山家は江戸時代、長崎街道の中でもたいへん栄えた宿場町でした。特に、「原田(はるだ)、山家(やまえ)、内野(うちの)、飯塚(いいづか)、木屋瀬(こやのせ)、黒崎(くろさき)」は、筑前六宿(むしゅく)と呼ばれ、江戸と長崎を結ぶ街道として、大切な働きをしていました。九州の諸大名や長崎奉行、オランダ人、日田代官など数多くの人たちが山家を通って江戸と九州を往来しました。今でも、お茶屋(本陣)の屋敷あとや、構口(かまえぐち)(宿場の入口)古い土蔵など宿場のおもかげが残っています。山家の宿場ができたのは、黒田長政が筑前の国の領主になり(1600年)家臣の桐山丹波(きりやまたんば)を山家宿の初代代官に命じた時につくられたと考えられています。
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長崎街道は江戸時代、小倉−長崎間57里(約228km)を25ヵ所の宿場で結んでいました。そのうち筑前六宿は大名の参勤交代の道として大きな役割を果たしたほか、寛永14年(1637)の島原の乱では軍事的効用を発揮しました。また、鎖国時唯一の外国との窓口であった長崎と江戸とを結ぶ交通路としてシーボルトやケンペルなどの外国人やゾウやラクダといった様々な文物も通った文明ロードなのです。内野宿は慶長17年(1612)後の大隈城主・母里但馬守友信が命を受け建設に当たりましたが大隈に移封されたため、内野太郎左衛門が引き継いで建設しました。開通した年代は、はっきりしませんが慶長の末から寛永の初め頃と言われています。福岡藩がその開通を急いだのは参勤交代の諸大名が福岡城下を通過するのを嫌ったためと言われています。 |