重鎖国体制を取っていた鍋島藩は、番所に侍1人と足軽9人を置いて、出入りする旅人を厳しくチェックしました。
番所川を渡り、少し行くと右手に静かなたたずまいの日子(ひこ)神社があります。旅人はここで旅の無事を祈りました。神社の境内には肥前石工がつくった独特の形をした鳥居が今も古めかしい姿を見せています。日子神社の鳥居の左手には制札場(=高札場)があり、幕府の法令を掲げていました。伊能忠敬はこの制札場を長崎街道測量の基点にしていました。
日子神社は、初代藩主鍋島直茂が1597年に創建し、代々藩主は参勤交代時に道中の安全を祈願していたそうです。また、ここには御触書を掲示した高札場でもあったそうです。
中原宿の宿場の真中に、昔の旅籠屋が残っていました。岡崎屋の屋号をもつ建物は、結構大きな家で、2階が客室になっているようです。2階の手すりには、透かし彫りで「中原駅岡崎屋御定宿」と書いてあり、これが看板にもなっているそうです。
五反三歩池
「五反三歩池」という面白い名前の池。名前の由来は五反三歩の水田をつぶして、この1500坪に及ぶ溜池を作ったそうで、今も付近の水田を潤しています。ここの地名も村田町五反三歩です。
五反三歩池は溜池を作る時五反三歩の水田をつぶしたことから、その名が由来するとされるかんがい用水池です。
鍋島藩内の治山治水に数多くの功績をもつ成富兵茂安が最初に作った溜池と言われ、またその形が似ていることから名付けられた”尺八”と呼ばれる排水調節樋管が最初に設けられた溜池とも言われています。
満水面積はおよそ二町六反で、村田・江島・三島・北茂安などの水田約100町歩(ヘクタール)をうるおしています。
築造年代は記録がなく不明とせざるを得ませんが、同じく市内に築造されている「幸津井樋」が寛永3年(1626)であることから、その前後と考えられています。
一里塚 〜 櫛田神社 〜 神崎宿
江戸時代、神崎には藩の迎賓館(御茶屋跡)や脇本陣の武家宿、外国使節団の宿舎などがあり、宿場の東西の出入りは厳重な木戸を構え午前6時ごろに開門し、午後10時頃に閉門していたそうです。
ひのはしら一里塚
里程の目印として街道の一里ごとに置かれました。
慶長9年(1604)に幕府は日本橋を起点に主要な街道に一里ごとに一里塚を置いて目印とすることを命じました。神埼宿の一里塚は長崎街道の一里塚の中でたった一カ所現存している貴重なものなのです。当時の旅人はこの下でひと休みしたと思われます。
櫛田神社
櫛田宮は旧長崎街道神埼宿のほぼ真ん中に所在し、日本全国実測者伊能忠敬も、櫛田宮の鳥居に起点をおいた。(現在道路元標がある)また郡の中心的存在でもあったそうです。
南に面して参道、石造太鼓橋があり、境内には佐賀県重要文化財指定の肥前鳥居、同じく神幸祭絵馬をはじめ、能舞台、随臣門、琴の楠、琴の池、庚申石祠、オランダ大砲、神埼素麺碑など見るべき所も多いようです。
吉野ヶ里歴史公園〜吉野ヶ里遺跡
歴史公園センター 入口前で
吉野ヶ里遺跡の見学
親子二代にわたって吉野ヶ里の発掘、調査、保存に情熱をかけてきてNHK番組プロジェクトXでも取り上げられた七田忠昭さんに吉野ヶ里の説明と発掘現場の案内をお願いしました。七田さんは口ひげに白いものが混ざっていて人懐っこい表情で誠実に対応していただきました。
吉野ヶ里歴史公園
佐賀県神埼市、神埼郡吉野ヶ里町にまたがって存在する弥生時代の集落・墓地跡。1986年から佐賀県教育委員会によって発掘調査が開始され、現在もなお継続した調査が行われている。
これまでの調査より、弥生時代前期初頭に小規模な環壕集落が丘陵南端に形成され、前期には3ha、中期には推定20ha超、後期には40haを超す大規模な環壕集落へと発展したことが判明し、後期後半には望楼を備えた環壕によって囲まれた特別な空間(北内郭・南内郭)の存在が確認されている。北内郭は内部に中期の墳丘墓に南面する祭殿と目される大型建物を含む掘立柱建物跡が存在するなど、司祭者の居住・祭祀の場と考えられ、南内郭は高階層の人々の居住区と考えられる。南内郭西方に存在する大規模な高床倉庫と目される掘立柱建物跡は、その規模・構造から「市」の存在も推定されるなど、クニの中心集落へと発展した姿を読み取ることができる。また、前期末から大型甕棺墓が盛行するが、中期の600mに及ぶ長大な列状の集団墓地などとともに、歴代首長を埋葬したと考えられる大規模な墳丘墓が存在し、銅剣やガラス製管玉、絹布片などが出土するなど、階層分化と首長権確立のありさまを示している。(佐賀県HPより)

北内郭 〜神への祈り〜

吉野ヶ里集落だけでなく、吉野ヶ里を中心とするクニ全体にとって、最も重要な場所であったと考えられています。田植えや稲刈りの日取りを決めたり、季節ごとのお祭りの日を決めたり、また大きな「市」を開く日取りを決めるなど、吉野ヶ里を中心とするクニ全体の重要な物事についての儀礼的な話し合いと祖先への祀りが行われていた場所と考えられています。また当時は、重要な物事が話し合いでは決まらない時には、最高司祭者(祖先・神の声を聞くことができる特殊な能力を持った人)に祖先の声を聞いてもらい、その声に従って決定していったと考えられています。

南内郭 〜王たちの住まい〜

吉野ヶ里が最盛期を迎えた頃、吉野ヶ里の集落を始め、周りのムラムラを治めていた王やリーダー層の人々が住んでいた場所と考えられています。周囲を環壕と城柵で囲まれ、敵を見張ると同時に吉野ヶ里集落の権威を示すシンボル的役割を持っていた物見櫓と考えられる建物跡が見つかっていること、人々が住む竪穴住居が中心であること、当時としては極めて貴重な、一部の有力者しか持つことができなかったと言われている鉄製品が数多く見つかっていることなどから、このように考えられています。

遺跡展示室