龍光徳寺 |
中山身語正宗という大正の頃に真言宗から独立した宗派らしい。 |
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午前10時に龍光徳寺入口に集合後、世話人の野田さんより本日の説明を受ける。 |
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新入会員の紹介(右から加藤敏明さん、牟田慎一郎さん、渡辺巌さん) |
いきなりの急階段ですでに息があがる。 |
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龍光徳寺の本堂、後ろに五重塔が見える。 |
龍光徳寺の立派な境内 |
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五重塔 |
基山山頂へ |
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◆なぜ基肄城が築かれたか
西暦600年ごろの朝鮮半島は、西に高句麗(こうくり)、北に新羅(しらぎ)、南に百済(くだら)の三国があり、新羅は高句麗・百済と、そして高句麗は中国の唐(とう)と戦っていました。
唐は新羅と連合して百済討伐の軍を起こし(660年)、百済国を滅ぼしました。百済滅亡直後から各地で百済を再興しようとする気運が高まり兵をあげ、日本に助けを求めてきました。日本の斉(さい)明天皇(めいてんのう)はこの求めに答えて5千の兵を百済に送りました。
これにたいして唐も大軍を派遣し、白村江(はくすきのえ)の地で唐の水軍と対戦したが大敗してしまいました。すると一転して唐・新羅の侵攻に備える必要がでてきました。
天智天皇は対馬、壱岐、筑紫などに警備の兵である防人(さきもり)を置き(664年)、大宰府の前面に水城を築き、665年に大野城(福岡県)および基肄城の2城を築きました。基山(きざん)は、そのころ九州を治める役所のあった大宰府の南8kmのところにあります。人々は大宰府から肥前(ひぜん)の国(佐賀県・長崎県)や筑後(ちくご)の国(福岡県南部)に行く場合、基山(きざん)のこの地を通っていました。そこへ敵を防ぐための城を築いたわけです。
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山頂に岩屋があり、仏様でなく神様のようで、たくさんのお神酒が供えられている。合格祈願などと書いて奉納された日章旗が、風にはためく。左の塔は天智天皇欽仰之碑 |
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基肄城は、大宰府政庁の真南、朱雀大路(すざくおおじ)の延長線上に位置する筑紫野市と佐賀県基山町との県境にあります。標高404.5mの基山(坊住山(ぼうじゅざん))と、414mの北帝(きたみかど)、さらに東峰にまたがり、南に向かって開く谷を取り囲むように尾根づたいに総延長約4qにおよぶ土塁や石塁を築いています。城門が北の筑紫野市側に2ヶ所、南の基山町側に2ヶ所確認されています。また、基山町側の南門跡には高さ8.5mも積み上げた石塁と長さ9.5mの頑丈な水門跡があります。基肄城は、大野城とくらべて発掘調査があまり進んでいないために注目されてないようですが、これまでに武器や食料などを貯える40棟余りの倉庫と思われる建物跡の礎石が多数確認されています |
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・基肄城の土塁の長さ:4.3km
・基肄城城門の数:北帝門、東北門、東南門、南門の4門
・1つの水門と武器や食料を蓄える建物の跡:34カ所確認
・関屋土塁、とうれぎ土塁:水城 |
・霊霊石 : 昔荒穂神社の神(五十猛)がこの山に鎮座した頃のご神体 ・天智天皇欽仰之碑 : 昭和7年、基山小学校生徒の奉仕により建立 |
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幅の狭い馬の背のような稜線に平行した4条の窪みが掘られていて、その間に3基の蒲鉾状の小さな隆起がならんでいる。形状が芋畑の畝ににていることから「いものがんき」と呼ばれているそうな。 |
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44個の礎石があり、基肄城跡礎石群中最大のもの。間口約28m、奥行き約9m
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基山山頂の土塁跡であるが、土塁の形状は崩れている。
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大礎石郡から山頂へ |
基肄像城跡で昼食
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本日は北峰往復は中止して予定より早く龍光徳寺に到着して休憩後解散。 |