桜の宮地嶽神社と津屋崎千軒を歩く
【日時】   平成16年4月6日(火)  
【参加人員】 45名
【コース】   
鳥居前〜宮地嶽神社〜巨石古墳〜津屋崎町役場〜津屋崎千軒町並み〜豊村酒造藍の家(染物屋) 〜波折神社〜親子灯台〜東郷公園〜塩田跡〜塩浜口〜天降神社〜唐坊〜津屋崎駅
4月6日(火)「天気晴朗・・・」桜さくら!宮地嶽神社に45名が集合。日本一の大注連縄がある本殿と巨石古墳の奥宮に参拝。津屋崎千軒の繁栄の面影を残す町並を歩く。昼食は「皇国の興廃この一戦にあり・・・」日本海大海戦の大勝利100周年を記念して桜満開の東郷公園で花見弁当をいただく。午後は、津屋崎繁栄の基盤となった大きな内海「あらじ海」とそこに広がる「塩田跡」を一周、 途中古代宗像海人族の古墳群や唐坊跡などを散策しながら西鉄津屋崎駅に到着。本日の歩行距離13km。(野田 弘信)
関連情報のリンク先 津屋崎町HP 宮地嶽神社HP
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宮地嶽神社
宮地嶽神社の創建は、約1600年前までさかのぼるという。国史にその名を残す息長足比売命(神功皇后)の御代である。仲哀天皇のなきあと、自ら大陸に渡られる折り、皇后は当地に滞在され、裏の山の頂きに祭壇を設け、「天命を奉じて彼の地に渡らむ、希わくば開運を垂れ給え」と、祈願して船出された。これより、彼の地を「宮地」と呼び、彼の山を「宮地嶽」と称するようになりここに、本山は息長足比売命の有名不可思議な御偉業を称え、御祭神と祀り、ともに功労をなした勝村・勝頼両神とあわせて、宮地嶽三柱大神と崇め、世の崇敬を集めている三つの日本一大注連縄(おおしめなわ):直径2.5m、長さ13.5m、重さ5t大太鼓:直径2.2m、重さ1tの牛の一枚皮で作られている。大鈴:直径1.8m、重さ450kg
不動神社

日本最大級の石室古墳(不動神社)
宮地嶽中腹の不動神社を祀る日本最大級の巨石古墳が発見されたのは、250年以上まえの事です。この石室は、6世紀末から7世紀始めのものといわれ、全長23mという大規模な石室は、高さ幅とも5mを超す大きな石を積み重ね作られたものでした。古墳からは、馬具、刀装具、緑に輝く瑠璃玉やガラス板など、およそ300点が発見され、どれも第一級のすばらしいものであり、そのうち十数点は重要国宝に指定されています。この地に君主した氏族の繁栄と富みを象徴する、まさに地下の正倉院といえます

津屋崎千軒町並み
海上交易と塩田により繁栄した津屋崎を人家が千軒もあるほどに繁栄している町だと表現した言葉で、かつて芦屋千軒・関(下関)千軒と並び称されました。津屋崎千軒と呼ばれた町並みは、今も昔の趣を残し、ひっそりとたたずまいを見せていて義民六士の墓がある教安寺、祇園山笠の波折神社、四十七士を祭る新泉岳寺、津屋崎人形、古い造り酒屋などが並び、ノスタルジックな気分にさせてくれる。
豊村酒店
創業は一八七四(明治七)年。新宮町にあった造り酒屋「豊賀」の豊村喜蔵の二男喜三郎が、流通の利便性を考え、当時、海上交通の拠点として栄えていた津屋崎町に、敷地約三千三百平方メートルの酒蔵を開いた。 大正末期には津屋崎、福間両町にまたがる第二工場も設けたが、日中戦争などの影響で一九四一(昭和十六)年、第二工場は閉鎖に追い込まれた。現在は地元宗像市郡が主な出荷先。年間、一升瓶で四万本ほどを生産している。 主力の銘柄は「豊盛」。酒米は、大吟醸には山田錦、純米や本醸造などにはレイホウを使っている。上品で口当たりが柔らかく、飲みやすいのが特徴だ。十年前からは近くの豊桝屋酒店のオリジナル商品「恋の浦浪漫」も手がけている。 家屋はかつての勢いを物語る重厚な造り。特に玄関を入ってすぐの空間は、黒光りする太い柱、高い天井には一抱えほどもある太いはりと、堂々とした構えを見せている。九八年秋にはテレビドラマのロケにも使用された。 津屋崎漁港に近く、海岸沿いの県道を約二百メートル入ったところにある。豊村源治社長は五代目。従業員六人。年間売上高約四千万円。電話=0940(52)0001。
豊村酒造 豊村酒造の竜の鏝絵を背景にした杉玉。
藍の家
藍の家(津屋崎千軒民俗館)
この建物はもと染物屋(寛政年間 およそ200年前創業の藍染を主体とした染物紺屋)の家で、五代目上妻善兵衛さんが明治34(1901)年8月に建築したものです。かつて「町屋形式」を示す建物で、毛縁地区の当時の状態がよく残しています
現在は展示場などとして利用されています。また、一階座敷の欄間には「博多東中堅町 彫刻し近藤丑太郎」の署名・捺印があり、この家の欄間彫刻はすべて彼の作品と思われます

塩木を使った梁組 彫刻師 近藤丑太郎の署名がある欄間
波折神社 
波を折り、漁師を救った神様
旧町部の中心にあるこの神社の由来はその昔、漁師3人が沖合で釣りをしていると、急に海が荒れ始めました。神様に祈ると三神が現れ、その助けによって、荒波を折ってやっと鼓島に漂着、波風が収まるのを待つことにしました。待っている間に食べ物がなくなると、また神様が現れて食べ物を与えられ、飢えをしのぐことができました。波風が収まり、神様が去ったあと、気が付くと船に三つの石があったので、漁師たちはそれを持ち帰って神体とし、社を建ててお祭りをしました。それで、波折神社というようになったとのことです
東郷公園 (大峰山自然公園)
「皇国の荒廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」
明治38年5月27日、日本海において世界海軍史上でも類まれな戦法で、ロシアバルチック艦隊に完勝した勇将東郷平八郎。日本海海戦の古戦場・玄界灘をはるか見晴らす大峰山上に、東郷元帥を祀つり、その偉業を後世の人々に語り伝えているのが、この東郷神社です。
この神社は、東郷元帥の偉業に深く感銘した、津屋崎町出身の獣医故安部正弘氏(明治20年〜昭和46年)が、大正11年から50年の歳月をかけ、多数のご賛同とご支援をいただきながら創建したものです。
この神社は、神明造りの神殿、はにわ型の拝殿を持っています。境内の宝物館や三笠会館があります。宝物館には戦艦「三笠」の模型をはじめ書簡など、東郷元帥ゆかりの品が展示されています。
大峰山の山頂には日本海海戦碑が建っており、通称”東郷公園”と呼ばれています。昭和57年からは、県営自然公園(玄海国定公園)事業が進められ、玄界灘に浮かぶ島々や町を一望できる展望園地、自然の樹木や野鳥の観察が楽しめる自然観察園地などがあります。
また、ヤブツバキなどの原生林をぬって整備された自然歩道は、「福岡県森林浴百選」にも指定されています。春は、「桜の名所」としても有名で、家族連れやグループの手軽なハイキングコースとなっています。
天降神社