博多祇園山笠と博多湾一周クルーズ
【日時】   平成16年6月2日(水)  
【参加人員】   56名   
【コース】  櫛田神社〜東長寺〜承天寺〜節信院〜妙楽寺〜聖福寺〜旧東町筋〜蓮池跡〜大博通り〜旧西町筋〜博多小学校〜豊国神社〜追い山ならし 周り止め〜櫛田神社浜宮〜ベイサイドペレイス博多埠頭〜ミュージアム〜博多湾クルーズ(東浜埠頭・箱崎埠頭・香椎パークポートコンテナターミナル・アイランドシテイ・博多湾一周)
6月2日(水)櫛田神社で「祝いめでたヤナ〜」を56名全員で唄い、山笠追い山コースを元気に歩き出す。 途中歴史上有名な神社仏閣を専門家の案内でお参りし、古代より「博多」が如何に我が国の重要な表玄関であったかを知ることが出来ました。加えて、昭和20年6月の博多大空襲で辛うじて焼け残った大正時代の古い町並みを歩き、私共の新入社員時代の博多が懐かしく思い出されました。午後は、港の見学専用船「なのつ」で、世界に開けた現代の「貿易港・博多」の盛況ぶりを見ることが出来、未来に向って発展していく我が「博多」に誇りと愛着を感じた一日でした。歩行距離6Km。(野田 弘信)
関連情報のリンク先 博多山笠HP 櫛田神社 承天寺 博多港 ベイサイドペレイス博多埠頭
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心配した雨も上がり今日は絶好の天気、櫛田神社境内集合後青道で博多祝いめでたを合唱後、福岡県観光アドバイザーの岡部さん、元大黒流の門田さんの案内で「追い山ならし」のコースを歩きながら博多の町の歴史を実証する社寺や史跡の探訪に出かけました。

「櫛田神社の清道」

 第一のカーブは、櫛田神社の境内に設けられた清道。追い山の中でも最も重要な、いわゆる「櫛田入り」をするところで、太鼓の合図でスタートした7つの山笠が、この清道をまわって出て行くまでの約3240秒の時間をめぐって争うことになる

櫛田神社
櫛田神社は福岡市の総鎮守としては最古の歴史をもち、正殿には大幡主大神、左殿には天照皇大神、右殿には素盞鳴大神(すさのうのおおかみ)が祭られています。戦国時代には戦火をまぬがれず一時荒廃しましたが、天正15年、太閤豊臣秀吉公の博多復興時に現在の社殿が寄進建立されました
本殿 櫛田神社楼門
「稜威(いつ)」とは、天子・天皇の御威光という意味だそうです」
博多ベい   拝殿右手裏 境内の山笠 楼門のえと恵方盤

天正十五年(西暦1587年)豊臣秀吉の太閤の博多町割り(戦災復興都市計画)によって、たくましくよみがえった市街には「博多ベいと呼ぶ土べいが長く連なった。郷土再興の悲願をそのままに、焼け石、焼け瓦が厚く塗り込められ、当時、重なる戦禍の焦土から奮起した根性と心意気を示して余りがある。このたび、博多三商傑の一人島井宗室の屋敷跡に三百八十余年の風雪に耐えた最後の「博多ベい」が四散の危機に直面するに当って、広く志を集め、ここに移築再建した。但し、右方は断面を表す。

十二支のレリーフを刻んだ円盤が楼門の天井に付いています、毎年大晦日にはこの円盤を新年の干支の方向に廻し恵方(縁起の良い方向)を示します
東長寺
大同元年(806)弘法大師「空海」が唐での修行後、建立。大師創建の寺としては日本最古であり、博多としても最古。建立当時は旧奈良屋小学校付近にあったらしいが、太閤町割時に、現在の所に移転したとの事。境内の大仏殿に安置されている「福岡大仏」は木造座像としては日本最大。高さ10.8m 重量30t 光背高11.1mで7仏や13仏が彫られ、後壁には15cm大の仏像が5000体彫られている(大仏殿は観覧無料)又,所蔵の「千手観音菩薩像」は重要文化財。六角堂は市指定建造物。

木造坐像では日本一の大きさである福岡大仏
承天寺
承天寺は聖一国師 円爾弁円によって仁治3(1242)年に開山された寺院です。山号は萬松山。
5才から修行を始めた弁円は嘉禎元(1235)年に34才で宋に渡ります。宋での6年の間に天竺僧柏庭月光から経を授かり、径山の万寿寺無準禅師から印可証明を授かります。そののち帰日して博多に到着、承天寺を開きました。源頼朝によって鎮西奉行に任じられた大宰少弐武藤資頼が大檀越となり、博多綱首(船主の貿易商)であった帰化宋人 謝国明(謝太郎国明)が援助しました。
勅許により官寺とされた承天寺は西海の巨利として栄え、盛時には四十三寺を有していたと伝えられていますが、現在では乳峰寺・天與庵・宝聚庵・祥勝院の四寺のみとなっており、駅の開設や都市整備などにより境内も狭まり、今では境内を二分するように道路が通っています。
境内には木造釈迦三尊像、絹本著色の禅家六祖像、高麗の銅鐘といった国指定重要文化財や、謝国明図像、県指定考古資料である完形の蒙古碇石(長さ209センチ、推定重量230キロ、凝灰岩製)を有しています。このうち蒙古碇石は覚皇殿の前にあるので見ることができますが、その他の寺宝の多くは圓明閣に収蔵されています。
承天寺にはオッペケペー節で名を馳せた新派劇創始者の川上音次郎の墓所や、聖一国師とともに宋へ渡って織物などの技術を学び帰国して後に仏具の華皿と独鈷を意匠化して博多織の基礎を築いた満田弥三右衛門の墓所があり、また聖一国師によって伝えられたということから「饂飩蕎麦発祥之地」の碑が立てられています。ちなみに羊羹・饅頭なども聖一国師が宋より伝えたとされています。
その他に、福岡藩勤王党の流れをくむ下級武士で組織され、のちに西南戦争で薩軍に呼応して決起した就義隊を偲ぶ「旧就義隊之碑」(黒田長成侯の筆)、お百度参りの石仏と将軍地蔵、鐘楼などが敷地内にあります。
妙楽寺
正和5年(1316)博多の北浜に建立された。元・明・朝鮮との交渉が深く、海外に雄飛した博多商人とも関連があり、大陸との貿易交流で賑ったが、天正14年(1586)島津の兵が博多に火を放ったため全焼してしまった。 慶長5年(1600)筑前国主 黒田長政により現在の御供所町に移るが、再び昭和20年大東亜戦争に際し、米軍の大空襲によって本堂庫裡が全焼する。その後再建が進められ今日に至っている。
 ういろう伝来の地
元の順宗に礼部員外郎として仕え、元の滅亡後日本へ亡命し帰化した陳延祐という儒医が、妙楽寺の明照庵に住んでいた。一般には陳外郎として知られる人である。彼が調整した寿薬「透頂香」は将軍足利義満に賞賛され、その秘伝は代々子孫が相伝え、後世には先祖の官名をとり「外郎(ういろう)」と称して京都・小田原より売り出して有名になった。この時に接待用で使っていたお菓子の名が、いつしか「ういろう」と呼ばれるようになった。
博多の豪商 伊藤小左衛門一家の墓 博多商人三傑の一人 神屋宗湛の墓
伊藤小左衛門道重は豪毅英邁、貿易に手腕を発揮し黒田藩の財用を助けて活躍していたが、徳川幕府が鎖国政策をとっている折から国禁を犯す者として捕えられ、一族郎党使用人に至るまで処刑された。この時、長男・甚十郎と幼い弟の小四郎(5才)、万之助(3才)の幼児に至るまで刑場の露と消えた。 神屋宗湛は貿易に従事して家産を興し、豊臣秀吉の知遇を得て、戦火によって荒廃していた博多の町を復興し、町割にも貢献した。千利休に茶の湯を学んだ風流人でもあり、彼の所持した名物茶入博多文琳、また宗湛日記は有名である
聖福寺   
鎌倉時代、建久6年(1195年)臨済宗始祖の栄西が建立。日本最古の禅宗の寺で、山門の後鳥羽上皇筆と言われる「扶桑最初禅窟」はその意味。日本最古の庭園は国指定史跡、所有の「大鑑禅師像」は国指定重要文化財。江戸時代の第123・125代住職「仙腰a尚」は「仙高ウん」として親しまれています。出光ガソリンスタンドの「○△□」は仙腰a尚の書画を図案化したもの。
東旧東町筋 蓮池跡 大博通り 旧西町筋郷 博多小学校
豊国神社 追い山ならし  

神屋宗湛(1553〜1635)博多を代表する貿易家。天正10年(1587)の大阪城茶会で秀吉から「筑紫ノ坊主」と呼ばれ、千利休と会席する茶人でもあった。町割りに使った6尺6寸の間杖は秀吉を祭る豊国神社(博多再興三百年、明治19年創建)の神体だったが、戦災で焼失した。宗湛の墓は妙楽寺にある。

         神屋宗湛屋敷跡・豊国神社

本日の追い山コースは博多1本締めで終わり、案内の岡部さん、門田さんへお礼をして博多港へ向かいました。
ベイサイドペレイス博多埠頭  ミュージアム 
博多を代表するウオーターフロントは福岡市一の繁華街である天神から歩いて20分ばかりの所の博多埠頭にある。
博多ポートタワー(103m)を中心にして、コンベンション施設や飲食店の入ったアメニティ施設、各地へ出港する船のターミナルビルなどがあり、恋人達のデートスポットの一つとなっている。とにかくいろんな船を眺めているだけで気分爽快になるぞ。
博多ポートタワーは無料で入場できるのがうれしい、博多ふ頭周辺の市街地や能古島志賀島などの展望がすばらしい
福岡を代表するウオーターフロント「ベイサイドプレイス博多埠頭」

博多ポートタワー(高さ103m)
ベイサイドプレイスの対岸(中央ふ頭)にあり西日本最大の合展示場を持つマリンメッセと港風景
櫛田神社浜宮        博多埠頭奥には櫛田神社の浜宮があり、山笠の棒洗いの神事はここでおこなわれます。
博多湾クルージング
港務艇「なのつ」に乗船してポートガイドの元タンカー船長の滝島さんの案内で博多湾一周をしました。