西南の役【田原坂】を歩く
【日時】      平成18年2月7日(火)9:00〜18:00
【参加人員】     56名 
【コース】 植木役場〜官薩軍緒戦の地(植木天満宮)〜河原林少尉戦士の地(植木向坂)〜荻迫神殿弾痕跡(菅原神社)〜薩軍美少年の墓(萩迫柿木台場)〜木葉経由〜吉次峠/半高山〜篠原国幹戦傷の地〜官軍病院跡〜豊岡眼鏡橋〜一の坂〜二の坂〜谷村計介之碑〜三の坂〜田原坂公園〜七本柿木台場跡(薩軍墓地)〜七本官軍墓地〜植木町役場
「雨は降る降るじんばは濡れる越すに越されぬ田原坂」とうたわれ、今から130年前のわが国最後にして最大の内戦!「西南戦争・田原坂」の戦跡を訪ね歩きました。2月7日(火)朝、福岡天神より56名を乗せたバスは一路熊本県植木町へ向かって走る。車中では関係資料及びVTRによる事前勉強。 現地では自衛隊出身の方による戦跡案内今でも残る130年前の戦闘の痕跡、いやがうえにも気分が高まる。最後は、官薩両軍の墓地におまいりし帰路についた。天神に着いたときはもう夜のイルミが点滅していた。 現地における歩行距離は7km。(野田 弘信)
この2枚の写真はクリックすると拡大します
河原林少尉戦死の地 植木天満宮
明治十年二月 二十二日、乃木少佐率いる歩兵第十四連隊は向坂で薩軍と遭遇。この日の戦闘が田原坂をめぐる序章となり向坂には第十四連隊旗手で戦死した「河原林少尉戦死の碑」が残り、この戦闘で十四連隊(乃木少佐)は連隊旗を薩軍岩切正九郎に奪われこのことは明治天皇に殉死した乃木大将の遺書で明らかとなりました。また、この戦闘で乃木連隊が撤退し自決しようとした千本桜の地には「乃木大将記念碑」があります。 両軍の緒戦の地。2月22日、乃木少佐の前衛隊と薩軍の村田および伊藤隊が衝突。田原坂をめぐる激戦の戦端が開かれました。
 萩迫柿木台場、薩軍美少年の墓
民謡「田原坂」に唄われた美少年のモデルの一人、「束野孝之丞戦歿碑」等があり、「君八日州庄内ノ人 西南役僅年十五才ニシテ薩軍ニ投ジ奮戦此地ニ没ス 時ニ明治十年二月二八日義軍遂ニ敗レシモ君カ英霊ハ永ク此地ニ眠ラン」と刻まれています。
荻迫神社
植木木留の戦(3月21日〜4月15日)の中心地で吉次峠陥落後の四月上旬、木留や辺田野およびこの地周辺では官軍の猛烈な追撃戦が展開され神社の板壁などには数十発の実弾が食い込んだ弾痕がのこっており貴重な戦跡です。

荻迫神社の弾痕

吉次峠戦跡(西南の役)
吉次峠も三大激戦地の一つで、薩軍防衛線最後の牙城となった地である。薩軍が死守した吉次峠は、官軍に”地獄峠”と恐れられた険しい場所で、両群の間に屍累々の攻防戦が展開された。また、佐々友房が詠った詩が刻まれた詩碑もあります。
豊岡眼鏡橋
麓の豊岡眼鏡橋からの標高差は僅か80mの田原坂。一の坂、二の坂、三の坂と頂きまで1.5Kmの曲がりくねった道が続く。この道だけが唯一大砲を曵いて通れる道幅があり、この坂を越えなければ官軍の砲兵隊は熊本へは進めない。また薩軍にとっては生死を制する道であり、ともに戦略上の重要地であり、この平凡な坂道が激戦の舞台となったのである。この橋は享和二年(1802年)江戸時代後期に作られた橋で、年号のはっきりしている石造眼鏡橋では熊本県内で最古の橋といわれています。橋の北側川沿いに続く道が当時のままの高瀬街道の一部です。
田原坂
「田原坂の戦い」は西南戦争の最大の激戦である。西郷隆盛率いる薩摩軍と明治政府の官軍がこの地で激突。戦いは明治10年3月4日〜3月20日までの17日間行なわれた。薩摩軍は官軍の守る熊本城を包囲、落とそうとした。北から熊本への唯一の補給陸路でもある田原坂を固めることにより官軍の南下(熊本入り)を阻止しようとしたのである。田原坂は、戦国武将加藤清正が防衛の要地とした。道を凹形に深く掘り込み、その坂の両端に土手を積み上げ断崖絶壁にし、通過する敵を攻撃しやすく作った坂道です。この田原坂は大砲や荷駄馬が北から熊本に入るための唯一の陸路でありました。
一の坂
二の坂
三の坂
谷村計介之碑
官軍本営に連絡を取るために密使として熊本城を抜け出した谷村であったが、途中で熊本隊に捕まりました。「老婆を残してきたので城を脱走した」と偽り、数日薩軍に身を寄せていたが隙を見て逃げ出し、見事任務を完遂した。その後、田原坂の戦いで戦死している。戦死の日付は三月四日、田原坂緒戦の日です。後、十六昼夜官軍はこの先約300mを“越すに越されぬ”戦いに明け暮れたと云われています。
田原坂公園・田原坂資料館
田原坂公園は、いまではツツジや桜の名所として知られる美しい公園です。西南の役では17日間にわたる戦闘が繰り広げられた激戦地でした。園内には、激戦の跡が生々しい弾痕の残る家(復元)や慰霊塔・土蔵造りの資料館が建ち、往時の戦いを知ることができます。官軍が田原坂の戦闘で消耗した小銃の弾薬は、一日平均32万発、死者は官軍だけで1日平均100名にものぼったそうです。資料館には当時の貴重な官薩両軍の武器・弾薬・備品などの遺品や戦争資料が展示しています。
田原坂公園 駐車場よより (美少年像)『雨は降る降る じんばはぬれる こすにこされぬ 田原坂  右手に血刀 左手に手綱 馬上ゆたかな 美少年』この美少年像は 西南の役田原坂の戦いで散った若者たちすべての象徴です
田原坂資料館の隣にある土蔵ずくりの家は、無数の弾痕が残り、戦いの激しさを物語っています。
(西南の役戦役者慰霊之碑)この慰霊碑は、明治十年(1877年)の西南の役で戦死された官軍6923名、薩軍7186名、殉難者29名の御霊の安らかならんことを願って建立したものです。
七本柿木台場薩軍墓地
明治十年三月初旬から 四月中旬まで続いた田原坂周辺の戦いで、木留・七本原付近で戦死した薩軍や熊本隊の兵士329名が埋葬されている薩軍墓地。地域的に見て官軍が田原坂の攻略に成功 した時期の死者とみられています。ここが三月二十日田原坂陥落のきっかけとなった陣地です。
七本官軍墓地
西南戦争で戦死した政府軍人・軍夫・ 警視隊を埋葬した官軍墓地は県内に21ヵ所つくられている。この七本官軍墓地には、「田原坂の戦い」のあと、植木や吉次・木留、辺田野・平野・滴水などで戦死した各鎮台および近衛兵300余名が埋葬されている。 大きな二本の木の下に実際の死体は埋められたと伝えられる。カエデの木の下に軍夫の墓や連隊旗手河原林少尉の墓があります。