第18回  歩こう会 本文へジャンプ

 

 長崎街道・冷水峠越え  【内野宿〜山家宿】を歩く    
 (日時)  平成15年10月21日(火)      (参加人員)  28名
 (コース) JR山家駅⇒JR内野駅⇒内野宿散策⇒老松神社⇒発峠⇒鳥居⇒石畳の道⇒首なし地蔵⇒石畳の道⇒冷水峠(昼食)⇒R200号線⇒農道 ⇒吉野・長崎屋⇒地蔵堂・猿田彦⇒上西山バス停⇒山家新町バス停⇒山家宿散策⇒JR山家駅前       (全距離12km 歩行8km)
江戸時代に天領長崎と豊前小倉を結ぶ「長崎街道」は、鎖国の時代にあって外国に向って開かれた「文明の道」でした。10月21日(火)天気晴朗、JR筑豊線内野駅に28名が集合。午前中は当時の風情がよく残っている内野宿の散策と街道一の難所と言われた「冷水峠越え」に挑みました。途中麓から標高283mの峠まで道幅3mの表面は石畳で舗装されており、当時構造に当たった人々のご努力に感銘を受けながら元気に登りました。お昼は、峠の茶屋があったところで、木立からもれる柔らかい日ざしと心地好い秋風を受けながら楽しい昼食となりました。午後は下り坂、今は農道・畦道化しているが「かっては長崎街道だったんだ!」と当時をイメージしながら歩きました。本日のゴール地点は筑紫野市の山家宿。偶然出会った古老の方より宿場の歴史などをお聞きしJR山家駅で解散。途中歩行困難な地域はバスで移動(4km)したため、当日の歩行は8km。
山家宿 内野宿
山家は江戸時代、長崎街道の中でもたいへん栄えた宿場町でした。特に、「原田(はるだ)、山家(やまえ)、内野(うちの)、飯塚(いいづか)、木屋瀬(こやのせ)、黒崎(くろさき)」は、筑前六宿(むしゅく)と呼ばれ、江戸と長崎を結ぶ街道として、大切な働きをしていました。九州の諸大名や長崎奉行、オランダ人、日田代官など数多くの人たちが山家を通って江戸と九州を往来しました。今でも、お茶屋(本陣)の屋敷あとや、構口(かまえぐち)(宿場の入口)古い土蔵など宿場のおもかげが残っています。山家の宿場ができたのは、黒田長政が筑前の国の領主になり(1600年)家臣の桐山丹波(きりやまたんば)を山家宿の初代代官に命じた時につくられたと考えられています。
長崎街道は江戸時代、小倉−長崎間57里(約228km)を25ヵ所の宿場で結んでいました。そのうち筑前六宿は大名の参勤交代の道として大きな役割を果たしたほか、寛永14年(1637)の島原の乱では軍事的効用を発揮しました。また、鎖国時唯一の外国との窓口であった長崎と江戸とを結ぶ交通路としてシーボルトやケンペルなどの外国人やゾウやラクダといった様々な文物も通った文明ロードなのです。内野宿は慶長17年(1612)後の大隈城主・母里但馬守友信が命を受け建設に当たりましたが大隈に移封されたため、内野太郎左衛門が引き継いで建設しました。開通した年代は、はっきりしませんが慶長の末から寛永の初め頃と言われています。福岡藩がその開通を急いだのは参勤交代の諸大名が福岡城下を通過するのを嫌ったためと言われています。
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山家宿 宿場跡 山家宿 長崎街道 長崎街道

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                      内野宿脇本陣長崎屋前                 山家(上西山 太田専一さんを囲んで)


内野宿本陣

内野宿は慶長17年(1612)後の大隈城主・母里但馬守友信が命を受け建設に当たりましたが大隈に移封されたため、内野太郎左衛門が引き継いで建設しました
内野宿散策

開通した年代は、慶長の末から寛永の初め頃と言われています。福岡藩がその開通を急いだのは参勤交代の諸大名が福岡城下を通過するのを嫌ったためと言われています
老松神社
冷水峠へ
冷水峠
石畳道

山家から冷水峠を越えて内野に至る区間は、ほぼ当時の石畳が残っており、平成八年文化庁選定の「歴史の道百選」に選定されました。
山家の宿
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山家は江戸時代、長崎街道の中でもたいへん栄えた宿場町でした。

上西山地区
 にて
上西山地区
 にて

山家の宿場ができたのは、黒田長政が筑前の国の領主になり(1600年)家臣の桐山丹波(きりやまたんば)を山家宿の初代代官に命じた時につくられたと考えられています
山家宿
郡屋跡にて
深町氏


郡屋とは、郡内の村役人の集会所のことで筑前六宿をはじめ、主要な宿場に置かれていました
山家宿
西溝口

「構口 かまえぐち」とは、宿場の出入口に設けられた門塀のことです
内野宿から冷水峠へ向かう長崎街道 当時の道幅を完全にとどめている所 山家宿から冷水峠へ向かう往年の長崎街道(オランダ商館長、シーボルト、ケンペルなどもこの道を通りました)