多くの犠牲者を出し、バスに乗り遅れた!!
福岡藩【明治維新への道】を歩く
【日時】      平成16年12月7日(火)
【参加人員】   65名 
【コース】  松下電工〜浄水通〜平尾山荘〜桜坂〜加藤司書屋敷跡〜梟の杜〜月形洗蔵屋敷跡〜野村望東尼生誕地〜菊池神社〜護国神社大濠会館〜広田弘毅銅像〜平野神社〜桝木屋獄舎跡〜正光寺〜平野国臣像〜光雲神社〜西公園展望台〜鳥居→忘年会(すし幸)
12月7日(火)薬院の松下電工に65名が集まり、会議室にて約一時間140年前の福岡藩の幕末・明治維新について事前学習を行いました。学習後「尊王か」「佐幕か」藩は真っ二つ割れ、その犠牲となって散っていった加藤司書・月形洗蔵・平野国臣・野村望東尼等の尊王志士たちの遺徳をしのびつつ活動拠点や屋敷跡などを訪ね歩きました。歩行距離8km、最後は「すし幸港町本店」にて和気あいあいの忘年会を行い「博多手一本!」で〆ました。(野田 弘信)
関連情報のリンク先 野村望東尼 広田弘毅 西公園・光雲神社 中央区の見所
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松下電工 〜 浄水通
今回は松下電工さんのご好意で会議室を借用し、世話人より年間の歩こう会の記録(松九会HP)と野村望東尼のビデオを紹介して本日のコース説明を行っていよいよ浄水通へスタート。
平尾山荘公園【野村望東尼(のむらもとに)】
市立動植物園の近くの平尾5丁目にちょっとした山荘公園があり、その一角に野村望東尼(のむらもとに)山荘がある。野村望東尼(のむらもとに)は幕末の福岡藩士であった野村新三郎の妻で「もと」と言う名前であった。女流文学者であった「もと」は新三郎亡き後、高杉晋作や平野国臣などの勤王の志士達を庇護し、この山荘は一時期志士達のアジトになっていたという。高杉晋作も元治元年(1864)に長州藩の保守派に命を狙われるようになり、危機を察して脱走し、同年11月に野村望東尼(もとに)の平尾山荘に潜伏し難を逃れた。しばらく滞在して下関に帰り同年12月に奇兵隊等諸隊の決起を促して下関市長府の功山寺で挙兵したのである。この挙兵はイチカバチかの掛けであったが、結果的に大成功して明治維新につながったのである。
「もと」は志士達を庇護した罪で捕らえられ糸島にある姫島 に流された。しかし病に伏していた高杉晋作の命を受けた長州の救出隊が夜陰にまぎれて姫島に上陸し「もと」を救出し下関に連れて行った。その後「もと」は高杉晋作の最期を看取り、62歳で山口県の防府で亡くなった。この「野村もと」のことを野村望東尼(のむらもとに)と言っている。そういうわけで、ここ山荘は高杉晋作達が出入りし幕末の動乱期を見守ってきた家なのである。明治維新はいろいろな人達の命がけの苦労の末に成し遂げられたのですね。今我々がこのような生活が出来るのもこの人達のおかげなのである。
加藤司書屋敷跡 〜 月形洗蔵屋敷跡
●加藤司書
福岡藩家老。福岡藩における勤王運動の中心人物である。元治元(1864)年の禁門の変に際し、福岡藩は藩兵500人を禁裏守護のため京都へ派遣することになり、司書がこれを率いて本国を発したが、第一次長州征伐により派兵は中止となった。司書は征長軍議に参加のため広島に赴き、征長軍の解散を主張し、薩摩藩代表の西郷隆盛と謀り、ついに征長総督徳川慶勝に解兵の決定をさせた。この結果、長州滞在中の五卿は筑前太宰府へ移ることとなり、これを迎えることに斡旋・奔走し、翌慶応元(1865)年正月五卿の太宰府に移るや、その保護に心を注いだ。爾来福岡藩内の太宰府は勤王運動の中心地の観を呈した。同年2月家老となり、郡町浦事務総宰・財用方元締を命ぜられた。時に幕府に長州再征の挙あるを聞き、解兵に奔走し、また西郷に謀って薩長連合を説き、両藩の間に奔走した。たまたま藩内に佐幕派の勢力が台頭し、わずか三ヵ月で家老の職を退いた。その後藩内の勤王派の弾圧事件が起り、罪を得て家に禁固され、博多の天福寺で自刃を命ぜられた。享年36歳。
●月形洗蔵
福岡藩士。嘉永三(1850)年3月家を継ぎ、馬廻組に加わり、のち大島の定番となったが、まもなくこれを辞した。万延元(1860)年5月藩主黒田長溥の参勤交代に際し、尊王的立場から参勤交代の非を説いた建白書を提出し、さらに8月には藩政の腐敗を批判した建言をした。これがため11月捕えられ、翌文久元(1861)年家禄没収のうえ、御笠郡古賀村に幽閉された。同三(1863)年6月加藤司書らの建言により家に帰ったが、なお門外に出ることを禁止され、元治元(1864)年5月罪を許されて家禄を復し、町方詮議掛および吟味役を命ぜられ、爾来薩長二藩の融和に奔走し、長州征伐軍の解兵に努め、慶応元(1865)年正月五卿の筑前太宰府に移る時、早川養敬と下関に迎えてこれを案内した。しかし幕府の長州再征に際して藩論一変、佐幕派の専制に帰し、加藤司書ら勤王派藩士と共に捕えられて処刑された。享年38歳。
野村望東尼生誕地 梟の杜
菊池神社 
肥後の豪族・菊池武時を祭った神社。鎌倉末期、菊池武時は後醍醐天皇の命を受け、九州探題北条英時を攻めたが敗走し、この地で戦死したと伝えられる。毎年7月には夏越祭、11月には菊花大祭が盛大に行われる。
護国神社大濠会館〜広田弘毅銅像
明治維新より第2次大戦に至る福岡県出身の殉国の英霊12万余柱を奉齏。大濠公園の東南に位置し境内は2万坪余り。春季大祭(5月3・4日)、秋季大祭(10月9・10日)には参拝者が多く、特に春は博多松ばやし、博多どんたくの参拝で賑う。お盆はみたままつり(8月13〜16日)の提灯ぼんぼりが1万数千灯り、境内は不夜城と化す。 
●広田弘毅 ひろたこうき
1878〜1948(明治11〜昭和23)外交官,政治家。福岡市生れ。修猷館中学,一高を経て,1905年(明治38),東大法科卒業。早くから玄洋社と関係し,その思想的影響を受ける。1906年(明治39),外務省に入り,1922年(大正11),情報部次長,1923年,欧米局長,1926年,オランダ駐剳公使,1930年(昭和5),駐ソ大使などを歴任。1933年9月,斎藤実内閣の外相となり,ひきつづき岡田啓介内閣に留任し,その間1935年には広田3原則(排日停止・満州国承認・共同防共)を提示して日中国交の調整に努めた。1936年(昭和11),二・二六事件ののち内閣を組織(首相・外相兼任)し,軍備増強を軸とする「庶政一新」の方針をとった。その後1937年6月,近衛文麿内閣の外相として日中戦争を推進。貴族院議員,内閣参議となり敗戦まで重臣の1人として,戦争終結のためソヴィエトを仲介とする和平工作をはかったが不成功に終った。敗戦後,A級戦犯に指名され,極東国際軍事裁判で文官としてはただ1人,絞首刑を宣告され,1948年12月処刑された。
正光寺 
中村円太墓
平野神社平野国臣銅像(西公園)
●平野国臣
福岡藩士。少時小金丸家の養子となり、弘化三(1850)年19歳のとき小金丸源蔵と称して江戸黒田屋敷の普請方役人となり、ついで藩地宗像神杜の造営掛役を勤め、長崎屋敷役人に転じ、安政二(1855)年養家を去って本姓に復した。かつて和歌・雅楽・漢書等を学んでいたが、四(1857)年には有職故実を修めた。翌五(1858)年8月脱藩上京L、都甲楯彦と変名して勤王の志士と交わり、やがて安政の大獄が起るや、幕吏の追捕を逃れてしばらく筑後に隠れた。10月京都を逃れてきた僧月照の入薩を斡旋し、ともに鹿児島に入った。月照の水死後、宮崎司と変名して京へ赴き、ついで備中連島の豪商三宅定太郎の家に番頭として潜伏し、さらに下関の商人白石正一郎の家に潜んだ。こののち福岡藩の追捕は厳しく、薩摩・肥後・筑後・下関等を転々とLた。文久元(1861)年7月「尊攘英断録」を草して島津久光に呈し、王政回復のことを論じ、翌二年2月真木和泉と会し、久光を擁して伏見に義兵を挙げる計画を立て、4月上京し、「回天三策」を朝廷に密奏し、また西国志士と義挙を画策した。たまたま藩主黒田長溥が参府の途次、久光に説いて義挙を阻止させるとの風説が伝わったので、国臣は長溥を播磨大蔵谷に迎えて上京すべきでないと諌止した。長溥はやむを得ず病と称して帰国したが、国臣は藩吏に捕えられ、藩主とともに帰藩させられ投獄された。翌三(1863)年3月赦されて徒罪方役人となり、7月上京を命ぜられ、草香江水際と変名して本国を立ち、8月16日学習院出仕を命ぜられた。ついで中山忠光の天誅組挙兵鎮撫の命を受げて五条に赴いたが、その間京都では八月十八目の政変により尊攘派は一掃され、国臣もまた鎮撫に失敗し、三田尻に赴き、七卿の一人沢宣嘉を但馬に迎え、10月12日生野代官所を襲撃した。時に国臣は佐々木将監と変名した。しかしこの挙兵は沢が突如本陣を脱出したため敗走となり、国臣は因幡に逃れようとして、15日城崎で豊岡藩土に捕えられ、幽囚されること80余日、翌元治元(1864)年正月京都へ送られ六角の獄へ投ぜられた。禁門の変に際して在獄の37人と共に斬首された。享年37歳。
光雲神社(西公園) 
光雲神社(てるもじんじゃ)は黒田如水と黒田長政を祀っている神社です。 拝殿の天井に鶴が描かれてます。おさい銭を入れると鶴の一声が聞こえます。5円以上で1円では軽すぎて鳴きませんので注意を。
  
                                                        横綱・柏戸関の力石
光雲神社の境内には「酒は飲め飲め飲むならば日の本一のこの槍を・・・・」で有名な黒田武士の母里太兵衛像があります。
西公園展望台
万葉の時代に荒津山と呼ばれた景勝地。園内には黒田如水・長政を祀った光雲神社、母里太兵衛と幕末の志士平野国臣の銅像、加藤司書の歌碑、徳富蘇峰の詩碑、万葉歌碑などがある。展望台からは東に福岡市街地、北に博多湾や海の中道、志賀島の景観が一望できて気持ちがいい。また約2500本の桜が植栽され、春は花見客で大いに賑わう。
忘年会(すし幸)
恒例の歩こう会忘年会は47名の参加で今年も盛大に行いました。おいしいふぐ料理とお酒でおおいに盛り上り楽しい忘年会でした。
天神のイルミネーション(帰りに撮りました)
福岡銀行本店前 警固公園
警固公園